第35話 怒りの正拳
文字数 5,904文字
――お恨みしますわ、サダク様。
足を踏み入れるなり、ケイトは胸の内で呟いた。商団の長に紹介された宿の光景は、彼女にとっていささか刺激の強いものだったのである。
二階を宿、一階を食堂を兼ねた酒場とするその構えは、旅人の多いラムザスベルではありふれたものだ。
だがまだ日も落ちきらぬというのに男どもが手ひどく呑んだくれ、その間を肌も露わな娘たちが我が身を見せつけつつ給仕に回るそのさまは、純朴な田舎娘の感性に甚く衝撃的だった。
旅の間、サダクとはとても友好的な付き合いをしてきたはずである。
『機会がありましたら、是非またご一緒ください。叶うことならうちの専属になっていただきたいくらいですよ』
ラムザスベル到着後、彼はそう名残りを惜しんでくれた。
都市に着いた隊商たちは、都市側の用意した専用の居留地に宿泊することが多い。他の商団と情報や各地の特産物の交換を行う機会が生じるからだ。ラムザスベルのような大都市においてこの種の交流はますます重要性を増すから、まとめ役であるサダクは本来大わらわのはずである。だというのに別れに時間を割いてくれたことからも、この言葉が世辞でない真摯と知れよう。
そしてフェイト とラカン に宿の手配がないと知り、彼が推したのがこの宿であった。
『祝祭の最中 ではどこも満室でしょう。ここを訪ねてみてください。我々の名を出せば、融通を利かせてくれるかもしれません』
だがしかし、勧めに従った結果がこれである。
『溜め込むばかりでは三流以下です。一流は金の使い時を知っている』などと語っていたけれど、彼の言う使い時とは、こういう意味合いであったらしい。
オショウさまの教育によろしくありませんとケイトは大層憤慨し、ラムザスベルにしばし滞在すると告げたサダクの言葉を思い返すと、もし行き会ったら文句のひとつも申し述べてくれようと心を決める。
が、この立腹は少々酷というものだった。
サダクがこうした宿を紹介したのは気回しの一種である。商家の若隠居を自称するフェイトという娘を、彼は身分ある人物と見た。販路拡大の旅だと言うが、それでもまったく関りのない都市へ売り込みには行くまい。ならば伝手を辿って逗留先を求めることも容易いはずだ。
そうした人間が宿の用意がないと言うなら、これは敢えてのことだろうとサダクは考えた。おそらくは同業や貴族階級の目を避けたいに違いないと踏み、それで身分ある者が利用せず、それでいて客筋がある程度よい宿を紹介したのだ。
サダクの誤算は、大祝祭により客層と店側の顔触れが一変していたことにある。
宿の主も、平時働く給仕たちも、昼は専ら祭りを楽しむ側に回っていた。長逗留の客が増え、また元より行き届いたサービスなど期待されぬがゆえの気楽さである。
では欠けた働き手がどこから来たのかと言えば、それは娼館からだった。
剣戟のみならず様々の見物 があるため、昼遊びをする輩は少ない。が、ちょいとひと休みに酒場へ入る者や、祭りの陽気に当てられてそのまま飲み呆ける者は少なからずいる。
娼館の主はここに目をつけ、女たちに顔を売りに行かせた。日のあるうちから夜の約束を取りつけて、のちに歓楽の限りを尽くさせるべくだ。
ケイトの見たのは、そうした次第から生じた情景だった。
隊商の名を出したところで対応が変わらぬのもむべなるかな、酒場の奥でケイトの受付をしたのも、こうした女たちのひとりだったのである。
けんもほろろにあしらわれ、不満にむくれて踵 を返したケイトの腕を、不意に掴んだ者がある。
それは赤ら顔の酔漢だった。
