第18話 天上天下唯我独尊
文字数 5,008文字
執拗に絡みつく、粘性の睡魔。
その源はこの世界への召喚時、精神の根底に刻印された霊術式にある。命運尽きた生を救う代償として、召喚主にただ一度のみ許された絶対的命令権の発露だった。
ケイトが切り札と認識したのもむべなるかな。如何にオショウといえど、自力のみでこれに抗い、打破するのは不可能である。
だが彼は聞いた。
深く深い泥めいた眠りのうちに、聞いたのだ。
「お願いします。オショウ様、テラのオショウ様。あのひとたちを助けてください。どうか、助けてあげてください」
ひどく小さな声だった。
けれど真摯な祈りであり、同時に幼子の歔欷 めいてもいた。
それは、力なき己を嘆 じる声だった。
違うのだ、とオショウは思う。
まだわずかに目覚めたままの意識の欠片で、彼は思う。
力の強弱は、善悪の領分ではない。
赤子のか弱きを、果たして咎 める者があるだろうか。
時に蹂躙されようと善は変わらず善であり、時に栄華を誇ろうと悪は変わらず悪である。
非力を謗 る時代こそが誤りであり、無力を罪と感じる世界こそが悲しい。
オショウたち従軍複製僧兵が偽りとはいえ幸福な記憶を転写されるのは、仏道が弱きを助く心を基盤とするが故である。他者との縁は、力なき衆生を救う力として自らを定義し、律する為に欠かせぬからだ。
もし己一個の強 に溺れ他を顧みぬのなら、それは周囲一切を貪るばかりの天狗である。六道の何処 にも魂魄の置き所なく魔道を彷徨い、やがて己自身をも喰らい尽くして後に無を残すのみであろう。
仏道とは衆生を救う道であり、世を救う道である。
その根幹を、決して忘却してはならぬのだ。
無論、世の全ての救済が叶うなどと盲信するではない。
座して救いを待つだけの者にまで手を伸べようとも思わない。
己の境遇のみを叫び、哀れを売り物に厚意を食い漁るなら、自らの足にて立つ意志を備えぬならば、それは施しを求めるばかりの餓鬼である。守るべき弱きではなく、正道を行く者の歩みを縛る邪魔でしかなかろう。
孤掌鳴らし難しという。
手のひらはひとつだけでは音を発しない。ふたつが打ち合って、初めてそこに響きが生まれる。
同様に、人は独りでは生きられない。
いずれかにて強たる者が、別のいずれかにて弱となる事がある。その逆もまた然り。
一人が何もかもをできる必要はなく、一人で何もかもができる道理はない。
手を引くのではなく手を引かれるのでもなく、手を取り合い歩む姿こそがきっと良い有り様なのだ。
総合戦闘術仏道は、人を五つの働きであると定義する。
ひとつは色 。物質として、肉体として在るという事。
ひとつは受 。己と己の他の色を知覚する事。
ひとつは想 。知った色を心の内に取り込む事。
ひとつは行 。心に生じた想いを行いとして表出する事。
ひとつは識 。行いの過程と結果とを知る事。
拳がなければ拳は握れず、拳を向けうる対象がなくば殴打は叶わない。またそれらが在ろうとも、己独自の想念なくば力は働かず、行いを伴わない心は他者に伝わる事がない。故に実体験として過程を経る事も、行動の結果を見届ける事もできはしない。
何を用いて殴るのか、何を殴るのか、何を想って殴るのか、何を為そうと殴るのか、何が殴った後に生まれるのか。
これこそが人にも戦いにも欠かせぬ五蘊 である。
五蘊なくして我はなく、我なくば他の全てはないのに等しい。
故に言う。
天 の上天の下唯 我のみが独り尊 し、と。
それは己を至上とする言葉ではない。
我なくして他は在らず、他なくして我もまた無し。世界を観ずる我なくして世界は無い。しかし同時に、我の在り処たる世界なくしては我も在りえない。
世界とは無数の我と他の集合体であり、なればそれらひとつひとつが世界に等しい。
よって己を尊び慈しめと。
己にするが如く他を愛せと。
斯様に告げる慈愛の声音である。
だからこそ滅私して他を想うエイシズの声は、その慟哭の響きは、オショウの魂の奥深くへと差し込んだ。
けれど。
眠りの定めに抗わんとオショウの胸を掻き立てるのは、第二の天性として染み付いた仏道理念ばかりではなかった。
胸中に、ひとつの顔がある。
ケイト・ウィリアムズ。
