第52話 deadman walkin’
文字数 2,629文字
豪奢な寝台の上で、ロードシルトはかっと目を見開いた。
蛆の如き彼の体が横たわるのは、爛熟した果実の香りに、腐臭に満ちた一室である。しゅう、と蛇の呼吸を漏らし、彼は恐怖に強張る全身の力を抜いた。
危ういところだった。
あと少し窓を閉める のが遅れていたら、オショウの仏技はこの本体にまで通念していたことだろう。そうなれば魂魄を、我法の源を焼き尽くされていたに違いない。まさに間一髪の命拾いである。
だが使役体、複製体は共に全滅だった。知覚端末の消失は、途方もない喪失感を彼にもたらしている。既にない手足を、もう一度もがれたような感触だった。
しかし――それでもなお老人の口元に浮かぶのは、勝ち誇りの笑みだった。
どうあろうと生きた。どれほど無様にであろうと生き延びた。つまりは、私の勝利だ。この身とこの法さえあれば、再び地に満ちるは難 くない。数を増やすまでは慎重に動くべきだが、次の機にこそあれらの全てを呑み干してくれよう。
ロードシルトはそのように思い、直後、愕然と凍りついた。
本体である彼が身を潜めるこの場所は、ラムザスベルの誰も知らぬ館である。身の回りの世話から始まる日常の全てを、ロードシルトは使役体に行わせていた。己が分身であれば決して自身を裏切らず、この館の秘密が暴かれることもないからだ。
だが使役体が死滅した今、そのことが裏目に出ている。
寝台の上に転がるのは、自力では身動 ぎひとつ叶わない、萎え果てた肉体である。他の力を借り受けねば何ひとつできないのだ。我法も、ロードシルト自身も。
だというのに、その他者がここを訪れることは決してないのだ。
ぞろりと怖気 が心を走る。一種の詰みだった。このままではいずれ飢え乾いて死に至ろう。
――馬鹿な。
戦慄と共に絶叫したかったが、それすらもままならない。ただしゅうしゅうと、腐れた息が漏れるのみ。まるで悪夢だった。
――この私が、そんな死を迎えるなどあるはずがない。
陽光を拒むこの部屋には、時の流れを知る術 がない。じりじりと圧し潰されるような恐怖に晒されたまま、一体どれほどが経ったろうか。
死の足音に責め苛まれる聴覚が、ふと床の軋みを聞き取った。
途端、ロードシルトは喜悦に満ちる。ここを突き止めたクランベルの一味か。はたまたたまさかに館を見出した旅人か。
いずれであろうと構わなかった。
法の圏内に立ち入るなり魂魄を食らってやろうと、邂逅の瞬間へ向けロードシルトは法力を練る。使役体からも執行可能な魂食であるが、その作用力、強制力は本体からが最も強い。また生存の一念により、彼の我法は今、かつてなく研ぎ澄まされている。何者であろうと、これに抗しうるはずがなかった。
軋みは、真っ直ぐにロードシルトの居室目指してやって来る。このことを、老人はわずかも不思議と思わない。がちゃりとドアノブが回り、分厚い木製の扉が押し開かれ。
現れた異形の影に魂食が炸裂する。だが不可視の顎門 は、一切の効力を発さずにただ霧散した。
「ようやくお目にかかれましたなぁ、老公」
何とも言えぬ声音で囁いたのは、両の膝下のない男であった。足があるなら胡坐とするべき格好で、白骨の上に鎮座してる。それは奇態な骨格だった。背骨と肋骨を有するが、腰から下と首から上の骨はない。代わりと言うべきか背骨から六本の腕が生え、それで四つ足の獣のように地を歩むのだ。
――ツェラン・ベルか……!
