第8話 shining
文字数 4,650文字
脱出艇とはよく言ったもので、彼女らが乗り込んだ機体に飛行能力は存在しなかった。あるのは高空から滑空し、どうにか落ちて死なずに済む程度の機能ばかりである。
それでもどうにか、ケイトたちは軟着陸に成功した。密集する木々の合間を縫い、霊術障壁を最大限に活用しながらの胴体着陸は、勿論二度としたい体験ではなかったけれど。
また導石のお陰で、オショウとの合流がスムーズだったのも幸運だった。
彼が歩哨に立つ事でケイトは生存者の治療に専念でき、結果として三名が命を取り留めた。元より乗組員の少ない小型飛空船であったけれど、五王の強襲から救えた者は、残念ながら更に少ない。
けれど真の難題は、そうして一息をついたその後にこそ横たわっていた。
生存者たちはいずれも重症である。
一人は片足を潰され、一人は片腕を砕かれていた。五体満足に見えるもう一名も腹の骨が折れ、そのささくれが内蔵を傷つけていると思 しき状態だ。
特に最後の一人が危うかった。覚醒と失神を繰り返しながら、常に苦しく痛みに呻いている。時折混じる女の名は、母のものか、妻のものか、娘のものか。できるだけ早く、複数の治療術の使い手からの施術を受けねば危うい状況だった。到底自身で動ける状態ではない。
残る二人ははっきりとした意識を保ち、受け答えもしゃんとはしている。けれどこれもまた、霊術の鎮痛作用が機能する間 だけの事に過ぎないだろう。樹界の移動など朽ちた縄で行う綱渡りだ。
診断を終え、ケイトは自分が決断を迫られているのを感じていた。
彼らの治療の為にここに留まり続けるのは、愚か極まりない振る舞いである。
船の墜落という珍事に、周囲は静まり返っている。森に棲むものどもは警戒心から息を殺し、様子を窺うだけに留まっている。だがいずれ血の匂いに誘われて、獰猛な界獣が姿を見せるのは間違いのない事だった。
オショウがいる以上、それは必ずしも死には直結しまい。
しかし彼の力とて無尽蔵ではなく、何より森を抜けぬ限り同種の危険は尽きない。
であるならば、無茶を承知の強行軍で移動を図るしかないのだけれど。
「……」
もう一度順繰りに鎮痛と治癒力賦活を施して回り、ケイトは心の中で深いため息をつく。
この状況下での樹界の移動は、緩慢な自殺を意味していた。
重傷者を連れる以上、当然ながら行軍の速度は鈍る。界獣の襲撃の回数と頻度はその分だけ増し、負担と疲労は重なり、いずれ自身もオショウも力尽きて共倒れとなる事だろう。
何より。
魔皇征伐に赴くこの局面において時がどれほど重要なものかを、無論ケイトは知悉 していた。
──わかっていた事ですわ。
彼女はきゅっと小さな手を握り締めた。痛いほどに強く握った。
アプサラスの王を救うべく、我が身を晒した時のように。
もしもただ心情のままに、勢いのままに動ける局面であったなら。苦難を伴いながらも皆で生還するという判断を、ケイトは下していた事だろう。
だが、そうではなかった。それは許されなかった。
不幸にも前後の思案を巡らせるだけの寸暇 があり、そして彼女は考えてしまった。
人類にとって何が最善かを。自分がどうすべきかを。
──ええ、わかりきっていた事ですわ。わたくしの手のひらに、何もかもなんて掴みきれません。
見過ごせなくて。何かできればと動いてしまったけれど。
結局自分のした事はただの自己満足だった。無駄に長らえさせて、苦しみを引き伸ばすだけの行為だった。そう認めるのはとても苦い。でも、それが事実なのだ。変え難い真実なのだ。
まぶたを閉じて、意識を負傷者たちから引き剥がす。
「参りましょう、オショウ様」
「うむ?」
「先へ参りましょう。わたくしたち二人だけで。彼らは見捨てます。これ以上遅れるわけにはいきませんの。だって魔皇を討てなければ、もっと多くの命が失われるのですから」
ただ正しいだけの意見を、声を大にしてケイトは告げる。見捨てられる者たちの耳にも、確かに届くように。