彼の心に火をくべたのは彼女であった。
命の恩人であるという一点からしても、確かに彼女は特別だ。
結果として生まれ育った世界より遠く離れ、二度と帰参は叶わぬ身の上とはなった。だがあのままの死を望まなかった己にとって、報 い得ぬ大恩である。
しかし、そればかりではないようだった。
オショウと同じく、彼女もまた戦争の道具、闘争の部品として育て上げられた存在である。
でありながら、彼女はこの上なく人だった。
──大好きで大切なものの為になら、わたくし、命懸けにだってなれるのですわ。
眩いものを胸に抱 くその生き様に、目と心とを奪われた。
彼は、彼女を美しいと思った。
これは、煩悩であるのやもしれぬ。
悟りを妨げる愛劫 であり、至ったと感じるこの境地は増上慢、ただの魔境であるのやもしれぬ。
だが信じた。
仏的証拠などありはしない。
だが彼は信じたのだ。
己の要たるものを、遂に見出 したのだと。
俯瞰 すれば、ひどくちっぽけな感情だった。天下国家にも通じず、世を動かすには程遠い。
けれど、その小さなものの中に、全てがあった。
一により十は作られ、百から千が成り立っていた。
億の中に万が含まれ、京は兆により象 られていた。
無数の小があらゆる大を形成し、あらゆる大は小として、更に大きな大を構築していた。
一理は万理に通じ、やがて真理に至る。
即ち、曼荼羅である。
己に宿る炎を、オショウは感じた。
心が熱を発していた。自ら燃え上がるようだった。
それはかつてのように与えられた感情ではなく、手ずから得たものだった。刷り込まれた知識ではなく、温度を備えた自らの体験だった。
あの時、暗く冷たい宇宙 で掴めなかったもの。
それはある。
ここに。この胸に。
自ら燃え盛るものが確 とある。
内面の火に応ずるように、現実のオショウの肉体がわずかに動いた。
じりじり、じりじりともどかしいほどの時間をかけて指先が丸まり、それは拳を形作っていく。
霊術に携わる者ならば誰もが目を疑う光景だった。
召喚術式は徹底的に安全性を考慮された大規模儀式霊術である。世界にとっての危険物を喚び込まぬように、喚んだとしても必ず処理が叶うように、幾重にも幾重にも防御策が織り込まれている。
その最たるものこそが召喚主の絶対命令権だった。
召喚に呼応じた時点で、全てに優先して機能するよう設定されるこれを拒絶するのは、自らの存在そのものを書き換える行為に等しい。魚に空を飛べと、鳥に水を呼吸しろと命じるようなものだ。そのような振る舞いが叶うはずはない。
同様にオショウが動けるはずが、目覚めるはずがない。
その道理を、今、仏理が凌駕する。
ある哲学者はこう記した。「精神など肉体の奴隷に過ぎない」と。であればこれは、その逆転現象だったろう。
岩をも通す一念により駆動する仏。
世に言う念仏であった。
硬木製の扉が真っ二つに割れたのは、声を嗄 らしたエイシズが諦念からうな垂れたまさにその時だった。
大型の獣を思わせるしなやかさで現れ出た巨体は、紛う事なきテラのオショウのものである。
驚きと共に振り仰ぐ少年の頬に、涙の跡があった。誰かを思い、誰かの為に流された涙だった。その想念の一途さ故に、彼の声はオショウへ届いた。
深く感謝を込めて、オショウはエイシズに合掌をする。
もし彼というきっかけなくば、自らの覚醒は、全てが手遅れになってからであったに相違ない。
「あ、あ……!」
言いたい事、伝えたい事が一時 に溢れたのだろう。エイシズが意味を成さない音で口をぱくつかせる。
オショウの手がゆっくりと伸びて、落ち着かせるようにその肩をぽんと叩いた。
そして、
「うむ」
目を見つめたまま、ゆっくりと、ひとつ頷く。
少年の焦燥はやがて安堵の面持ちに変わり、笑顔を経て、再びくしゃくしゃと泣き顔になった。
籠手を装っていたので懸念をしたが、幸いケイトは導石 を帯びたままのようである。ならば行くべき方角に迷いはない。
よって、オショウは駆け出した。
生物以外のあらゆる障害を霧でも突き抜けるかのように破砕しながら、文字通り一直線に、最短距離を最高速でただ駆けた。
不幸にもこの信じがたい道行きを目撃した歩哨は大慌てに報告をして頬を張られ、現場まで上官を引き摺って目に物見せてから頬を張り返したという。