「あの、何かご用ですかしら……?」
遠慮のない握力に、娘は当惑を含んだ視線を向ける。
「聞こえてたぜ。部屋がないんだってな」
が、男はいい加減聞 し召していた。今日の試合でヒューイット・ムジクに大枚を賭け、大きく負けての自棄酒だった。
「俺のとこに泊めてやってもいいぜ。当然、お代はたっぷりいただくけどな」
忍び笑いを漏らしつつ、ねちこい視線を彼女の胸と腰とに這わせる。同じ卓を囲む残りが、やはり下卑た笑いで同調した。
如何にも育ち良く純朴げな娘は、憂さ晴らしの的として絶好に見えたのだろう。脅しつけて言いなりにしようという浅ましい思考が、その全身に透けている。
珍しくも露骨な嫌悪を浮かたケイトは、相手にせずにただ前腕をくるりと回した。
「お?」
思わず声を上げるほどあっさりと、男の拘束が外される。掴んだ側の肘関節を外から押すことによる手ほどき だった。
何やってんだと仲間からの嘲弄を受け、男は顔を酔いばかりでなく赤く染める。
「てめ――」
激昂して立ち上がり、もう一度掴みかかったその手首が、横合いから伸びた別の腕に捕らわれた。
「何しやがる!」
怒声を発しはしたものの、腕の主に目を向けた途端、それは尻すぼみとなる。
大きな手の持ち主は、やはり大きな男だった。実に珍しい禿頭 である。体躯の割に細身めいて見えたが、それは針金を叩き込んだような、実戦的な筋肉の塊だった。
巌 のような顔から、厳しい眼差しが見下ろしている。掴まれた箇所が激痛を発するが、一体どこをどうされたものか、腕のみならず体ごとがぴくりとも動かせない。
酔いも醒めそうな怖気 が背筋を走った。ああ、なんでこんなにも目立つ人間に、今の今まで気づかなかったのだろう。
異常を察知して、男の連れがパンを投じた。仲間を助くばかりならず、手ひどく衣類を汚す意図があったのだろう。色の濃いシチューにどっぷり浸されたそれは、オショウの顔面を直撃した。
否。したかに見えた。
だが奇態なことにパンもそれが含んで散布した液体も、全ては彼の輪郭だけをなぞって滴り、一切の痕跡を残すことなく床に落ちる。薄く体表面に展開された結界の働きであった。
「食物を無為にするものではない」
低く静かな、けれど酒場の喧騒を圧する声でオショウが告げる。酔漢の腕を解放すると、ゆっくりと投擲者に向き直る。至極真っ当な咎めに、男の仲間が席を蹴立てた。
僧兵の一声から、彼らは注目の的となっている。
こうなっては後に引けなかった。酔漢どもは隊商の護衛や獣狩りを請け負う衛士であり、つまりは荒事の専門家だ。喧嘩を買われて尻尾を巻いたでは、外聞が悪いどころの騒ぎではない。
――こっちは四人。いくらデカいのがいるとはいえ、あっちは小娘込みでふたりだ。負けるはずがねぇ。
放たれた手首をひと撫でつつ、酔漢はどうにもならない皮算用をした。
肩越しに目配せするなり、思い切りよくオショウに打ちかかる。酔態からは思いもよらぬ、堂に入った一撃だ。
下方からすくい上げるような拳が肋骨の下部、筋肉の薄い部位を捉え、しかし返ったのは人体とは思えない感触である。まるで大樹界に聳える巨木を全力で殴りつけたような、異質の手応えだった。何をしても通用しないのだと、遅まきながらの理解をする。
用いた拳の疼痛には因らず、酔漢は悪い夢を見た子供のように首を振った。仲間たちにも相手の異常が伝わったのだろう。連携して追撃するはずだった全員との足が止まっていた。
オショウのじろりとこわい視線が降り注ぎ、衛士どもは息を呑み身を竦ませる。
「そこまでですわ」
強烈に張り詰めた緊張を打ち砕き、ふたりの間にケイトが割って入った。
