第16話 援軍・前

文字数 5,235文字

 張り詰めた場を切り裂いて戦端の嚆矢(こうし)となったのは、ミカエラの矢である。瞬きの間に番え、引き絞り、放たれた数条は、しかし魔皇に触れられずに中空で静止。速度と慣性を喪失して床に転がる。
 イツォルの投じた縄もまた同様であった。ラーフラの上体を狙う矢と合わせて低く飛んだそれもまた、絡みつく事なく力を失い(わだかま)る。僅かなりとも動きを封じられたナークーンとは、干渉拒絶の強度が違う。
 けれど、ここまでは予測の範疇(はんちゅう)だった。
 手槍を構え直したイツォルが即座に駆け出し、その援護として更に数条の矢が走る。
 だが、魔皇は動かない。
 やはり何の痛手も与えられずに矢は地に転げ、渾身の速度を込めた突撃もまた、その胸の前で静止してしまう。

「く……っ」

 急制動に振り回されてイツォルが体を崩す。追撃がなかったのは、間髪入れず魔皇へと放たれた矢のお陰ではないだろう。
 ラーフラは、ミカエラとイツォルの存在を意に介していない。先の会話においても徹頭徹尾、太陽と聖剣、そして確定執行への警戒しか口にしていない。
 まただ、とイツォルは思う。またしても自分は、カナタの力になれない。
 唇を噛みながら飛び退(すさ)り、幼馴染みの前方に陣取った。ミカエラも進み出て、セレストの盾となる位置取りをする。二人の正統詠唱が完成するまでを、我が身を呈してでも守る抜く構えだった。

 アーダルを襲撃した四武、ラーガムを攻めた二王、そしてアーンクとナークーンからの思考伝播により、ラーフラは知り及んでいる。
 弓師と槍使いの後背で紡がれる詠唱が、聖剣抜刀と真夜中の太陽(ラト・スール)のものである事を。双方の術式ともを、彼は一度ならずで見聞していた。
 しかし、魔皇は動かない。悠然と腕を組んだまま、術式の執行を妨げる素振りもない。
 不敵な微笑みを溜めたその眼前で完成したのは、太陽が先だった。
 刹那、皇の間の気温が上がる。
 多層積層型の障壁に隔離されてなお、現出した灼熱は青白く大気を焼き焦がす。

「余裕ぶっこいてんじゃねェぞ」

 セレストの杖が振るわれ、ラーフラを示した。煮え(たぎ)る虚無が魔皇を照準(ポイント)する。 

「燃えて、尽きろ──!」

 前衛の二人が、左右に飛び分かれて軌道を避けた。
 瞬間に液化した石畳を波打たせながら、太陽が飛翔する。宣誓を解いた上で用いれば、五王の命をも奪いうる強力無比の禁呪である。
 それでも、魔皇は動かなかった。
 動く必要がないのだと、口の()の笑みが告げていた。

 熱も炎も、魔皇に届く事はなかった。
 ラーフラに接近した光球に対して干渉拒絶が発動。真夜中の太陽(ラト・スール)はその術式構成を完全に棄却され、忽ちに崩壊して消失する。ロウソクの細い火を吹き消すが如き気安さだった。

「片腕を失い、霊体もまた()がれたのだ、太陽。君が十全であったなら、今少しは熱かったろう」

 ここまで完璧な無効化は想定していなかったのだろう。さしものセレストも二の句が継げない。
 その間隙で動いたのがカナタだった。
 熱された空気の生む陽炎を抜け、未だ余熱の残る床を駆け、恐るべき速度でラーフラへ肉迫。透明な黄金(こがね)の粒子を纏う刃を一閃させる。
 右肩から入って左脇腹に抜ける剣の軌道は、しかし途上に割り込んだ魔皇の腕一本に阻まれた。
 刃は薄皮一枚だけを切り裂いて停止。滞留し繰り返される斬撃もまた、それ以上の傷を負わせるには至らない。

「見事だ」

 自らの腕を伝う黒血を眺めつつ、満足の笑みで魔皇が囁く。

「流石はクランベルの聖剣。私を傷つけうるものだ。だが残念ながら、出力が足りぬようだな。──ナークーンの忠節を讃えよう」

 ラーフラの逆腕(さかうで)が手刀を作り、振るわれた。
 カナタが受ける。聖剣と魔手が衝突し、金属音にも似た甲高い響きが上がった。聖剣の滞留斬撃と魔皇の干渉拒絶、両者がせめぎ合っているのだ。
 そのまま数合を切り結び、追い込まれたのはカナタである。
 近接戦闘における技量のみを問うならば、おそらく彼はラーフラの上を行く。
 だが正統詠唱を経た抜刀とはいえ、聖剣の維持に枯渇しかけの体力が、生命力が根こそぎされているのだ。その状態で激しく立ち回ればどうなるか。結果は自明だった。