*
斯くしてオショウはたどり着く。
災禍の中心に。魔皇の眼前に。そして、ケイトの傍らに。
間一髪、彼は間に合ったのだ。
放り捨てた蛇体が、粘塊に変じ揮発する。その様を横目に捉えながら、更にオショウが一歩を踏み出す。
あるはずがない。あるはずはないのだが、途端、石造りの魔城がびりびりと震えたように思われた。
「……オショウ、様」
諦念と絶望に絡め取られていた少女は、ただ呆然と彼を見る。
ここへ来てはならないと、自分は拒絶を示したはずだった。それはオショウにも確実に伝わったはずだった。
なのに。
「どうして、ここへ?」
「うむ」
微かな笑みでオショウは頷き、返答はそれだけだった。まるで問答になっていない。
だというのにケイトは、それですとんと納得してしまった。
不思議とただそれだけで、もう大丈夫だと思えてしまった。
本当に心の底から、ほっとしてしまったのだ。
体を支えていた緊張が途切れ、彼女はへたへたと座り込む。
「本当に──本当に困った方ですわね、オショウ様は」
ぽろりと涙が零れた。嬉しいのか悲しいのか、自分でもよくわからない。
ひとつだけ確かなのは、彼がこの世界の人々を救うべく駆けつけてくれた事、それだけだ。
そしてオショウが人類の守護者として参陣したのならば、自らが受けるべきは叱責である。
言い分はどうあれ、己を高く、魔皇を低く見誤り、独断で彼という戦力を殺 いだ。その愚かな振る舞いで、人を存亡の淵に立たせた。どのような罵倒を浴びたとておかしくはない。
まだ半分は泣き顔のまま、覚悟を決めてケイトはオショウを振り仰ぐ。
ちょうど彼は、少し身を屈めたところだった。
「……あ」
伸ばしたその指先が、目元にそっと触れる。
左。右。順にゆっくりと拭われて、不意に言葉が頭を過ぎった。
──その涙を止める為に、おそらく俺は喚ばれたのだ。
急に、ひどく恥ずかしい振る舞いをされた心地になった。
状況も忘れて、かっと頬に血が昇る。
──か、勘違いですわ。ええ。これはきっと、わたくしの勘違いです!
そう、勘違いに決まっているのだ。
彼が自分の為に、ケイト・ウィリアムズの為だけにやって来てくれたようだなんて、思い上がりのはずなのだ。
でなければそれはまるで、恋物語の男女のように親密な──。
ふるふると首を振って雑念を追い払い、ケイトは「オショウ様!」と声を張り上げる。
「もう『どうして』は問いません。いらしてしまったものは仕方ありませんものね」
「うむ」
「ご助勢いただいたばかりなのに図々しいですけれど、わたくし、重ねて仏騒 をお願いしてもよろしいですかしら?」
「うむ」
「では、オショウ様」
伸びたケイトの指先が、ぴしりと強く魔軍を示す。
「やっつけてちゃってくださいまし!」
「うむ」
応じてオショウはひとつ頷き、そして付け加えた。
「楽勝だ」
その源はこの世界への召喚時、精神の根底に刻印された霊術式にある。命運尽きた生を救う代償として、召喚主にただ一度のみ許された絶対的命令権の発露だった。
ケイトが切り札と認識したのもむべなるかな。如何にオショウといえど、自力のみでこれに抗い、打破するのは不可能である。
だが彼は聞いた。
深く深い泥めいた眠りのうちに、聞いたのだ。
「お願いします。オショウ様、テラのオショウ様。あのひとたちを助けてください。どうか、助けてあげてください」
ひどく小さな声だった。
けれど真摯な祈りであり、同時に幼子の
それは、力なき己を
違うのだ、とオショウは思う。
まだわずかに目覚めたままの意識の欠片で、彼は思う。
力の強弱は、善悪の領分ではない。
赤子のか弱きを、果たして
時に蹂躙されようと善は変わらず善であり、時に栄華を誇ろうと悪は変わらず悪である。
非力を
オショウたち従軍複製僧兵が偽りとはいえ幸福な記憶を転写されるのは、仏道が弱きを助く心を基盤とするが故である。他者との縁は、力なき衆生を救う力として自らを定義し、律する為に欠かせぬからだ。
もし己一個の
仏道とは衆生を救う道であり、世を救う道である。
その根幹を、決して忘却してはならぬのだ。
無論、世の全ての救済が叶うなどと盲信するではない。
座して救いを待つだけの者にまで手を伸べようとも思わない。
