第11話 片翼飛行
文字数 5,437文字
寝台の上に胡座をかいて、彼は微睡 んでいた。
所はカヌカ祈祷拠点の兵舎に焼け残った一室である。ディルハディとの一戦の後、オショウは一人、この部屋で休息を取っていた。否。正確には、取らされていた。
兵たちの治療と情報交換に駆け回るケイトへ付き添おうとしたところ、
「これまでずっとオショウ様に頼りっぱなしですもの。少しはわたくしに任せてくださいませ」
とにべもなく断られ、そのままここへ押し込められたのである。ケイトは時折、逆らい難く強引な娘だった。
しかし、実際に疲労が深いのも確かである。
このままでは十全の働きをしかねると、兵士としての本能が告げている。故にオショウは浅く眠った。それは同時間の数倍、数十倍の睡眠効率を誇る瞑想法によるものである。
不思議な事に、夢は見なかった。
従軍複製僧兵の精神安定上の措置として、睡眠を取れば刷り込まれた記憶が、「和尚様」と慕われる己の姿が現れ出るのが常である。
しかし今日、彼はその夢を見なかった。
ただひどく澄んだ笑みをする少女の横顔が、眠りの淵を過 ぎったように思う。
束の間の平穏を破ったのは、小さなノックの音だった。
まぶたを開きながら応じると、ドアを開けて現れたのはケイト・ウィリアムズである。手にした盆には、湯気の立つティーポットと、ふたつのカップとが乗せられていた。
「申し訳ありません。おやすみでしたかしら」
オショウがベッドにいるのを見て取って、ケイトがちょこりと謝罪をする。首を振って否定してから、おや、と思った。
彼女の出で立ちが変わっていた。
ひとまとめに結った髪を後ろに流し、青色の兜を目深に被っている。籠手を嵌めた左前腕には固定式の小さな盾。鎖帷子を纏った腰には剣をひと振り釣り下げて、すっかりの戦支度だった。
「……似合いません事?」
オショウの視線に気づいて、少し拗ねたようにケイトが言う。盆から外した片手が動いて、気忙しく兜に、鎧に、剣に触れた。
簡素な武具は華美な衣服よりも余程に彼女の魅力を引き出すようで、まるで戦乙女のような凛々しさがある。問われてそう思いはしたものの、オショウの舌は動かない。女の装いを褒めた経験はなかった。
応答がないのに内心落胆しつつ、ケイトは幾分か早足に歩いて、備え付けのテーブルに盆を降ろした。バランス感覚が良いらしく、茶器はこそりとも音を立てない。
空いた両手で兜を外し、きょろきょろと置き場を探してから、寝台の足側に乗せた。次いで両の籠手もそこへ添える。どうやらこれらを身につけていたのは、手を空けて盆を運ぶ為であったらしい。
それから二脚引き出した椅子の片一方へ腰掛けて、彼女はオショウを手招いた。
「わたくしと同郷の方がいらして、郷里のお茶をわけてもらえましたの。オショウ様にもご賞味いただきたくて、淹れてまいりましたわ」
再びポットを手にするとふたつのカップに分けて注ぎ、どうぞ、と卓についたオショウへ差し伸べる。
背筋を伸ばしてそれを受け取り、そっとオショウは口をつけた。
琥珀色の液体は、紅茶のような芳香を漂わせていた。含めばわずかに渋く、加糖してあるのか、やはりほのかな甘味が続く。舌に熱いほどの温度もあって、甘露のようにじわりと体に染み入った。
取っ手のあるティーカップを、湯呑のように諸手 で包む仕草が可笑しかったのだろう。ケイトが優しく目を細める。
「お口に、合いましたかしら?」
ちびちびと舐めるように味わう図をしばらく眺めてから問うと、「うむ」といういつもの返答に加えて、「美味だ」との賛辞が添えられた。満足して、ケイトはふんわりと笑む。
それからしばし、言葉はなく、けれど満ち足りた沈黙が続いた。
けれど、いつまでもそんな空気に甘んじていられぬのは明白である。
「それではオショウ様、今後についてのお話をしたいと思いますわ。よろしいでしょうか?」
「うむ」
覚悟を固めて切り出したケイトに、オショウはゆっくりと頷いた。
知識感染を受けたとはいえ、それでこの世界の万 に精通したとはとても言えない。