責を負うつもりだった。
だってこれは、自分の選択なのだから。
けれど、批難は起こらなかった。
「我々は、」
彼らは互いに見交わし、やがて代表して一人が口を開く。
死を宣告されたはずなのに、ひどく、穏やかな顔をしていた。
「我々は、貴女の旅の無事をお祈りします」
「っ!」
たまらずに、口元を覆った。膝からは力が抜けて、今にも崩れそうだった。
恨んでくれたら、いっそ恨んでくれたらいいのに。そう思う。
震える肩に、大きな手が添えられた。
「泣くな」
「泣いてなどおりません。楽勝ですわ。この程度、想定の範囲内です」
我ながら、薄っぺらい言葉だった。しゃくり上げる声のどこにも信憑 性がない。
「泣くな」
オショウは不器用にもう一度繰り返す。
そうして幼子にするように、ぽんぽんと頭を撫でた。
「大義の為に小を切り捨てる。その判断は怜悧 と思う。のみならず、己の裁断を是と繕 わぬ心を善と思う。けれど泣くな。その必要はない。その涙を止める為に、おそらく俺は喚ばれたのだ」
言いながらケイトの傍らを離れ、彼は脱出艇の翼に触れる。
ひと揺すりしてから、一同を振り返った。
「乗り込め。揺らさぬよう心がけるが、傷が重い者は縛って固定しておいた方がいいだろう」
「……えっと、あの、オショウ様? 乗ってもそれは飛びませんわ」
「承知の上だ。俺が担ぐ。急ぐのだろう? 担いで走る」
「かつ……え?」
理解が追いつかないケイトを捨て置き、オショウは手のひらで機体を撫でた。
材質とその硬度を確認するや、
「吩 !」
気合と共に繰り出された鉄拳で、片翼が破砕された。続けてランディングギアを蹴り壊し、機首と尾翼を手刀で切り離し、次々と不要な部位をパージしていく。正直、人間業とは思えない。
ただただ唖然と見守るしかないケイトたちを尻目に、オショウは素手で鋼板を飴細工の如くに捻じ曲げ折り曲げ、目を疑うような工作過程がやがて生み出したのは、鋼鉄の椀 としか表現しようのない代物である。
彼はケイトを振り返ると「うむ」と頷き、
「これで、運びやすくなった」
確かに元の形に対して小さくはなった。軽量化もされた事だろう。だが五、六人は楽に収まりそうなその鉄塊が、まだどれほどの重量であると彼は思っているのであろうか。
そんな疑問に応じる様に、オショウは分厚い鋼板の縁 を掴むや、片腕で椀を持ち上げてのけた。まるで暖炉にくべる薪 を持つような気安さだった。
ずしりと怪我人たちの前にその乗り物 を置き直し、彼は不思議げに首を傾げる。
「乗らぬのか?」
あまりの光景に絶句していた負傷者三名が、そこでようやく気づいた。この荒技と作り出された異物とは、自分たちを救う為のものなのだ、と。
浮かんだ安堵の表情に「うむ」と笑んだその時、彼の胸に飛び込んできたものがある。
「オショウ様、オショウ様!」
それは涙で濡れた顔をくしゃくしゃにしたケイトであった。
「ありがとうございます。その、ありがとうございます。わたくし、わたくし……!」
あとの言葉は、もう意味をなさなかった。
すがり付いて泣きじゃくる娘の取り扱いがわからず、オショウは所在無く手を握ったり開いたりした。
*
肩担ぎした椀を結界で包 み、大樹をへし折り巨石を踏み砕き、オショウはただ一直線に進んでいく。
恐るべき事に。また、信じがたい事に。
乗員四名を運搬する彼の速度は、飛空船のそれを凌ぐものだった。
方角を見定めるのには乗組員の導石が役立った。カヌカ祈祷拠点の祈祷塔そのものと共鳴するこの指針があれば、樹界に迷う憂いはない。
「あの!」
一刻ほども走ったろうか。不意に呼ばわれて、オショウはわずかに足取りを緩めた。
肩越しに振り仰げば、そこには椀の縁 に両手でつかまり、ひょっこり顔を出したケイトの姿がある。次いで彼女が告げたのは、重傷者への再施術が終わり、三名ともがおよそ不安のない状態まで持ち直したとの報だった。