己の境遇のみを叫び、哀れを売り物に厚意を食い漁るなら、自らの足にて立つ意志を備えぬならば、それは施しを求めるばかりの餓鬼である。守るべき弱きではなく、正道を行く者の歩みを縛る邪魔でしかなかろう。
孤掌鳴らし難しという。
手のひらはひとつだけでは音を発しない。ふたつが打ち合って、初めてそこに響きが生まれる。
同様に、人は独りでは生きられない。
いずれかにて強たる者が、別のいずれかにて弱となる事がある。その逆もまた然り。
一人が何もかもをできる必要はなく、一人で何もかもができる道理はない。
手を引くのではなく手を引かれるのでもなく、手を取り合い歩む姿こそがきっと良い有り様なのだ。
総合戦闘術仏道は、人を五つの働きであると定義する。
ひとつは
ひとつは
ひとつは
ひとつは
ひとつは
拳がなければ拳は握れず、拳を向けうる対象がなくば殴打は叶わない。またそれらが在ろうとも、己独自の想念なくば力は働かず、行いを伴わない心は他者に伝わる事がない。故に実体験として過程を経る事も、行動の結果を見届ける事もできはしない。
何を用いて殴るのか、何を殴るのか、何を想って殴るのか、何を為そうと殴るのか、何が殴った後に生まれるのか。
これこそが人にも戦いにも欠かせぬ
五蘊なくして我はなく、我なくば他の全てはないのに等しい。
故に言う。
それは己を至上とする言葉ではない。
我なくして他は在らず、他なくして我もまた無し。世界を観ずる我なくして世界は無い。しかし同時に、我の在り処たる世界なくしては我も在りえない。
世界とは無数の我と他の集合体であり、なればそれらひとつひとつが世界に等しい。
よって己を尊び慈しめと。
己にするが如く他を愛せと。
斯様に告げる慈愛の声音である。
だからこそ滅私して他を想うエイシズの声は、その慟哭の響きは、オショウの魂の奥深くへと差し込んだ。
けれど。
眠りの定めに抗わんとオショウの胸を掻き立てるのは、第二の天性として染み付いた仏道理念ばかりではなかった。
胸中に、ひとつの顔がある。
ケイト・ウィリアムズ。
彼の心に火をくべたのは彼女であった。
命の恩人であるという一点からしても、確かに彼女は特別だ。
結果として生まれ育った世界より遠く離れ、二度と帰参は叶わぬ身の上とはなった。だがあのままの死を望まなかった己にとって、
しかし、そればかりではないようだった。
オショウと同じく、彼女もまた戦争の道具、闘争の部品として育て上げられた存在である。
でありながら、彼女はこの上なく人だった。
──大好きで大切なものの為になら、わたくし、命懸けにだってなれるのですわ。
眩いものを胸に
彼は、彼女を美しいと思った。
これは、煩悩であるのやもしれぬ。
悟りを妨げる
だが信じた。
仏的証拠などありはしない。
だが彼は信じたのだ。
己の要たるものを、遂に
けれど、その小さなものの中に、全てがあった。
一により十は作られ、百から千が成り立っていた。
億の中に万が含まれ、京は兆により
無数の小があらゆる大を形成し、あらゆる大は小として、更に大きな大を構築していた。
一理は万理に通じ、やがて真理に至る。
即ち、曼荼羅である。
己に宿る炎を、オショウは感じた。
心が熱を発していた。自ら燃え上がるようだった。
それはかつてのように与えられた感情ではなく、手ずから得たものだった。刷り込まれた知識ではなく、温度を備えた自らの体験だった。
あの時、暗く冷たい
それはある。
ここに。この胸に。
自ら燃え盛るものが
内面の火に応ずるように、現実のオショウの肉体がわずかに動いた。
じりじり、じりじりともどかしいほどの時間をかけて指先が丸まり、それは拳を形作っていく。
霊術に携わる者ならば誰もが目を疑う光景だった。
召喚術式は徹底的に安全性を考慮された大規模儀式霊術である。世界にとっての危険物を喚び込まぬように、喚んだとしても必ず処理が叶うように、幾重にも幾重にも防御策が織り込まれている。
その最たるものこそが召喚主の絶対命令権だった。
召喚に呼応じた時点で、全てに優先して機能するよう設定されるこれを拒絶するのは、自らの存在そのものを書き換える行為に等しい。魚に空を飛べと、鳥に水を呼吸しろと命じるようなものだ。そのような振る舞いが叶うはずはない。