また住職という指揮階級にあったとはいえ、オショウは一兵卒に過ぎぬ身だ。富嶽三十六計を修めた軍師とは異なり、大所高所 の見 はなかった。
よって行動の指針は、彼女に頼るばかりである。
「まず状況ですけれど、少しよくありませんの。ここで合流するはずだったアーダルとラーガムの最精鋭は、わたくしたちが墜とされたとの報を受けて、既に魔皇征伐に出立してしまったそうですわ。ですから」
遠いどこかを見る眼差しで、ケイトは告げる。
「わたくしは 、その後を追います。今、飛龍を用意していただいていますの。上手くすれば追いつけるはずですわ」
含みのある物言いに、オショウが怪訝な面持ちになる。
けれど問いを挟ませず、ケイトはぐっと彼に顔を寄せた。
「ご覧くださいな。わたくしの瞳、今はちゃんと茶色をしているでしょう? でもオショウ様と初めてお会いした時は、大分赤かったはずですわ。あの時案じてくださいましたわよね。『目を悪くしたのか?』と。ええ、実際悪くしたところだったのです。オショウ様をお喚びした時の消耗で色を無くして、少し見えなくなっておりましたの」
口早に、決めてきた文言 を彼女は暗誦 してのける。
「実はわたくし、どんな大規模霊術も確実に執行できる一族の生まれなのです。本来なら儀式と祈祷塔の支援が要るような術だって、独力で起動できてしまうのですわ。ただし術式に不足した分の代償は、命を削っての支払う事になりますけれど」
確定執行のウィリアムズ。
それは彼女が、敢えてオショウへ感染させなかった知識だった。
術式の起動により損耗した生命力は、色の、そして機能の喪失という形で顕在する。ケイトの瞳の色合いの変化も視力の低下も、その現れであった。
だが召喚術式の執行が、数日で回復できる程度の消耗で済んだのはむしろ僥倖と言えた。
もし祈祷塔のバックアップを欠いていたなら、彼女の命はそこで絶えていた事だろう。
「ならば、魔皇必滅の術は」
「はい。オショウ様のご想像の通りですわ。何の補助もなしに、干渉拒絶の一切を無効化して魔皇を討つ霊術式ともなれば、それは異界干渉に比肩する程のものです。きっと命を落とすまで行く事でしょう。ええ、そうですわ」
そこで透明に彼女は笑んだ。
憂いも陰 りも、何もなく。
「わたくし、死にに行くのです。アーダルの太陽とクランベルの聖剣、そしてそれに付き従う方々。彼らの力で魔皇を倒せればよいのですけれど、おそらくは無理でしょう。魔皇の干渉拒絶は五王六武に比しても傍若無人と語り継がれておりますから。ですからわたくしは最終手段。絶対に躊躇ってはならない最終手段なのですわ」
魔皇の下 まで護衛をせよ、と。
彼女は初めからそう告げていた。魔皇を共に討て、ではなく。
「でもオショウ様はお優しいですから、きっと自ら死を選ぶ振る舞いをお許しになりませんわよね。わたくしをお叱りになって、ひょっとしたら体を張って、魔皇に挑んでくださってしまうかもしれません。ですから、こうする事にしました」
オショウが何を言う暇 もなかった。
微かに憂いを帯びた瞳が彼の顔を見つめ、そして囁く。
「契約の対価として命じます。眠りなさい、テラのオショウ」
告げられたのは術式ですらない、ただの言葉に過ぎなかった。
しかし命じられたその通りに、オショウはがくりと卓に伏した。全身が脱力し、糸を断たれた操り人形さながらの有様だった。
起動したのは召喚主の被召喚者に対する、絶対命令権。命を救い世界を渡らせるその代償としてただ一度きり用いれる、自害を命じる事すら可能な強制力である。
大きな力を持つ者を喚ぶ召喚術式に組み込まれた安全弁であり、やはりオショウには教えなかった、これこそがケイトの伏せ札だった。
「勿論──勿論、オショウ様がご同道くださるのなら、こんなに心強い事はありませんわ。でも、それはできませんの」
ため息をしてから立ち上がり、そっとオショウの体を抱きかかえる。四苦八苦の末、どうにかその巨躯を寝台に押し込むと、ケイトは兜を手に取り被り直した。