「オ……ラカンさま、わたくしなら大丈夫です。ね?」
「うむ」
宥められ、素直に頷く。侮辱を受けたのはケイトである。彼女が矛を収めるというのなら、彼に否やはない。
なんともあっさりとしたやり取りに、酔っ払いどもは露骨にほっとした様子を見せる。
「あなたがたも、ご反省くださいましたかしら? 楽しくお酒を飲むのは結構ですけれど、それで女子供に無体をしてはなりません。よろしいですわね?」
「お、おう」
だがケイトにきっと睨まれ、不承不承ながら首肯した。
結構、と娘は頷き、
「ではお互い、大人になるといたしましょう。一発は一発ですから、同じだけを返して、それであいこでいかがですかしら?」
さも名案と言いたげな笑顔を向けられ、酔漢は危うくふざけるなと叫び返すところだった。
一発は一発の意味するところは、無論自分があの禿げ頭に殴り返されるという意味だ。冗談ではなかった。額に脂汗が浮く。
「けれどオ……ラカンさまが打擲 すれば、大抵の方は壊れてしまいます。なので、わたくしが代理をするのはどうでしょう。鍛えた殿方ですもの。女の細腕など問題になさいませんわよね?」
よって続けられた言葉に、彼は一二もなく飛びついた。平手の一発で禊が済むなら安いものだ。
ぶんぶんと首を縦に振るや娘はにっこり微笑んで、「では」と彼の前に進み出た。雨雲めいて嫌な予感が立ち込めたが、その時にはもう遅い。
すっと体 を沈めたケイトは、手のひらを上に握った拳を腰だめの位置から半回転させつつ繰り出している。正拳がみぞおちに吸い込まれ、酔漢は声もなく、前のめりに膝から崩れた。
踏み込みにより足下 から生じる力を正しく、また美しく伝達するオショウ直伝の一撃である。
「……何か?」
残心ののちぱんぱんと手を叩 き、静まり返った周囲を無邪気めかしてケイトが見渡した。酒場のほぼ全員が、慌てて愛想笑いを浮かべる。
彼女は改めてにっこり笑うと、床を汚すパンとその周囲を目で示し、
「食べ物を粗末にするのはよろしくありませんから、こちらは大目に見ますわ。でも宿の方のお手を煩わせぬよう、皆様で清掃をしてくださいましね?」
「はい!」
酔いどれどもの声が、ものの見事に唱和した。
「もう! もうもうもうもう!」
夕暮れの大通りをずんずんと、ケイトはそれこそ傍若無人に猛進している。先の宿を離れてからのち、彼女はずっとこの調子だった。
どうにか落ち着かせるべきなのであろうが、生憎オショウは女人の機嫌の取り方を知らぬ。黙って後に従うばかりである。
「もう結構、結構です! こうなったら散財しますわ。ええ、散財してやりますわ。宿なんて楽勝です! 陛下から、びっくりするほど軍資金を頂戴しておりますもの!」
ようやく憤慨が治まってきたのか、ケイトは足を止めて振り返り、オショウにそう言い放った。誰の耳があるとも知れない道端でする宣言ではなかったが、両名にその種の危機管理意識は薄い。
腹立ちまぎれにケイトは、今宵の宿を高級なものにすることを決めていた。貴人向けの旅籠は、多くの使用人を同時に受け入れる場合が多い。そうした宿を探せば空き部屋のひとつふたつは確保可能だろうと考えている。
いっそ身分を明かしてグレゴリ・ロードシルトのところへ挨拶にゆけば国賓として遇されもしようが、それは避けたい気持ちがあった。敬愛するアプサラス王が、不信を匂わせていたからである。
なにせ油断ならぬのが世の中だ。ついさっきのようなトラブルがいつ舞い込んで来るともしれず、物事には細心の注意を払うべきである。自分が先達として、お姉さんとして、オショウの世話を焼かねばなるまい。ケイトは鼻息荒く意気込んで拳を握る。