 彼の身が危ういと見るや、イツォルが無謀を承知でつっかける。
 雷速のその刺突を、しかし魔皇は片足だけで半歩下がり、身を開く事により回避。カナタの剣を片手であしらい、もう一方で槍の穂先を掴み引く。
 猛烈な力で引き寄せられたイツォルの腹に、ラーフラが拳を叩き込んだ。
 圧倒的な量の霊素を握り込み、半実体化させて打ち付けた一撃である。鈍い音とともに、彼女の体は放物線ではなく直線で壁まで飛び、激しく衝突して床に転げた。
 そのまま、立ち上がらない。糸の切れた人形めいて、力なく手足が投げ出されている。

「イっちゃん!?」

 思わず声を上げた膝に、魔皇の足刀が飛んだ。
 反射的に飛びさがってこれを避けるも、この状況で彼女の下へ駆け寄る事など到底できない。カナタはただ、気遣わしくイツォルを見やるばかりだ。

「咄嗟の判断といい、即席の連携といい、素晴らしいな。実に大した修練だ」

 皮肉ではなく、心底からの感嘆を込めてラーフラは言う。

心魂(しんこん)もまた、不撓(ふとう)にして不屈と見受ける。どの目も闘志を失っていない。だから、君たちは考えているのだろう? まだ勝機はある、と」

 聖剣を受けた腕を(ぬぐ)い、手のひらについた血を払う。そこにもう、傷痕(しょうこん)は見当たらなかった。

「宣誓を解けば魔皇の拒絶とても突破できるに違いない。太陽と聖剣ならば、そこから致命の一撃に至れるはずだ。そのように考えているのだろう? 嬲るのは本意ではない。故に私は告げる。堅きもの、鋭きもの。熱きもの、冷たきもの。いずれに()ろうと無駄なのだ。宣誓しよう。──女の腹より出でしものに、この身、傷つくる事能わず」

 訪れたのは沈黙であり、静けさは絶望の形容として雄弁だった。
 人類という種の構造上、これは解きえぬ難題である。当代の魔皇は、この上なく人との戦いに特化している。

 舌を打ちながら、セレストは思考を高速で巡らせた。
 最優先はカナタだ。
 自分の禁呪は及ばなかったが、あの聖剣は、それでも魔皇を傷つけた。彼を逃せばまた芽は残る。
 だが、この場からの離脱は不可能に近かった。奇しくもカナタ本人が口にした、「誘い込んだ」という言葉。それは全くに正しい。
 皇の間に出入り口はただ一箇所のみであり、一同はその対極に位置する玉座目掛けて、部屋の奥へと踏み込んででいる。つまり、唯一の脱出口から大きく遠ざかってしまっているのだ。
 もしも逃げの姿勢を見せれば、魔皇は即座に妨害に移るに違いなかった。先に見せた、亡霊の如き短距離転移。あれを以てすればこちらの移動を制するは容易い。
 では壁を破壊して、新たな逃げ道を切り開くか。
 有り体に言って、これもまた困難だった。
 ミカエラとイツォルは、そこまで高い破壊力能力を持たない。カナタの聖剣は魔皇にこそ有効であるが、あくまでそれは剣でしかない。分厚い石の掘削には向かない。
 己の禁呪ならば、壁でも床でも溶解させる事が可能だろう。
 しかし事ここに至って、もう一度正統詠唱を通させてくれるほどラーフラが甘いとは思えなかった。

 ──参った。()がねェ。

 自らが語る通り、ラーフラの蜘蛛の巣は徹底している。自分たちは彼に踊らされ、少しずつ判断を誤った。いや、誤らされた。うかうかと虎穴の深くに陥ってしまった。
 それでも、とセレストは杖を握り締める。

「ミカ公」
「うん?」
「なんとかしてくれ」

 呆れ顔で片眉を上げ、相棒は肩を竦めて自身の懐に手を差し入れる。
 つまるところ、結論は同じのようだった。

「悪いな、カナタ。後に繋げる為だ。お前はここから逃げるのを最優先にしろ」
「セム君は引き受けた、と言いたいところだが、彼女どころか我が身の無事も保証もできない体たらくだ。情けない大人どもだと笑ってくれたまえ」