「だってオショウ様は、わたくしの召喚に応じてくださった方ですもの。わたくしの手を取った方ですもの。それはオショウ様が生きたいと強く望む、何よりの証しですわ。そのような方を死地には伴えません」
小さな独白は震えていた。
決して取り乱さぬつもりだったのに。覚悟など、とうの昔に固めたはずであったのに。
自分は、揺らいでばかりいる。
情けない事だとケイトは思う。
「この身に代えて、魔皇は必ず討ち倒します。後は陛下が万端取り計らってくださるはずですわ。ですからオショウ様はご安心くださいまし。安心して、ここでお待ちくださいまし」
下した令 の効果時間は、およそ一昼夜ほど。彼が目覚める頃には、全てが終わっているはずだった。
少しだけ迷ってからケイトは手を伸ばし、オショウの髪をそっと撫でる。
想像していたよりも、ずっとやわらかな感触がした。
「こんな振る舞いをして、身勝手でひどい女ですけれど。でも最後にお礼を言わせてくださいな。わたくし、オショウ様にお会いできてよかったです。ほんの数日でしたけれど、この旅路はとても楽しいものでしたわ。絶対に楽しいなんて言えないはずなのに、なのにとてもとても、素敵な思い出になりました。この時間がずっと続けばいいのになんて考えてしまうくらいでした。でも、だからこそ。同じように日々を愛 おしむ方々の為に、わたくし参らねばなりませんの。ええ、なんて事ありません。楽勝です。楽勝ですわ」
沢山の大好きで大切なものの為になら、少しも怖くなんてない。そう、自分に言い聞かせる。
ドアを開け、最後に一度だけ振り返った。
「さようなら、オショウ様。幾久しく、お健やかに」
*
小走りに兵舎を出ると、そこには単身、エイシズが待ち受けていた。
「お願いした飛龍は?」
何を訊かれるよりも早く、ケイトは我から声をかける。
露骨な振る舞いだったが、察しのよいエイシズはそれ以上を言わなかった。頬に残る涙の跡についても、何も問わなかった。
「あちらに、用意ができています」
彼の指さす先に、一頭の小型龍が鞍を乗せて蹲 っている。
この祈祷拠点で飼われる、緊急伝令用の飛龍だった。
航続距離と積載量では飛空船に劣るものの、短距離の飛翔速度において遥かに勝る生物である。ケイトはこれで魔軍の頭上を越え、空から魔城へと乗り込むつもりだった。
敵軍の主幹戦力たる五王六武は最早二王を残すのみであり、また同志たる人類精鋭が先行して戦端を開いている以上、魔皇の御座までの潜入は難 くなかろうと踏んでいる。
「ただ、飛龍はどれも気性が荒いんです。特に慣れない人には……」
足早なケイトを追いながら、エイシズが言う。
その言葉の通り、龍は二人を認めると、長い首をもたげて低く唸った。口に枷をつけているとはいえ、その爪も尾も、容易く人を死傷せしめるものだ。
当然ながらエイシズは歩を止めたが、ケイトは意にも介さない。
「大丈夫ですわ。わたくし、動物には好かれる方ですの」
「ウ、ウィリアムズ殿!?」
一方の籠手を外しながら歩み寄り、無造作に龍へと腕を伸ばす。
白い手のひらが幾度かその喉をくすぐると、飛龍は心地よさげにまぶたを閉じ、警戒を解いて首を下ろした。
「ね?」
「……」
得意げに振り向く彼女に、エイシズはやれやれと頭 を振る。
どうやら常識外れなのは、テラのオショウばかりではないらしい。
「ところでターナー様。もうひとつだけ、お願いしてもよろしいかしら?」
不敬な想念を巡らせたところで呼ばわられて、彼はどきりと胸を抑える。
「なんでしょうか?」
「オショウ様の事ですわ。あの方はとても疲れ果てていて、今はぐっすり眠っていらっしゃいます。きっと一昼夜は目を覚まされないでしょう。何もないとは思いますけれど、わたくし、勝ってくるつもりですけれど、でももし万一があった時には、どうかよろしくお守りくださいね」
エイシズが強く、幾度も繰り返し首肯すると、娘は心底からの安堵を浮かべて鞍に跨 った。
「では、行ってまいります」
告げて、ケイトは見惚れそうに透明な笑みを浮かべた。浮かべてのけた。