それからふと思い出し、隣のオショウの袖を引いた。
「オショウさま、オショウさま」
「うむ?」
「よろしいですか。色々と、とにかくもう色々と害がありますから、先ほどのような宿や酒場へは、決して近づいてはいけません」
「うむ」
「それから、もうひとつ。ラムザスベルは豊かな都市で、人の往来で賑わって、なので美人が多いとも申しますわ」
「ふむ」
「……目移りしないでくださいましね?」
「うむ」
オショウが小さく笑い、負けた気分になったケイトがぺしぺしと肩を叩く。
「ケイトさん! オショウ様!」
そこへ、道向こうから呼びかけがした。ふたり揃って目をやれば、人波越しにあったのは、見知った少女の姿である。
「あら、イツォル様!」
朗らかな笑顔で駆け寄って、ケイトが懐こく手を取った。若干戸惑いつつもイツォルが応じ、それからオショウに一礼をした。結い上げ髪が動きにつれてぱたりと揺れる。
「ラムザスベルにいらっしゃるとは思っておりましたけれど、ここでお会いできるなんて、素敵な偶然ですわね」
「ううん、違う。偶然じゃない」
今度は髪を左右に揺らし、イツォルが否定した。
「宿での騒ぎが聞こえて 、覚えのある声がしたから。それで、探しに来た」
その言いで彼女の聴力を思い出したのだろう。「順風耳でいらっしゃいましたわね!」とケイトは目を輝かせ、唐突にイツォルの耳に手を伸ばした。
「え、えと、ありがとう?」
許容したのか、単に圧に押されたのか。耳たぶをふにふにと触られながら、イツォルは戸惑い気味に返し、それから表情を改める。
「申し訳ないけど、ふたりの事情も聞いてる。泊まり先のことなら私が何とかできる。ただふたりは天祐 だと思うから、代わりと言ってはなんだけど、図々しくお願いしたいことがある。話だけでも聞いてもらえると嬉しい」
「お任せください!」
「え? ケイ……」
内容など何ひとつ聞かぬうちに、ケイトが安請け合いをして胸を張った。が、直後、はっと気づいて首を振り、しょんぼり気味に肩を落す。
「いけません。先走りですわ。わたくし、また先走っておりますわね」
「うん。だから一度私たちの宿に来て、そこで話を――」
「イツォル様のこと、お受けしてもよろしいでしょうか、オショウさま?」
「うむ」
承諾を得て、ケイトはぱんと喜ばしく手を打ち合わせた。
「これで先走りではなくなりましたわ。では、カナタ様のところへ参りましょう!」
「ちょっと、あの!?」
ふたりの逗留先も知らぬだろうにケイトが先に立って歩き出し、イツォルは慌ててその後を追う。持ちかけた話であるのに、すっかり主導権を握られていた。
三度 困惑に陥りつつも、イツォルは我知らず微笑んでいる。それはいつ以来かの気の緩みであり、頻闇 に光明を見る心地に似ていた。
足を踏み入れるなり、ケイトは胸の内で呟いた。商団の長に紹介された宿の光景は、彼女にとっていささか刺激の強いものだったのである。
二階を宿、一階を食堂を兼ねた酒場とするその構えは、旅人の多いラムザスベルではありふれたものだ。
だがまだ日も落ちきらぬというのに男どもが手ひどく呑んだくれ、その間を肌も露わな娘たちが我が身を見せつけつつ給仕に回るそのさまは、純朴な田舎娘の感性に甚く衝撃的だった。
旅の間、サダクとはとても友好的な付き合いをしてきたはずである。
『機会がありましたら、是非またご一緒ください。叶うことならうちの専属になっていただきたいくらいですよ』
ラムザスベル到着後、彼はそう名残りを惜しんでくれた。