うむ、と喜ばしく返したのだが、彼女はそれで頭を戻さない。
べきべき、めきめきという移動音の隙間を縫い、おずおずとながら声を続ける。
「わたくし、ひとつだけオショウ様にお訊きしたい事があるのですけれど、よろしいでしょうか?」
「うむ?」
「ではお言葉に甘えまさせていただきますわね。……あの、とてもありがたい事ではあるのですけれど、でも、どうしても気になるんですの。何故こうも親身になって、わたくしを助けてくださるんですの? わたくし、お話した以上のお返しなんてできませんのに」
彼にしては珍しく即答をしかね、オショウは前を向いた。速度を元のペースに戻しながら、しばし黙考する。
彼女に命を救われた、という恩は確かにある。
だが、己の胸にあるのはそれだけではなかった。
「この地に喚ばれる以前、俺は何も持たなかった。対してこの地で見 えた娘は、俺が欲したものを持っていた。俺が羨むものを持っていた。そして身命を賭し、それを守護せんとしていた。故に真似てみようと決めた。まずは眼前に在る偉大な守り手を、俺が守り抜いてみようと。そうすれば俺にも何かがわかるのではないかと、何かを得られるのではないかと考えたのだ」
忙 しく歩を進めながらも、彼の言の葉は乱れず静かによく通った。
ケイトはきょとんと聞き入れて、やがてその意味するところに気がついた。慌てた仕草で、椀からぐいと身を乗り出す。
「ご、誤解ですわ、オショウ様! わたくし、そんな立派な……!」
「俺は、眩 く思った」
「……っ!?」
オショウは口が上手くない。だからそれが美辞麗句ではなく、心の底から発された賞賛なのだと知れた。
わっと頬が熱くなる。
鏡などなくとも、自分が耳まで赤くなっているのがわかった。鼓動が早鐘のようだった。
──な、なんですの。なんなんですの、これ!?
口をぱくつかせるケイトの表情は、後ろ姿からも十分に想像ができたのだろう。
怪我人たちは自らの傷も忘れて、揃った忍び笑いを漏らす。合わせたようにオショウが「うむ」とひとつ頷いた。途方もない重量を背負 いながら、その足取りは実に軽やかだった。
「もうっ、そこ! 何を笑ってらっしゃいますの!? なんですの? どうして『わたくしの負け』みたいな感じになってるんですの!? あ、オショウ様も何か勝ったみたいな雰囲気になってらっしゃいませんこと!? ちょっと、もし!!」
道なき道を行くオショウの走音が、どうやら獣避けとして作用したものらしい。
界獣の襲撃はわずか数度を被ったのみで、一行は半日がかりの行程を踏破。無事大樹界からの脱出を果たした。
密林さえ抜ければ、カヌカ祈祷拠点はもう指呼 の間 である。
──しかし。
ようやく目にした人類の最前線は、噴き上がる黒煙と燃え盛る炎とに包まれていた。
それでもどうにか、ケイトたちは軟着陸に成功した。密集する木々の合間を縫い、霊術障壁を最大限に活用しながらの胴体着陸は、勿論二度としたい体験ではなかったけれど。
また導石のお陰で、オショウとの合流がスムーズだったのも幸運だった。
彼が歩哨に立つ事でケイトは生存者の治療に専念でき、結果として三名が命を取り留めた。元より乗組員の少ない小型飛空船であったけれど、五王の強襲から救えた者は、残念ながら更に少ない。
けれど真の難題は、そうして一息をついたその後にこそ横たわっていた。
生存者たちはいずれも重症である。
一人は片足を潰され、一人は片腕を砕かれていた。五体満足に見えるもう一名も腹の骨が折れ、そのささくれが内蔵を傷つけていると
特に最後の一人が危うかった。覚醒と失神を繰り返しながら、常に苦しく痛みに呻いている。時折混じる女の名は、母のものか、妻のものか、娘のものか。できるだけ早く、複数の治療術の使い手からの施術を受けねば危うい状況だった。到底自身で動ける状態ではない。
残る二人ははっきりとした意識を保ち、受け答えもしゃんとはしている。けれどこれもまた、霊術の鎮痛作用が機能する