それは帰らずを覚悟した顔だった。死に場所を見定めた者の横顔だった。
龍が羽ばたき、飛び立つ。
思わず数歩その影を追い、やがて置き去られたエイシズは、背筋を伸ばして敬礼を空へと送る。
彼ばかりではなかった。遠巻きに見守っていた幾人もの兵士たちが、同じように直立不動で彼女の出陣を見送っていた。
いつまでも、見送っていた。
所はカヌカ祈祷拠点の兵舎に焼け残った一室である。ディルハディとの一戦の後、オショウは一人、この部屋で休息を取っていた。否。正確には、取らされていた。
兵たちの治療と情報交換に駆け回るケイトへ付き添おうとしたところ、
「これまでずっとオショウ様に頼りっぱなしですもの。少しはわたくしに任せてくださいませ」
とにべもなく断られ、そのままここへ押し込められたのである。ケイトは時折、逆らい難く強引な娘だった。
しかし、実際に疲労が深いのも確かである。
このままでは十全の働きをしかねると、兵士としての本能が告げている。故にオショウは浅く眠った。それは同時間の数倍、数十倍の睡眠効率を誇る瞑想法によるものである。
不思議な事に、夢は見なかった。
従軍複製僧兵の精神安定上の措置として、睡眠を取れば刷り込まれた記憶が、「和尚様」と慕われる己の姿が現れ出るのが常である。
しかし今日、彼はその夢を見なかった。
ただひどく澄んだ笑みをする少女の横顔が、眠りの淵を
束の間の平穏を破ったのは、小さなノックの音だった。
まぶたを開きながら応じると、ドアを開けて現れたのはケイト・ウィリアムズである。手にした盆には、湯気の立つティーポットと、ふたつのカップとが乗せられていた。
「申し訳ありません。おやすみでしたかしら」
オショウがベッドにいるのを見て取って、ケイトがちょこりと謝罪をする。首を振って否定してから、おや、と思った。
彼女の出で立ちが変わっていた。
ひとまとめに結った髪を後ろに流し、青色の兜を目深に被っている。籠手を嵌めた左前腕には固定式の小さな盾。鎖帷子を纏った腰には剣をひと振り釣り下げて、すっかりの戦支度だった。
「……似合いません事?」
オショウの視線に気づいて、少し拗ねたようにケイトが言う。盆から外した片手が動いて、気忙しく兜に、鎧に、剣に触れた。
簡素な武具は華美な衣服よりも余程に彼女の魅力を引き出すようで、まるで戦乙女のような凛々しさがある。問われてそう思いはしたものの、オショウの舌は動かない。女の装いを褒めた経験はなかった。
応答がないのに内心落胆しつつ、ケイトは幾分か早足に歩いて、備え付けのテーブルに盆を降ろした。バランス感覚が良いらしく、茶器はこそりとも音を立てない。
空いた両手で兜を外し、きょろきょろと置き場を探してから、寝台の足側に乗せた。次いで両の籠手もそこへ添える。どうやらこれらを身につけていたのは、手を空けて盆を運ぶ為であったらしい。
それから二脚引き出した椅子の片一方へ腰掛けて、彼女はオショウを手招いた。
「わたくしと同郷の方がいらして、郷里のお茶をわけてもらえましたの。オショウ様にもご賞味いただきたくて、淹れてまいりましたわ」
再びポットを手にするとふたつのカップに分けて注ぎ、どうぞ、と卓についたオショウへ差し伸べる。
背筋を伸ばしてそれを受け取り、そっとオショウは口をつけた。
琥珀色の液体は、紅茶のような芳香を漂わせていた。含めばわずかに渋く、加糖してあるのか、やはりほのかな甘味が続く。舌に熱いほどの温度もあって、甘露のようにじわりと体に染み入った。
取っ手のあるティーカップを、湯呑のように
「お口に、合いましたかしら?」
ちびちびと舐めるように味わう図をしばらく眺めてから問うと、「うむ」といういつもの返答に加えて、「美味だ」との賛辞が添えられた。満足して、ケイトはふんわりと笑む。
それからしばし、言葉はなく、けれど満ち足りた沈黙が続いた。
けれど、いつまでもそんな空気に甘んじていられぬのは明白である。
「それではオショウ様、今後についてのお話をしたいと思いますわ。よろしいでしょうか?」