都市に着いた隊商たちは、都市側の用意した専用の居留地に宿泊することが多い。他の商団と情報や各地の特産物の交換を行う機会が生じるからだ。ラムザスベルのような大都市においてこの種の交流はますます重要性を増すから、まとめ役であるサダクは本来大わらわのはずである。だというのに別れに時間を割いてくれたことからも、この言葉が世辞でない真摯と知れよう。
そして
『祝祭の
だがしかし、勧めに従った結果がこれである。
『溜め込むばかりでは三流以下です。一流は金の使い時を知っている』などと語っていたけれど、彼の言う使い時とは、こういう意味合いであったらしい。
オショウさまの教育によろしくありませんとケイトは大層憤慨し、ラムザスベルにしばし滞在すると告げたサダクの言葉を思い返すと、もし行き会ったら文句のひとつも申し述べてくれようと心を決める。
が、この立腹は少々酷というものだった。
サダクがこうした宿を紹介したのは気回しの一種である。商家の若隠居を自称するフェイトという娘を、彼は身分ある人物と見た。販路拡大の旅だと言うが、それでもまったく関りのない都市へ売り込みには行くまい。ならば伝手を辿って逗留先を求めることも容易いはずだ。
そうした人間が宿の用意がないと言うなら、これは敢えてのことだろうとサダクは考えた。おそらくは同業や貴族階級の目を避けたいに違いないと踏み、それで身分ある者が利用せず、それでいて客筋がある程度よい宿を紹介したのだ。
サダクの誤算は、大祝祭により客層と店側の顔触れが一変していたことにある。
宿の主も、平時働く給仕たちも、昼は専ら祭りを楽しむ側に回っていた。長逗留の客が増え、また元より行き届いたサービスなど期待されぬがゆえの気楽さである。
では欠けた働き手がどこから来たのかと言えば、それは娼館からだった。
剣戟のみならず様々の
娼館の主はここに目をつけ、女たちに顔を売りに行かせた。日のあるうちから夜の約束を取りつけて、のちに歓楽の限りを尽くさせるべくだ。
ケイトの見たのは、そうした次第から生じた情景だった。
隊商の名を出したところで対応が変わらぬのもむべなるかな、酒場の奥でケイトの受付をしたのも、こうした女たちのひとりだったのである。
けんもほろろにあしらわれ、不満にむくれて
それは赤ら顔の酔漢だった。
「あの、何かご用ですかしら……?」
遠慮のない握力に、娘は当惑を含んだ視線を向ける。
「聞こえてたぜ。部屋がないんだってな」
が、男はいい加減
「俺のとこに泊めてやってもいいぜ。当然、お代はたっぷりいただくけどな」
忍び笑いを漏らしつつ、ねちこい視線を彼女の胸と腰とに這わせる。同じ卓を囲む残りが、やはり下卑た笑いで同調した。
如何にも育ち良く純朴げな娘は、憂さ晴らしの的として絶好に見えたのだろう。脅しつけて言いなりにしようという浅ましい思考が、その全身に透けている。
珍しくも露骨な嫌悪を浮かたケイトは、相手にせずにただ前腕をくるりと回した。
「お?」
思わず声を上げるほどあっさりと、男の拘束が外される。掴んだ側の肘関節を外から押すことによる
何やってんだと仲間からの嘲弄を受け、男は顔を酔いばかりでなく赤く染める。
「てめ――」
激昂して立ち上がり、もう一度掴みかかったその手首が、横合いから伸びた別の腕に捕らわれた。
「何しやがる!」
怒声を発しはしたものの、腕の主に目を向けた途端、それは尻すぼみとなる。
大きな手の持ち主は、やはり大きな男だった。実に珍しい
酔いも醒めそうな
異常を察知して、男の連れがパンを投じた。仲間を助くばかりならず、手ひどく衣類を汚す意図があったのだろう。色の濃いシチューにどっぷり浸されたそれは、オショウの顔面を直撃した。
