締め日の優雅な攻防戦 3

文字数 2,709文字




 やがて、コールが止み、ホストたちは散り散りになる。律がいる卓席を見て、女性が鼻を鳴らした。

「なんだ、おばさんじゃん」

 となりで同じように見る拓海も、笑う。

「あの人初めて見るから、そんなたいしたことな……うぇ?」

 拓海の席からも、見えた。律の卓席に置かれているボトルが。

 酒好きなら誰もがその名を耳にする最高級ワイン、ロマネコンティ。原価もさることながら、ホストクラブでの値段はさらに跳ね上がる。
 Aquarius(アクエリアス)では時価に応じながら四百万以上で提供される。どのホストクラブでも三百万はくだらない。

 拓海と女性が頼んだエンジェルシャンパンは、Aquarius(アクエリアス)価格で五十五万円。比べ物にならなかった。

 近澤は二人の卓席に顔を向け、意地悪く笑い返す。強者の余裕だ。

「どう? もしかして私、今日ラスソン歌ってもらうことになるんじゃない?」

 律は苦笑した。

「あ~。そうですね。でも俺いつも歌わないので」

「え? なんで? ヘルプの誰かに歌わせたらいいのに」

「ですので、いつも二位の子に歌わせてます」

 ピースにした手を見せながら、無邪気に笑う。

「あー……今のであんたがいかに敵が多いか、わかった気がする」

 すでに開いているロマネコンティを、近澤のグラスに注いだ。

「一応聞きますけど、コールはよかったですか?」

「ここVIPも来るような高級店でしょ? 高級店であのノリは好きじゃなくって」

「そう言うと思いました」

「ワインも自分で飲むし。……あんたも飲みな。ああ、酒弱かったんだっけ?」

 近澤は律がもっていたボトルを奪う。律の前に置かれたグラスに少し注いだ。

 優雅に乾杯をして、口をつける。

「まあ、マイクパフォーマンスで嫌味の一つくらいは言ってもよかったかな」

「近澤さんの場合ゴングが鳴って試合が始まりそうですね」

「どういう意味よ?」

 くすくすと笑う律に、近澤はあきれたため息をつく。

「まあいいわ。あの顔見れただけで十分だから」

 ほら見なさい、と近澤は拓海の卓席に顎をしゃくる。

 ちらりと見たその席で、女性が顔をゆがませながらこちらをにらんでいた。拓海が必死に機嫌を直してもらうよう話しかけるものの、女性は相手にしていない。

「……ネットに書き込まれたとしても大丈夫よ。あんた伊達(だて)にナンバーワンじゃないんだから。ほんとうにやばそうだったら私がなんとかしてあげる」

 律は遠慮がちにワインを飲んでいく。

「お気遣いはありがたいのですが……。これ、会社のお金だったんじゃないですか? 大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。痛手だけど、私のポケットマネーだから」

「なおさら申し訳ないですよ。俺のためにすみません、近澤さん」

 近澤の口角が、自信満々に上がった。

「ほんと、あんたに一杯食わせられたわ。同業者をわざわざここに呼び寄せて、一緒になってバカにされるっていう演出仕組まれたんだから」

 近澤も、律と同じだ。社長として、いくつもの風俗店を束ねている。

 近澤がAquarius(アクエリアス)を訪れるのは、あくまでも仕事の話をするためだ。高級なシャンパンはめったに頼まない。
 近澤の言うとおり、先ほどの状況はイレギュラーだ。腹を立てて身銭を切ったに過ぎなかった。

 律は苦笑しながら手を振る。

「演出だなんてまさか。そんなつもりは全然」

「わかってる。きっと、店長やらスタッフやらがたくらんだんでしょ。金持ってるってバレてるから」

 持っていたワイングラスをくるくると揺らす。中のワインが滑らかに回る。

 グラスにうつる近澤の顔は、冷ややかだ。

「調子に乗るなって話よ。こっちは、使ってあげてるの。雇うか決めるのも店、売れるよう設定を考えるのも店、客がつくよう写真をなおさせるのも店、宣伝するのも店。簡単にトンズラできるお嬢ちゃんとは、違うの」

 拓海の卓席にいる女性には、届くことのない声量だ。

「一労働者が、経営者にたてつこうなんて、身の程知らずもはなはだしいわ」

 こちらをにらんでいた女性は、親指の爪を噛み始めた。対応に困った拓海は、もうなにも話そうとしていない。

 近澤は鼻を鳴らし、グラスに口をつけた。

「あんたもなかなか大変ね。あんなのに敵視されるなんて。いつもああなの?」

「そんなことは」

「うまくいかないことも多いんじゃない? 病んで辞めちゃうような子もいるでしょ?」

「ですね。でもこれも仕事のウチですし、気にしたら続けられませんよ」

「そうよね。あんたはそういう男よね。だから私、あんたのことが信じらんないの」

 瞬間、周囲の空気が重苦しいものに変わる。

「問題のある女の子にお金を貸すのは、どう考えても愚策でしょ。とっととクビにするべきだったのよ」

 律を見る近澤は、冷淡な経営者の顔をしていた。律も、経営者としての神妙な顔を向ける。

「確かに、おっしゃるとおりです。……が、今思えばあれが最善でしょう。クビにするのは、いろいろと角が立ちますからね。あの子の性格ならごねにごねたでしょうし」

「自分の身銭切ってでも追い出せてよかったって? ポジティブに考えすぎじゃない? とことん女に甘いわね、あんたは」

「過ぎたことより今からのことを考えるほうが賢明です」

 近澤は息をつき、グラスに口をつけた。中身がなくなると、言われる前に律が注ぐ。近澤はグラスにゆっくりと注がれるワインを見つめ、口を開いた。

「そっちんとこの部長から、連絡が回ってきたからね。資料を届けるついでに聞いたのよ、いろいろ」

「そうですか」

「来てるよ、ウチに」

 律は注いでいたワインをあげ、テーブルに置く。

「箱ですか?」

「うん。でもソープね。給料にひかれて来たんでしょ。ウチは比率が多いほうだから。……よかったね。地方にも海外にも飛ばれてなくて」

「地方に行く度胸も海外に行くほどの知識もないような子です。それはないと思ってました」

「おぉ……結構いうねぇ……」

 ワインに口をつけた近澤は、グラスを揺らす。

「そっちのスタッフにはもう連絡入れておいたから。あとはこっちに任せといて。あんたの借金を返すまでは絶対に辞めさせない」

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」

 頭を下げる律に、近澤はびしっと指をさした。楽しそうに、いたずらっぽく笑っている。

「一個、貸しね。いつかは返してもらうから」

「……近澤さんならそう言うと思ってました」

 苦笑する律の反応に、近澤は喉を鳴らす。細めている目から、感情が消えた。

「どうせウチを逃げ出したところで、あの子の居場所なんてない。辞めることすら、もうできないわよ」

 近澤はワインを一気に飲み干す。律にグラスを向け、おかわりを催促した。律は営業用の笑みを浮かべ、ワインを注ぐ。

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