同様にオショウが動けるはずが、目覚めるはずがない。
その道理を、今、仏理が凌駕する。
ある哲学者はこう記した。「精神など肉体の奴隷に過ぎない」と。であればこれは、その逆転現象だったろう。
岩をも通す一念により駆動する仏。
世に言う念仏であった。
硬木製の扉が真っ二つに割れたのは、声を
大型の獣を思わせるしなやかさで現れ出た巨体は、紛う事なきテラのオショウのものである。
驚きと共に振り仰ぐ少年の頬に、涙の跡があった。誰かを思い、誰かの為に流された涙だった。その想念の一途さ故に、彼の声はオショウへ届いた。
深く感謝を込めて、オショウはエイシズに合掌をする。
もし彼というきっかけなくば、自らの覚醒は、全てが手遅れになってからであったに相違ない。
「あ、あ……!」
言いたい事、伝えたい事が
オショウの手がゆっくりと伸びて、落ち着かせるようにその肩をぽんと叩いた。
そして、
「うむ」
目を見つめたまま、ゆっくりと、ひとつ頷く。
少年の焦燥はやがて安堵の面持ちに変わり、笑顔を経て、再びくしゃくしゃと泣き顔になった。
籠手を装っていたので懸念をしたが、幸いケイトは
よって、オショウは駆け出した。
生物以外のあらゆる障害を霧でも突き抜けるかのように破砕しながら、文字通り一直線に、最短距離を最高速でただ駆けた。
不幸にもこの信じがたい道行きを目撃した歩哨は大慌てに報告をして頬を張られ、現場まで上官を引き摺って目に物見せてから頬を張り返したという。
*
斯くしてオショウはたどり着く。
災禍の中心に。魔皇の眼前に。そして、ケイトの傍らに。
間一髪、彼は間に合ったのだ。
放り捨てた蛇体が、粘塊に変じ揮発する。その様を横目に捉えながら、更にオショウが一歩を踏み出す。
あるはずがない。あるはずはないのだが、途端、石造りの魔城がびりびりと震えたように思われた。
「……オショウ、様」
諦念と絶望に絡め取られていた少女は、ただ呆然と彼を見る。
ここへ来てはならないと、自分は拒絶を示したはずだった。それはオショウにも確実に伝わったはずだった。
なのに。
「どうして、ここへ?」
「うむ」
微かな笑みでオショウは頷き、返答はそれだけだった。まるで問答になっていない。
だというのにケイトは、それですとんと納得してしまった。
不思議とただそれだけで、もう大丈夫だと思えてしまった。
本当に心の底から、ほっとしてしまったのだ。
体を支えていた緊張が途切れ、彼女はへたへたと座り込む。
「本当に──本当に困った方ですわね、オショウ様は」
ぽろりと涙が零れた。嬉しいのか悲しいのか、自分でもよくわからない。
ひとつだけ確かなのは、彼がこの世界の人々を救うべく駆けつけてくれた事、それだけだ。
そしてオショウが人類の守護者として参陣したのならば、自らが受けるべきは叱責である。
言い分はどうあれ、己を高く、魔皇を低く見誤り、独断で彼という戦力を
まだ半分は泣き顔のまま、覚悟を決めてケイトはオショウを振り仰ぐ。
ちょうど彼は、少し身を屈めたところだった。
「……あ」
伸ばしたその指先が、目元にそっと触れる。
左。右。順にゆっくりと拭われて、不意に言葉が頭を過ぎった。
──その涙を止める為に、おそらく俺は喚ばれたのだ。
急に、ひどく恥ずかしい振る舞いをされた心地になった。
状況も忘れて、かっと頬に血が昇る。
──か、勘違いですわ。ええ。これはきっと、わたくしの勘違いです!
そう、勘違いに決まっているのだ。
彼が自分の為に、ケイト・ウィリアムズの為だけにやって来てくれたようだなんて、思い上がりのはずなのだ。
でなければそれはまるで、恋物語の男女のように親密な──。
ふるふると首を振って雑念を追い払い、ケイトは「オショウ様!」と声を張り上げる。
「もう『どうして』は問いません。いらしてしまったものは仕方ありませんものね」
「うむ」
「ご助勢いただいたばかりなのに図々しいですけれど、わたくし、重ねて
「うむ」
「では、オショウ様」
伸びたケイトの指先が、ぴしりと強く魔軍を示す。
「やっつけてちゃってくださいまし!」
「うむ」
応じてオショウはひとつ頷き、そして付け加えた。
「楽勝だ」