 カナタの返答を待たず、詠唱棄却で執行された炎珠が走る。当然ながら、それらは魔皇に何の影響も及ぼせずにに無効化された。紙片につけた小さな火を、湖面に投げたようなものだった。
 だが(おびただ)しく起動した炎珠のひとつが、ラーフラの正面で着弾なしに爆裂。光と炎を吹き散らす。同時にミカエラが投じた小袋が残り火に投げ込まれて着火、猛烈な白煙を生じて魔皇の視界を妨げた。

「行けッ!」

 セレストの叱咤に、けれどカナタは動けない。状況はわかっている。どうするべきか理解もしている。それでも、見捨てられなかった。人間らしい感情が、甘い理想が、鎖のように彼の足に絡みつく。
 そしてその逡巡は、最悪の形で報われた。 

「もう君たちに出来る事はない。何ひとつとて。ただ、蹂躙されるがいい」

 言葉と共に、煙を貫いて何かが飛んだ。
 それは魔皇の指先に収束し、半実体化した霊素の弾丸である。反応したセレストが即座に障壁を展開、これを弾く。
 が、呪弾は一発二発では終わらなかった。
 魔皇の備える膨大な霊素許容量を背景に、恐るべき連射が継続される。点が連なって一筋の線となるように、途切れ目のない呪弾は呪線と化して負荷を加え続けた。
 無論、防ぎ切れるものではない。忽ちに障壁は破砕され、肩を貫かれたセレストが杖を取り落としす。もう一方の腕ばかりか、彼はそのまま命まで落としていた事だろう。

「ミカ公、お前……!」

 もしそこへ、ミカエラの体が割って入らなかったなら。

「やれやれ。やはり霊術では君に及ばないようだ。こちらの守りは、随分あっさり砕かれてしまったよ」

 呪弾に斬られた(・・・・)背なから血を飛沫(しぶ)き、ミカエラがくずおれる。
 その攻防の刹那を縫って、カナタは今度こそ駆け出していた。
 白煙を押し通り、ただ一直線に魔皇へと。
 依然聖剣は抜刀中だ。詠唱は必要ない。この一瞬、この一撃で魔皇を討てば。全霊の気迫に応じて、刃の纏う光の粒子が厚みと激しさとを増す。
 間合いに入る寸前、ぐっとカナタが身を沈めた。速度を緩めぬまま、前方へと跳ねる。切り込んだ後の形振(なりふ)りを構わない、ただ真っ向から両断する事だけを目的とした太刀筋だった。
 聖剣が、戦慄するほどに美しい弧を描く。
 拳が床を擦るほどにまで低く、カナタの両腕が振り抜かれた。

 ──両腕だけが、振り抜かれた。
 そこに握られた曲刀に、最早刀身は存在しない。
 左右から交差する形で迎え撃った魔皇の両手刀により、聖剣は敢え無く砕け散っていた。
 愕然とカナタが顔を上げる。その足を、ラーフラが無造作に払った。
 魔族の剛力によりカナタの体が宙に浮く。振り抜かれた魔皇の足は神速で翻り、踵へ引っ掛けるように再度カナタを直撃。踏み躙る格好で床へと踏み落とす。
 
「くぁっ!?」 

 血を吐き、それでもカナタはラーフラの足を掴む。だが全身の力を振り絞ろうと、魔皇は微動だにしない。
 それは一方的な戦闘だった。
 否。
 戦闘にすらなっていなかった。じゃれかかる子供を振り払うように、ラーフラは一行を打ち破り、地に這わせた。

「幕を引くとしよう」

 すい、と。
 魔皇の指先が、もがくカナタの額を照準する。霊素が収束する。呪弾が形作られる。必殺の意志に(のっと)って、破壊が解放される。
 だが放たれた一撃は、カナタの眼前に生じた霊術障壁により阻まれた。意図的に(はす)に展開されたそれは、呪弾を真っ向からは食い止めず、巧みに逸らし受け流す。
 そうして──凛と澄んだ声がした。

「まずは挨拶。そう、先走らずに挨拶ですわよね。遅参をお詫びしますわ、皆様。それから初めまして、魔皇様。宴席はもう終わってしまいましたかしら?」

 折れた聖剣、落ちた太陽から完全に目を切って、ラーフラは闖入者に視線を向ける。
 それは一人の少女だった。
 剣を帯び盾を装い鎧兜を身に纏い、栗色の髪をきゅっと後ろに束ねた少女だった。

「いいや、いいや。君という主賓の到着を心待ちにしていたところだ、アプサラスの巫女」
「それは光栄至極ですわね」

 応じながら、ラーフラは大きく玉座まで後退する。躊躇いのない足取りで、その分だけケイトが前に出た。
 ()くて、少女は魔王と対峙する。
 その身にも心にも、一筋の怯えすらないようだった。
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