第39話 先駆け

文字数 2,858文字

 オショウとケイトが夜陰に乗じて宿を出たのは、ラムザスベルに到着したその日の夜のことだった。
 なかなかの強行軍であったが、ツェラン・ベルの見立てによれば、ロードシルトが事を起こすのは剣祭決勝の後とされている。となれば猶予はあと二試合、わずか二日を残すのみ。一刻も無駄にはできなかった。
 しかし翌日の昼に、カナタはソーモン・グレイとの立ち合いを控えている。聖剣がテトラクラム側にとっても勝ち進むのは大前提であったから、万端を整えるべく、不承不承ながら当人は床に就いていた。
 イツォルは陽動役を担い、頃合いを見計らって単身外出し、宿に張りつく監視の目を一身に引きつけている。
 ほとんどの知覚を容易く掻い潜れる彼女だが、今回に限ってはその異能も意味がなかった。
 イツォルの術式はあくまで隠行であり、実体を消失させる類ではない。物理的に封鎖されてしまえば、それで潜入も脱出もままならなくなる代物なのだ。漫然と調査を行うならまだよかったが、今回のように特定施設を探りたい場合、これは致命的だった。彼女の存在を感知できなくなった時点で、備えて固く門戸を閉じればそれで対策ができてしまう。
 加えてロードシルトは、元とはいえラーガムの重鎮である。国の内外で諜者として名高いセム家家伝術式の破り方を心得ないはずがなかった。

 ために彼女は、いつどこで消えるかわからない状態での陽動を担い、隠密裏にオショウとケイトを宿から抜け出させたのだ。これまで気取られぬ細心を極めていたイツォルが、突然人を用いての奇襲にやり口を変えるとはロードシルトも思うまい。
 斯くしてオショウとケイトは酒蔵(・・)を目指した。
 酒蔵とは、ラムザスベル第十三壁内に設けられた資材倉庫の通称である。霊術加工された薬品を、やはり術式を施した樽で多量に保管することからついた名だった。

「でももうあと残すところ二試合というのは残念ですわ。カナタ様の活躍も大半を見逃してしまいましたし。もっと早く到着すべきでしたかしら」
「うむ。だが」
「ええ、決して無駄な旅ではありませんでしたわよね。急いでは見えない景色もありますもの」
「うむ」

 途上、ケイトは始終楽しげかつ饒舌である。
 上機嫌めくこの振る舞いは、緊張から生じるのが半分だろう。気楽な物見遊山のつもりが思わぬ陰謀に巻き込まれ、気分の切り替えが追いついていないのだ。
 魔皇のことがおよそ済み、この頃のケイトは生死の間境より離れ弛緩していた。これがゆえの遅滞であろうが、ようやく重圧から解放された娘の安堵を、誰が懈怠(けたい)(そし)れようか。

「それにカナタ様、イツォル様の手助けには間に合ったのですから、よしとしましょう。こういうのを、袖触り合うも多生の縁と言うのでしたかしら? わたくし、素敵な言葉だと思いますわ」

 もう半分は、素直に上機嫌なのだろう。
 ケイトは人に頼られ、また信じられることを喜ぶ性質(たち)である。大好きなもの、大切なもののためになら、死すら躊躇わぬ娘なのだ。世に悪意があるを知りながらのその無私は、オショウの深く敬うところである。

「そう言えば実はわたくし、宿帳は偽名を書いておきましたの。きっとあれも功を奏しましたわね!」
「……うむ」

 おそらくラカンとフェイトの名を記したのだろうが、サダクたち隊商と共にアプサラス王の肝入りが都市に入ったとも、この両名がそのような名であるとも、既に知られるところであろう。
 さすればさして意味のない仕業だが、それは言わぬが花というものだ。オショウは曖昧に頷いてやり過ごす。

「ところでオショウさまはどう思われます?」
「む?」
「カナタ様とイツォル様のことですわ。おふたりはやっぱりそういう仲でいらっしゃるのかしら! イツォル様がとっても献身的で、あれが内助の功というものですかしら! 部屋は別でしたけれど、なんというかこう、距離が近くありませんでしたかしら!」

 きゃあきゃあと黄色い小声で盛り上がるケイトを眺め、そういえば、とオショウは思い出した。過日、ケイレブより聞いた覚えがある。『ねーちゃん、恋物語とか好きだからな。始まると長ーんだ』と。
 まあ己と縁遠いものに憧れる心地は、戦場に生まれ戦場で死んだオショウにわからぬものではない。
 半ば自分の世界に引き籠ってしまったケイトへ適度に相槌を打ちつつ、オショウは酒蔵に待ち構える者について考える。
 フィエル・アイゼンクラー。初めて相手取る、我法使いなる存在だった。

『彼は、怖くはないそうです』

 ツェランよりもたらされた情報として、そのように聞き及んでいる。
「強くない」ではなくではなく、「怖くない」の意味するところとは、この人物が肝心要で必ず判断を誤るからだという話だった。
 冗談口ではない。これは我法の一側面であった。
 我法使いは、己の信じる現実を具現する。得手とする一面においては恐ろしく尖った性能を発揮するがゆえに、我法とは凄まじく有益なものと思われがちだ。そうして称賛されることで、我法使いたちは己の法への信頼を深め、その作用を増していく。

 が、法は呪いに近似である。もし自身の短所を強く思い込めば、己を呪縛し弱めることもまたあるのだ。
 運不運を決め込む(げん)担ぎめいた行動は、ごく普通に見られることだ。だが我法使いの場合、心の強さ弱さは特に如実に現れ、力量に反映されるのだった。
 認識と承認を繰り返し、彼らは信仰の深度を増していく。正負、どちらの方向にも。まさしく自縄自縛のありさまでである。

『法の効能自体も解のない干渉拒絶みたいなものらしいですし、オショウさんなら、何も問題ないかと思います』

 かつてオショウとラーフラの一騎打ちを目撃したカナタは屈託なく太鼓判を押し、伝聞のみのイツォルも、『カナタがそう判断するなら』と同意を示した。
 だが僧兵は己が手のひらに目を落とし、思う。
 自分はこの世界にとって異物だ。喚ばれたのは魔皇を討つべくであり、それ以上にこちらへ関わってよいものだろうか。或いは自らの迂闊な行為が世に奇態なうねりを生み、思わぬ悲劇を生じさせる一因となるやもしれぬ。
 我が理想の一念により魔皇を救ってのち、彼は懊悩し続けていた。
 ゆえにオショウは、アイゼンクラーに共感する。誤ることに怯え、選ぶことを恐れる。現在の己と彼は程近かろう。
 膨大な未来の選択肢を得た今、彼の(けん)には迷いがある。ただでさえ重力下の高速機動には、未だ不慣れがつきまとうのだ。心身の統一が為されぬこの状態で期待される戦力となりうるものかどうか、オショウはいささか案じていた。
 かつてより思えば、贅沢な話ではある。戦わねば死に、殺さねば殺される。そのような生きざまに、思い悩む余裕などなかったのだから。
 目指す酒蔵が、自嘲めく想念を打ち破るように火を吐いたのは、その時であった。
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