否。したかに見えた。
だが奇態なことにパンもそれが含んで散布した液体も、全ては彼の輪郭だけをなぞって滴り、一切の痕跡を残すことなく床に落ちる。薄く体表面に展開された結界の働きであった。
「食物を無為にするものではない」
低く静かな、けれど酒場の喧騒を圧する声でオショウが告げる。酔漢の腕を解放すると、ゆっくりと投擲者に向き直る。至極真っ当な咎めに、男の仲間が席を蹴立てた。
僧兵の一声から、彼らは注目の的となっている。
こうなっては後に引けなかった。酔漢どもは隊商の護衛や獣狩りを請け負う衛士であり、つまりは荒事の専門家だ。喧嘩を買われて尻尾を巻いたでは、外聞が悪いどころの騒ぎではない。
――こっちは四人。いくらデカいのがいるとはいえ、あっちは小娘込みでふたりだ。負けるはずがねぇ。
放たれた手首をひと撫でつつ、酔漢はどうにもならない皮算用をした。
肩越しに目配せするなり、思い切りよくオショウに打ちかかる。酔態からは思いもよらぬ、堂に入った一撃だ。
下方からすくい上げるような拳が肋骨の下部、筋肉の薄い部位を捉え、しかし返ったのは人体とは思えない感触である。まるで大樹界に聳える巨木を全力で殴りつけたような、異質の手応えだった。何をしても通用しないのだと、遅まきながらの理解をする。
用いた拳の疼痛には因らず、酔漢は悪い夢を見た子供のように首を振った。仲間たちにも相手の異常が伝わったのだろう。連携して追撃するはずだった全員との足が止まっていた。
オショウのじろりとこわい視線が降り注ぎ、衛士どもは息を呑み身を竦ませる。
「そこまでですわ」
強烈に張り詰めた緊張を打ち砕き、ふたりの間にケイトが割って入った。
「オ……ラカンさま、わたくしなら大丈夫です。ね?」
「うむ」
宥められ、素直に頷く。侮辱を受けたのはケイトである。彼女が矛を収めるというのなら、彼に否やはない。
なんともあっさりとしたやり取りに、酔っ払いどもは露骨にほっとした様子を見せる。
「あなたがたも、ご反省くださいましたかしら? 楽しくお酒を飲むのは結構ですけれど、それで女子供に無体をしてはなりません。よろしいですわね?」
「お、おう」
だがケイトにきっと睨まれ、不承不承ながら首肯した。
結構、と娘は頷き、
「ではお互い、大人になるといたしましょう。一発は一発ですから、同じだけを返して、それであいこでいかがですかしら?」
さも名案と言いたげな笑顔を向けられ、酔漢は危うくふざけるなと叫び返すところだった。
一発は一発の意味するところは、無論自分があの禿げ頭に殴り返されるという意味だ。冗談ではなかった。額に脂汗が浮く。
「けれどオ……ラカンさまが
よって続けられた言葉に、彼は一二もなく飛びついた。平手の一発で禊が済むなら安いものだ。
ぶんぶんと首を縦に振るや娘はにっこり微笑んで、「では」と彼の前に進み出た。雨雲めいて嫌な予感が立ち込めたが、その時にはもう遅い。
すっと
踏み込みにより
「……何か?」
残心ののちぱんぱんと手を
彼女は改めてにっこり笑うと、床を汚すパンとその周囲を目で示し、
「食べ物を粗末にするのはよろしくありませんから、こちらは大目に見ますわ。でも宿の方のお手を煩わせぬよう、皆様で清掃をしてくださいましね?」
「はい!」
酔いどれどもの声が、ものの見事に唱和した。
「もう! もうもうもうもう!」
夕暮れの大通りをずんずんと、ケイトはそれこそ傍若無人に猛進している。先の宿を離れてからのち、彼女はずっとこの調子だった。
どうにか落ち着かせるべきなのであろうが、生憎オショウは女人の機嫌の取り方を知らぬ。黙って後に従うばかりである。
