第43話

文字数 1,929文字

 呟くような言葉だったが、私は合点がいった。
「それは……天職なんじゃ」
 安浦は急に微笑んで、
「あたし。人をもてなすのが好きなの。大好き。小さい頃から……」
「そうなのか。俺はメイドとかよく知らないが……。ま、いいか」
 安浦は顔を上げた。
「ご主人様! 大好き!」
 私の手を思いのほか強く握り、私も柔らかく握り返した。
 そんな二人の後を何かが走ってきた。
「あぶねえぞ! コラァ!」
 私は咄嗟に安浦の手を引張り、こちら側に引き込んだ。
「危ないじゃないか!」
 私は生まれて初めて人のために怒声を発した。よく見ると……渡部だった。
 蕎麦の重箱を片手に担いで、片手で自転車を器用に運転している。
「あ、赤羽さん?」
 どうやら、出前中のようだ。渡部はこちらに謝ると人混みの間を器用に走り去って行った。
「渡部くん。お蕎麦屋のバイトしているんだ」
 安浦が感心しているが、私は渡部の急な性格の変化のほうに、呆気にとられていた。乗り物に乗ると、性格が変わるのだろうか?
「なんか、お蕎麦食べたいな、あたし」
「俺も」
 私たちは金が惜しいので、立ち食い蕎麦屋を探しだした。
 渋谷は平日でも電車の昇降量は一日平均60万人。見渡す限り、人、人、人。とても賑やかで、若者に人気で、恐らく渡部はこの近辺にちょくちょく来るのだろう。彼の歌の精神はこの若者の街からきているのかも知れなかった。
 車のリズミカルな騒音の風を感じ、灰色だが活気がある空を感じる。そんな自由な歌声は渋谷の雑踏が産んだのだろう。

 立ち食い蕎麦屋の中は、午前11時の時間帯のせいで人が疎らだった。
「ねえ。ご主人様。私、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「解った」
 安浦は近くの洋服屋にパタパタと駆けて行った。
 私は蕎麦を啜る。
 今日は生き抜きで、遠い場所で遊んでいる。渡部と初めて現実の世界で出会った。
 それから、時間が大分経った。余りにも遅いので携帯の時計を見ると、午後の1時30分。私はとっくに食べ終わった蕎麦と、安浦の食べ掛けの蕎麦は残して、立ち上がった。
 安浦の入った洋服店へと勘定を済まして走り出す。
 何かあったのは間違いない。
そう思いながら全速力で走っていると、私は急に立ち止った……辺りの雑踏がしない。
私は周囲を見回す。回りの人々は微動だにしない。そして、目の辺りが暗くなっていた。
「な!?」
 私は咄嗟に身構える。別に格闘技を心得ている訳ではないが。身の危険を感じたのだ……。回りの人々は微動だにしなかった。
 私は極度に緊張しながら、周囲を気にしながら安浦のいる洋服店までゆっくりと歩く。
 周囲の人の何人かがこちらを向いた。
 すると、私に向かってじりじりと歩きだした。
 最初は20代半ばの茶髪の男が私に殴りかかってきた。
 それから、サラリーマン。OL。
 私は必死で応戦する。
 拳、蹴り、頭突きなんでもした。興奮はピークを過ぎていた。
 また、人々が数人囲んできた。私は頬を殴られながらも、腹に蹴りを入れられながらも、背中を殴られながらも。まるで、狂ったように各々を叩きのめす。
 私はでこぼこの顔で、生き抜くことと、安浦のことを考える。もう、ゴルフ場の時の呉
林の犠牲は御免だった。あんなに自分に落胆をするのがどうしても嫌だった。
「どけー! どけー!」
 自転車が微動だにしない多くの人々の間を縫って、走ってきた。渡部である。
「赤羽さーん! 大丈夫ですかー!」
 渡部も参戦した。
「安浦があの洋服店に入って出てこないんだ! 何かあったらしいんだ!」
 渡部は頷くと、拳に力を入れる。
 二人とも数秒で痣と血だらけになる。
 空には赤い、巨大な月が現れた……。
 
 何本も歯が折れたようだ。腹の中の蕎麦はとっくに吐いた。血を吐くまでのリンチが止まった。何十人と戦ったのだろうか。渡部は数分前に蹲った。私は血だらけの体をコンクリートから引き剥がして、立ち上がり、ボコボコになった顔で、安浦の入った洋服店を見つめていた。
 安浦は無事だろうか……。
 口の中が鉄臭い。体の到る所がズキズキする。けれども、歩きだす。安浦の入った洋服店へ。
 洋服店が突如明々とし、炎上する。建物の到るところから炎が顔を出した。
 私は茫然と立ち尽くした。
「安浦……」
 私はぱつりと言った。涙が滲みでる。頭の中が真っ白になる。
「赤羽さん。……諦めないで下さい」
 蹲った渡部の弱い声が耳に入る。
「きっと、安浦さんは無事です……」
 渡部はそういうと、力なく血を吐く。
「解った」
 私は最後の力を振り絞り、安浦の入った洋服店へと歩きだした。
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