診断を終え、ケイトは自分が決断を迫られているのを感じていた。
彼らの治療の為にここに留まり続けるのは、愚か極まりない振る舞いである。
船の墜落という珍事に、周囲は静まり返っている。森に棲むものどもは警戒心から息を殺し、様子を窺うだけに留まっている。だがいずれ血の匂いに誘われて、獰猛な界獣が姿を見せるのは間違いのない事だった。
オショウがいる以上、それは必ずしも死には直結しまい。
しかし彼の力とて無尽蔵ではなく、何より森を抜けぬ限り同種の危険は尽きない。
であるならば、無茶を承知の強行軍で移動を図るしかないのだけれど。
「……」
もう一度順繰りに鎮痛と治癒力賦活を施して回り、ケイトは心の中で深いため息をつく。
この状況下での樹界の移動は、緩慢な自殺を意味していた。
重傷者を連れる以上、当然ながら行軍の速度は鈍る。界獣の襲撃の回数と頻度はその分だけ増し、負担と疲労は重なり、いずれ自身もオショウも力尽きて共倒れとなる事だろう。
何より。
魔皇征伐に赴くこの局面において時がどれほど重要なものかを、無論ケイトは
──わかっていた事ですわ。
彼女はきゅっと小さな手を握り締めた。痛いほどに強く握った。
アプサラスの王を救うべく、我が身を晒した時のように。
もしもただ心情のままに、勢いのままに動ける局面であったなら。苦難を伴いながらも皆で生還するという判断を、ケイトは下していた事だろう。
だが、そうではなかった。それは許されなかった。
不幸にも前後の思案を巡らせるだけの
人類にとって何が最善かを。自分がどうすべきかを。
──ええ、わかりきっていた事ですわ。わたくしの手のひらに、何もかもなんて掴みきれません。
見過ごせなくて。何かできればと動いてしまったけれど。
結局自分のした事はただの自己満足だった。無駄に長らえさせて、苦しみを引き伸ばすだけの行為だった。そう認めるのはとても苦い。でも、それが事実なのだ。変え難い真実なのだ。
まぶたを閉じて、意識を負傷者たちから引き剥がす。
「参りましょう、オショウ様」
「うむ?」
「先へ参りましょう。わたくしたち二人だけで。彼らは見捨てます。これ以上遅れるわけにはいきませんの。だって魔皇を討てなければ、もっと多くの命が失われるのですから」
ただ正しいだけの意見を、声を大にしてケイトは告げる。見捨てられる者たちの耳にも、確かに届くように。
責を負うつもりだった。
だってこれは、自分の選択なのだから。
けれど、批難は起こらなかった。
「我々は、」
彼らは互いに見交わし、やがて代表して一人が口を開く。
死を宣告されたはずなのに、ひどく、穏やかな顔をしていた。
「我々は、貴女の旅の無事をお祈りします」
「っ!」
たまらずに、口元を覆った。膝からは力が抜けて、今にも崩れそうだった。
恨んでくれたら、いっそ恨んでくれたらいいのに。そう思う。
震える肩に、大きな手が添えられた。
「泣くな」
「泣いてなどおりません。楽勝ですわ。この程度、想定の範囲内です」
我ながら、薄っぺらい言葉だった。しゃくり上げる声のどこにも
「泣くな」
オショウは不器用にもう一度繰り返す。
そうして幼子にするように、ぽんぽんと頭を撫でた。
「大義の為に小を切り捨てる。その判断は
言いながらケイトの傍らを離れ、彼は脱出艇の翼に触れる。
ひと揺すりしてから、一同を振り返った。
「乗り込め。揺らさぬよう心がけるが、傷が重い者は縛って固定しておいた方がいいだろう」
「……えっと、あの、オショウ様? 乗ってもそれは飛びませんわ」
「承知の上だ。俺が担ぐ。急ぐのだろう? 担いで走る」
「かつ……え?」
理解が追いつかないケイトを捨て置き、オショウは手のひらで機体を撫でた。
材質とその硬度を確認するや、
「
気合と共に繰り出された鉄拳で、片翼が破砕された。続けてランディングギアを蹴り壊し、機首と尾翼を手刀で切り離し、次々と不要な部位をパージしていく。正直、人間業とは思えない。
