第57話

文字数 2,134文字

「ご主人様か……メイドごっこかい」
 上村が特殊な冷やかしをしてくる。
「ええ。ちょっと」
 私は照れて尻つぼみに言った。
 どうやら、前払いのようだ。それと、私と安浦の分も支払ってくれていた。
「時間。何時間にするか?」
 中村の勝手知ったる気楽な声に私は安浦の方を見る。
「3時間がいい。あたし歌えるもん。それとありがとうございます。」
「それじゃ、3時間で。楽しくなりそうじゃない。中村さんからマイクを3分置きに奪わないと。……彼女とメイドごっこ……羨ましいよ」
 上機嫌の上村は私の肩を軽く叩く。
「メイドか……」
 中村は意味深な表情を作る。
「俺。歌ったことがないけど……」
 しきりにキョロキョロとするカラオケ初心者の私は、どうしていいか解らない。
 安浦が自信満々で、
「大丈夫です。私もマイクを中村さんと上村さんから奪いますよ。ご主人様も手伝って」
 どうやら、カラオケとはマイクの奪い合いをするところなのだろう。
 防音がされているらしい個室に入ると、早速、安浦と中村・上村はマイク争奪戦をする。私は歌ったこともなく、また、知っている歌もなく。ただ、烏龍茶を舐める。
 一番は安浦だった。
 コロコロするような歌を歌いだした。どんな歌かも知らない歌なので、可愛いとしか思わない。


 次の勝者は中村。悔しそうに光っている上村の頭は、しばらく置いておいて。
 今度は中年の歌が流れた。……眠くなる歌……。
 次の勝者はまたもや安浦、上村の頭は、置いておいて。
 また、ころころした歌だった。こっちは眠くならない。
 かれこれ3時間後……終わりが近ずくと、
「赤羽くん。一曲歌ったら」
 中村がマイクを突き出した。私は断るのも後味がよくないので、
「解りましたよ。仕方ないっス。歌いますよ」
 私はふざけて軽い口調を発した。
「きゃー! ご主人様の歌! 歌!」
 今まで何時間とマイクを奪い合っていた安浦が喜々とした。
「俺、全ッ然歌ってねー!」
 上村の頭は、やっぱり置いておいて。
「何にしようかな?」
 私は百科事典ほどもある分厚いページを捲り一曲を探す。出来れば歌いやすいものがいい。
「ご主人様。あたしと、デュエット。デュエット」
 安浦がもう一つのマイクに飛び掛かる。私はデュエットというのが解らず。
「これにする」
 適当……。
「やったー!あたしの好きな歌!しかも、ご主人様とデュエット!」
 二人の歌声が個室に溢れる。
 安浦のコロコロした歌と、私の……取り合えず声が流れて、個室を満たす。初めてカラオケという所で歌った歌は悪くなかった。何と言うか……みんなの前で歌うので、気恥しい。けれど、みんな聞いてくれるので清々しくなり、渡部の気持ちが少し解るような気がした。
 カラオケはまずまずだったな。これなら、また来ようかなとも思う。こんな楽しい時を少しでも過ごせたことに気持ちが安らいだ。今までの悪夢や混乱ばかりですっかり参っていた自分に少し栄養を与えられたかも……呉林たちも呼んだら楽しいかも。
私と安浦を乗せて中村の自動車が、みんなの高揚した精神よろしくハイスピードで土浦駅に着く。上村を除いて……。

「ありがとうございましたー」
「中村さん。上村さん。ありがとうございます」
 安浦もとてもいい気分転換が出来て、快活な感じになっていた。
「仕事に根詰めるのもいいが、気分転換に根詰めるのもたまにはいいだろう。」
 中村は出っ張った腹から声を出した。歌い過ぎで喉が痛いのだろう。
 私は大抵はパチンコや競馬で湯水のように金を使って、一人で遊ぶたちだったが、この時、いや、少し前からこんな感じの清々しい気分を感じられるようになった。
「また今度もお願いします」
 私は心からそう言った。
「うん。また一緒に行こうよ」
 こっちはいかにも普通な声の上村。
「また、仕事を頑張りましょう。ご主人様」
 私は一曲しか歌っていないが初めてだからか喉が渇いていた。安浦も行きたがり土浦駅の近くのコンビニで、また飲み物を買うことにした。私たちは弾むように歩き出し、南米に行くための活力を得たことに二人で嬉しがった。
飲み物を漁って上機嫌でコンビニのレジに並んでいると、
「お兄ちゃん。またお願いね」
 私の脇からサイダーを持った手が、にゅっと出てきた。また、あの浮浪者だ。上機嫌の流れで私は嫌な気分一つせずに、会計を済ましてあげようかと思い。そのサイダーを受け取った。
「ご主人様。優しーい」
 隣から安浦がにこにこしている。
 会計を済ませると、浮浪者はにっこりして、私に、
「よ。お兄ちゃんに、いいにこと教えてあげようか」
 浮浪者は目だけは笑っていないが笑顔で話しかけている。その時の老人は若々しく精悍な顔をしていた。
 私は不思議とこの浮浪者に心を許そうとする気持ちがあった……。
「夢の世界ってのがあってだな。その世界で死ぬと、元の世界に二度と戻ってこれないんだ。だから、どんなに怖くて危険な夢の世界でも死ぬなよ。今の夢の世界はそういった恐ろしい世界になっているんだ。解ったかいお兄ちゃん」
 私と安浦は驚いて浮浪者の顔を見た。
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