「うむ」
覚悟を固めて切り出したケイトに、オショウはゆっくりと頷いた。
知識感染を受けたとはいえ、それでこの世界の
また住職という指揮階級にあったとはいえ、オショウは一兵卒に過ぎぬ身だ。富嶽三十六計を修めた軍師とは異なり、
よって行動の指針は、彼女に頼るばかりである。
「まず状況ですけれど、少しよくありませんの。ここで合流するはずだったアーダルとラーガムの最精鋭は、わたくしたちが墜とされたとの報を受けて、既に魔皇征伐に出立してしまったそうですわ。ですから」
遠いどこかを見る眼差しで、ケイトは告げる。
「
含みのある物言いに、オショウが怪訝な面持ちになる。
けれど問いを挟ませず、ケイトはぐっと彼に顔を寄せた。
「ご覧くださいな。わたくしの瞳、今はちゃんと茶色をしているでしょう? でもオショウ様と初めてお会いした時は、大分赤かったはずですわ。あの時案じてくださいましたわよね。『目を悪くしたのか?』と。ええ、実際悪くしたところだったのです。オショウ様をお喚びした時の消耗で色を無くして、少し見えなくなっておりましたの」
口早に、決めてきた
「実はわたくし、どんな大規模霊術も確実に執行できる一族の生まれなのです。本来なら儀式と祈祷塔の支援が要るような術だって、独力で起動できてしまうのですわ。ただし術式に不足した分の代償は、命を削っての支払う事になりますけれど」
確定執行のウィリアムズ。
それは彼女が、敢えてオショウへ感染させなかった知識だった。
術式の起動により損耗した生命力は、色の、そして機能の喪失という形で顕在する。ケイトの瞳の色合いの変化も視力の低下も、その現れであった。
だが召喚術式の執行が、数日で回復できる程度の消耗で済んだのはむしろ僥倖と言えた。
もし祈祷塔のバックアップを欠いていたなら、彼女の命はそこで絶えていた事だろう。
「ならば、魔皇必滅の術は」
「はい。オショウ様のご想像の通りですわ。何の補助もなしに、干渉拒絶の一切を無効化して魔皇を討つ霊術式ともなれば、それは異界干渉に比肩する程のものです。きっと命を落とすまで行く事でしょう。ええ、そうですわ」
そこで透明に彼女は笑んだ。
憂いも
「わたくし、死にに行くのです。アーダルの太陽とクランベルの聖剣、そしてそれに付き従う方々。彼らの力で魔皇を倒せればよいのですけれど、おそらくは無理でしょう。魔皇の干渉拒絶は五王六武に比しても傍若無人と語り継がれておりますから。ですからわたくしは最終手段。絶対に躊躇ってはならない最終手段なのですわ」
魔皇の
彼女は初めからそう告げていた。魔皇を共に討て、ではなく。
「でもオショウ様はお優しいですから、きっと自ら死を選ぶ振る舞いをお許しになりませんわよね。わたくしをお叱りになって、ひょっとしたら体を張って、魔皇に挑んでくださってしまうかもしれません。ですから、こうする事にしました」
オショウが何を言う
微かに憂いを帯びた瞳が彼の顔を見つめ、そして囁く。
「契約の対価として命じます。眠りなさい、テラのオショウ」
告げられたのは術式ですらない、ただの言葉に過ぎなかった。
しかし命じられたその通りに、オショウはがくりと卓に伏した。全身が脱力し、糸を断たれた操り人形さながらの有様だった。
起動したのは召喚主の被召喚者に対する、絶対命令権。命を救い世界を渡らせるその代償としてただ一度きり用いれる、自害を命じる事すら可能な強制力である。
大きな力を持つ者を喚ぶ召喚術式に組み込まれた安全弁であり、やはりオショウには教えなかった、これこそがケイトの伏せ札だった。
「勿論──勿論、オショウ様がご同道くださるのなら、こんなに心強い事はありませんわ。でも、それはできませんの」
ため息をしてから立ち上がり、そっとオショウの体を抱きかかえる。四苦八苦の末、どうにかその巨躯を寝台に押し込むと、ケイトは兜を手に取り被り直した。