動揺は、やはり、しゅうと漏れる吐息に終わる。
飼い骨という我法の知識はアイゼンクラーより得ていた。ゆえにこれが死者より聞き及んでの訪問であろうと見当はつく。オショウによって法的なつながりを断たれた使役体の中から、館に出入りしたことのある者を探し当て、骸の案内を受けてここへたどり着いたのに相違なかった。
それよりも解せぬのは、魂食が及ばぬ道理だった。精神に接触するはずの法の手は、何の感触もなく飼い骨の肌を撫でるばかりである。
老人は知らず、しかしそれは自明の理だった。
ツェラン・ベル。
この男の魂は、既にして囚われている。捧げられ、縛られている。死者に。そして復讐に。もう呑まれるべき魂はないと、彼はそのように信仰している。
「いやはやそれにしても老公、無道鎧を呑んだは失策でございましたな。絶大の盾と見えて、ありゃあ己を縛って封じる法だ。判断を誤らせる法だ。事実あれだけの男だったってのに、アイゼンクラーはひたすら自分を悪くも軽くも見続けて、その目を一切疑わなかった。結局、御手前なんぞに仕え通した」
軋みと共に飼い骨は寝台に寄る。骨の上から、彼はロードシルトを見下ろした。
「そんなものを呑み食らうなぞ、我から破滅を取り込むようなものでござんしょう。老公には一体、どんな算段がありやしたんで? もしやフィエル・アイゼンクラーがそうした人間だってのを、まるでご存知なかったんで?」
主従の隔たりを承知した上での皮肉だった。自ら毒薬を飲んだ阿呆を、ツェランは心底嘲笑うのだ。
「一将功成りて万骨枯る――だがな、骨は覚えているんだよ。忘れないんだ。いつまでだって、覚えている」
上体を近づけ、慄くロードシルトの耳元に囁いた。
「何、恐れるこたぁござんせん。これまでの仕業が、御身に返るばかりのことで。老公の骸は手前が飼って進ぜやしょう。為した仕業を自身の口で世に明かし、名声も称賛も残らずすっかり失うように。御名 が誰の口からも軽侮と共に語られるように、取り計らって進ぜやしょう。御手前が営々と積み上げて来たものを、悉く無為としてのけやしょう。集めるばかりだった無駄金を、テトラクラムのために、カナタ・クランベルのために使うなんてのもよろしいですかな」
彼にとっては未来の象徴たるカナタの名を聞き、羨望極まりない老人はかっと目を剥く。そのさまを楽しく眺め、
「あんたはこれから、オレのいいように使い潰されるのさ。食い物にされる心地を、とっくり味わうがいい」
右掌上 であった。
ロードシルトは最早逃れようもなく、骨たちの手の上にいる。
「外法・飼い骨。死んでも 逃がしゃしねェよ」
老人の顔が、果てしない絶望に歪んだ。
蛆の如き彼の体が横たわるのは、爛熟した果実の香りに、腐臭に満ちた一室である。しゅう、と蛇の呼吸を漏らし、彼は恐怖に強張る全身の力を抜いた。
危ういところだった。
あと少し
だが使役体、複製体は共に全滅だった。知覚端末の消失は、途方もない喪失感を彼にもたらしている。既にない手足を、もう一度もがれたような感触だった。
しかし――それでもなお老人の口元に浮かぶのは、勝ち誇りの笑みだった。
どうあろうと生きた。どれほど無様にであろうと生き延びた。つまりは、私の勝利だ。この身とこの法さえあれば、再び地に満ちるは
ロードシルトはそのように思い、直後、愕然と凍りついた。
本体である彼が身を潜めるこの場所は、ラムザスベルの誰も知らぬ館である。身の回りの世話から始まる日常の全てを、ロードシルトは使役体に行わせていた。己が分身であれば決して自身を裏切らず、この館の秘密が暴かれることもないからだ。
だが使役体が死滅した今、そのことが裏目に出ている。
寝台の上に転がるのは、自力では
だというのに、その他者がここを訪れることは決してないのだ。
ぞろりと