「もう結構、結構です! こうなったら散財しますわ。ええ、散財してやりますわ。宿なんて楽勝です! 陛下から、びっくりするほど軍資金を頂戴しておりますもの!」
ようやく憤慨が治まってきたのか、ケイトは足を止めて振り返り、オショウにそう言い放った。誰の耳があるとも知れない道端でする宣言ではなかったが、両名にその種の危機管理意識は薄い。
腹立ちまぎれにケイトは、今宵の宿を高級なものにすることを決めていた。貴人向けの旅籠は、多くの使用人を同時に受け入れる場合が多い。そうした宿を探せば空き部屋のひとつふたつは確保可能だろうと考えている。
いっそ身分を明かしてグレゴリ・ロードシルトのところへ挨拶にゆけば国賓として遇されもしようが、それは避けたい気持ちがあった。敬愛するアプサラス王が、不信を匂わせていたからである。
なにせ油断ならぬのが世の中だ。ついさっきのようなトラブルがいつ舞い込んで来るともしれず、物事には細心の注意を払うべきである。自分が先達として、お姉さんとして、オショウの世話を焼かねばなるまい。ケイトは鼻息荒く意気込んで拳を握る。
それからふと思い出し、隣のオショウの袖を引いた。
「オショウさま、オショウさま」
「うむ?」
「よろしいですか。色々と、とにかくもう色々と害がありますから、先ほどのような宿や酒場へは、決して近づいてはいけません」
「うむ」
「それから、もうひとつ。ラムザスベルは豊かな都市で、人の往来で賑わって、なので美人が多いとも申しますわ」
「ふむ」
「……目移りしないでくださいましね?」
「うむ」
オショウが小さく笑い、負けた気分になったケイトがぺしぺしと肩を叩く。
「ケイトさん! オショウ様!」
そこへ、道向こうから呼びかけがした。ふたり揃って目をやれば、人波越しにあったのは、見知った少女の姿である。
「あら、イツォル様!」
朗らかな笑顔で駆け寄って、ケイトが懐こく手を取った。若干戸惑いつつもイツォルが応じ、それからオショウに一礼をした。結い上げ髪が動きにつれてぱたりと揺れる。
「ラムザスベルにいらっしゃるとは思っておりましたけれど、ここでお会いできるなんて、素敵な偶然ですわね」
「ううん、違う。偶然じゃない」
今度は髪を左右に揺らし、イツォルが否定した。
「宿での騒ぎが
その言いで彼女の聴力を思い出したのだろう。「順風耳でいらっしゃいましたわね!」とケイトは目を輝かせ、唐突にイツォルの耳に手を伸ばした。
「え、えと、ありがとう?」
許容したのか、単に圧に押されたのか。耳たぶをふにふにと触られながら、イツォルは戸惑い気味に返し、それから表情を改める。
「申し訳ないけど、ふたりの事情も聞いてる。泊まり先のことなら私が何とかできる。ただふたりは
「お任せください!」
「え? ケイ……」
内容など何ひとつ聞かぬうちに、ケイトが安請け合いをして胸を張った。が、直後、はっと気づいて首を振り、しょんぼり気味に肩を落す。
「いけません。先走りですわ。わたくし、また先走っておりますわね」
「うん。だから一度私たちの宿に来て、そこで話を――」
「イツォル様のこと、お受けしてもよろしいでしょうか、オショウさま?」
「うむ」
承諾を得て、ケイトはぱんと喜ばしく手を打ち合わせた。
「これで先走りではなくなりましたわ。では、カナタ様のところへ参りましょう!」
「ちょっと、あの!?」
ふたりの逗留先も知らぬだろうにケイトが先に立って歩き出し、イツォルは慌ててその後を追う。持ちかけた話であるのに、すっかり主導権を握られていた。