「だってオショウ様は、わたくしの召喚に応じてくださった方ですもの。わたくしの手を取った方ですもの。それはオショウ様が生きたいと強く望む、何よりの証しですわ。そのような方を死地には伴えません」
小さな独白は震えていた。
決して取り乱さぬつもりだったのに。覚悟など、とうの昔に固めたはずであったのに。
自分は、揺らいでばかりいる。
情けない事だとケイトは思う。
「この身に代えて、魔皇は必ず討ち倒します。後は陛下が万端取り計らってくださるはずですわ。ですからオショウ様はご安心くださいまし。安心して、ここでお待ちくださいまし」
下した
少しだけ迷ってからケイトは手を伸ばし、オショウの髪をそっと撫でる。
想像していたよりも、ずっとやわらかな感触がした。
「こんな振る舞いをして、身勝手でひどい女ですけれど。でも最後にお礼を言わせてくださいな。わたくし、オショウ様にお会いできてよかったです。ほんの数日でしたけれど、この旅路はとても楽しいものでしたわ。絶対に楽しいなんて言えないはずなのに、なのにとてもとても、素敵な思い出になりました。この時間がずっと続けばいいのになんて考えてしまうくらいでした。でも、だからこそ。同じように日々を
沢山の大好きで大切なものの為になら、少しも怖くなんてない。そう、自分に言い聞かせる。
ドアを開け、最後に一度だけ振り返った。
「さようなら、オショウ様。幾久しく、お健やかに」
*
小走りに兵舎を出ると、そこには単身、エイシズが待ち受けていた。
「お願いした飛龍は?」
何を訊かれるよりも早く、ケイトは我から声をかける。
露骨な振る舞いだったが、察しのよいエイシズはそれ以上を言わなかった。頬に残る涙の跡についても、何も問わなかった。
「あちらに、用意ができています」
彼の指さす先に、一頭の小型龍が鞍を乗せて
この祈祷拠点で飼われる、緊急伝令用の飛龍だった。
航続距離と積載量では飛空船に劣るものの、短距離の飛翔速度において遥かに勝る生物である。ケイトはこれで魔軍の頭上を越え、空から魔城へと乗り込むつもりだった。
敵軍の主幹戦力たる五王六武は最早二王を残すのみであり、また同志たる人類精鋭が先行して戦端を開いている以上、魔皇の御座までの潜入は
「ただ、飛龍はどれも気性が荒いんです。特に慣れない人には……」
足早なケイトを追いながら、エイシズが言う。
その言葉の通り、龍は二人を認めると、長い首をもたげて低く唸った。口に枷をつけているとはいえ、その爪も尾も、容易く人を死傷せしめるものだ。
当然ながらエイシズは歩を止めたが、ケイトは意にも介さない。
「大丈夫ですわ。わたくし、動物には好かれる方ですの」
「ウ、ウィリアムズ殿!?」
一方の籠手を外しながら歩み寄り、無造作に龍へと腕を伸ばす。
白い手のひらが幾度かその喉をくすぐると、飛龍は心地よさげにまぶたを閉じ、警戒を解いて首を下ろした。
「ね?」
「……」
得意げに振り向く彼女に、エイシズはやれやれと
どうやら常識外れなのは、テラのオショウばかりではないらしい。
「ところでターナー様。もうひとつだけ、お願いしてもよろしいかしら?」
不敬な想念を巡らせたところで呼ばわられて、彼はどきりと胸を抑える。
「なんでしょうか?」
「オショウ様の事ですわ。あの方はとても疲れ果てていて、今はぐっすり眠っていらっしゃいます。きっと一昼夜は目を覚まされないでしょう。何もないとは思いますけれど、わたくし、勝ってくるつもりですけれど、でももし万一があった時には、どうかよろしくお守りくださいね」
エイシズが強く、幾度も繰り返し首肯すると、娘は心底からの安堵を浮かべて鞍に
「では、行ってまいります」
告げて、ケイトは見惚れそうに透明な笑みを浮かべた。浮かべてのけた。
それは帰らずを覚悟した顔だった。死に場所を見定めた者の横顔だった。
龍が羽ばたき、飛び立つ。
思わず数歩その影を追い、やがて置き去られたエイシズは、背筋を伸ばして敬礼を空へと送る。
彼ばかりではなかった。遠巻きに見守っていた幾人もの兵士たちが、同じように直立不動で彼女の出陣を見送っていた。
いつまでも、見送っていた。