――馬鹿な。
戦慄と共に絶叫したかったが、それすらもままならない。ただしゅうしゅうと、腐れた息が漏れるのみ。まるで悪夢だった。
――この私が、そんな死を迎えるなどあるはずがない。
陽光を拒むこの部屋には、時の流れを知る
死の足音に責め苛まれる聴覚が、ふと床の軋みを聞き取った。
途端、ロードシルトは喜悦に満ちる。ここを突き止めたクランベルの一味か。はたまたたまさかに館を見出した旅人か。
いずれであろうと構わなかった。
法の圏内に立ち入るなり魂魄を食らってやろうと、邂逅の瞬間へ向けロードシルトは法力を練る。使役体からも執行可能な魂食であるが、その作用力、強制力は本体からが最も強い。また生存の一念により、彼の我法は今、かつてなく研ぎ澄まされている。何者であろうと、これに抗しうるはずがなかった。
軋みは、真っ直ぐにロードシルトの居室目指してやって来る。このことを、老人はわずかも不思議と思わない。がちゃりとドアノブが回り、分厚い木製の扉が押し開かれ。
現れた異形の影に魂食が炸裂する。だが不可視の
「ようやくお目にかかれましたなぁ、老公」
何とも言えぬ声音で囁いたのは、両の膝下のない男であった。足があるなら胡坐とするべき格好で、白骨の上に鎮座してる。それは奇態な骨格だった。背骨と肋骨を有するが、腰から下と首から上の骨はない。代わりと言うべきか背骨から六本の腕が生え、それで四つ足の獣のように地を歩むのだ。
――ツェラン・ベルか……!
動揺は、やはり、しゅうと漏れる吐息に終わる。
飼い骨という我法の知識はアイゼンクラーより得ていた。ゆえにこれが死者より聞き及んでの訪問であろうと見当はつく。オショウによって法的なつながりを断たれた使役体の中から、館に出入りしたことのある者を探し当て、骸の案内を受けてここへたどり着いたのに相違なかった。
それよりも解せぬのは、魂食が及ばぬ道理だった。精神に接触するはずの法の手は、何の感触もなく飼い骨の肌を撫でるばかりである。
老人は知らず、しかしそれは自明の理だった。
ツェラン・ベル。
この男の魂は、既にして囚われている。捧げられ、縛られている。死者に。そして復讐に。もう呑まれるべき魂はないと、彼はそのように信仰している。
「いやはやそれにしても老公、無道鎧を呑んだは失策でございましたな。絶大の盾と見えて、ありゃあ己を縛って封じる法だ。判断を誤らせる法だ。事実あれだけの男だったってのに、アイゼンクラーはひたすら自分を悪くも軽くも見続けて、その目を一切疑わなかった。結局、御手前なんぞに仕え通した」
軋みと共に飼い骨は寝台に寄る。骨の上から、彼はロードシルトを見下ろした。
「そんなものを呑み食らうなぞ、我から破滅を取り込むようなものでござんしょう。老公には一体、どんな算段がありやしたんで? もしやフィエル・アイゼンクラーがそうした人間だってのを、まるでご存知なかったんで?」
主従の隔たりを承知した上での皮肉だった。自ら毒薬を飲んだ阿呆を、ツェランは心底嘲笑うのだ。
「一将功成りて万骨枯る――だがな、骨は覚えているんだよ。忘れないんだ。いつまでだって、覚えている」
上体を近づけ、慄くロードシルトの耳元に囁いた。
「何、恐れるこたぁござんせん。これまでの仕業が、御身に返るばかりのことで。老公の骸は手前が飼って進ぜやしょう。為した仕業を自身の口で世に明かし、名声も称賛も残らずすっかり失うように。
彼にとっては未来の象徴たるカナタの名を聞き、羨望極まりない老人はかっと目を剥く。そのさまを楽しく眺め、
「あんたはこれから、オレのいいように使い潰されるのさ。食い物にされる心地を、とっくり味わうがいい」
ロードシルトは最早逃れようもなく、骨たちの手の上にいる。
「外法・飼い骨。
老人の顔が、果てしない絶望に歪んだ。