ただただ唖然と見守るしかないケイトたちを尻目に、オショウは素手で鋼板を飴細工の如くに捻じ曲げ折り曲げ、目を疑うような工作過程がやがて生み出したのは、鋼鉄の
彼はケイトを振り返ると「うむ」と頷き、
「これで、運びやすくなった」
確かに元の形に対して小さくはなった。軽量化もされた事だろう。だが五、六人は楽に収まりそうなその鉄塊が、まだどれほどの重量であると彼は思っているのであろうか。
そんな疑問に応じる様に、オショウは分厚い鋼板の
ずしりと怪我人たちの前にその
「乗らぬのか?」
あまりの光景に絶句していた負傷者三名が、そこでようやく気づいた。この荒技と作り出された異物とは、自分たちを救う為のものなのだ、と。
浮かんだ安堵の表情に「うむ」と笑んだその時、彼の胸に飛び込んできたものがある。
「オショウ様、オショウ様!」
それは涙で濡れた顔をくしゃくしゃにしたケイトであった。
「ありがとうございます。その、ありがとうございます。わたくし、わたくし……!」
あとの言葉は、もう意味をなさなかった。
すがり付いて泣きじゃくる娘の取り扱いがわからず、オショウは所在無く手を握ったり開いたりした。
*
肩担ぎした椀を結界で
恐るべき事に。また、信じがたい事に。
乗員四名を運搬する彼の速度は、飛空船のそれを凌ぐものだった。
方角を見定めるのには乗組員の導石が役立った。カヌカ祈祷拠点の祈祷塔そのものと共鳴するこの指針があれば、樹界に迷う憂いはない。
「あの!」
一刻ほども走ったろうか。不意に呼ばわれて、オショウはわずかに足取りを緩めた。
肩越しに振り仰げば、そこには椀の
うむ、と喜ばしく返したのだが、彼女はそれで頭を戻さない。
べきべき、めきめきという移動音の隙間を縫い、おずおずとながら声を続ける。
「わたくし、ひとつだけオショウ様にお訊きしたい事があるのですけれど、よろしいでしょうか?」
「うむ?」
「ではお言葉に甘えまさせていただきますわね。……あの、とてもありがたい事ではあるのですけれど、でも、どうしても気になるんですの。何故こうも親身になって、わたくしを助けてくださるんですの? わたくし、お話した以上のお返しなんてできませんのに」
彼にしては珍しく即答をしかね、オショウは前を向いた。速度を元のペースに戻しながら、しばし黙考する。
彼女に命を救われた、という恩は確かにある。
だが、己の胸にあるのはそれだけではなかった。
「この地に喚ばれる以前、俺は何も持たなかった。対してこの地で
ケイトはきょとんと聞き入れて、やがてその意味するところに気がついた。慌てた仕草で、椀からぐいと身を乗り出す。
「ご、誤解ですわ、オショウ様! わたくし、そんな立派な……!」
「俺は、
「……っ!?」
オショウは口が上手くない。だからそれが美辞麗句ではなく、心の底から発された賞賛なのだと知れた。
わっと頬が熱くなる。
鏡などなくとも、自分が耳まで赤くなっているのがわかった。鼓動が早鐘のようだった。
──な、なんですの。なんなんですの、これ!?
口をぱくつかせるケイトの表情は、後ろ姿からも十分に想像ができたのだろう。
怪我人たちは自らの傷も忘れて、揃った忍び笑いを漏らす。合わせたようにオショウが「うむ」とひとつ頷いた。途方もない重量を
「もうっ、そこ! 何を笑ってらっしゃいますの!? なんですの? どうして『わたくしの負け』みたいな感じになってるんですの!? あ、オショウ様も何か勝ったみたいな雰囲気になってらっしゃいませんこと!? ちょっと、もし!!」
道なき道を行くオショウの走音が、どうやら獣避けとして作用したものらしい。
界獣の襲撃はわずか数度を被ったのみで、一行は半日がかりの行程を踏破。無事大樹界からの脱出を果たした。
密林さえ抜ければ、カヌカ祈祷拠点はもう
──しかし。
ようやく目にした人類の最前線は、噴き上がる黒煙と燃え盛る炎とに包まれていた。