第9話 勇ある者

文字数 6,057文字

 カヌカ祈祷拠点駐留軍総指揮官の名を、エイシズ・ターナーという。
 仰々しい肩書きを見ればまるで歴戦の古強者のようだが、そうではなかった。まだ少年と呼んで差し支えのない(よわい)の彼は、たまさかここへ任ぜられていた若輩である。
 人魔必争の地を選んで設けられた祈祷拠点だが、魔軍なき平時においては安閑たる辺境でしかない。
 その総指揮官とは実務を祈祷拠点付きの副官たちに委ね、ただ椅子に座ってさえいればよい立場を意味し、エイシズのような貴族子弟が経歴への箔づけとして利用する通過点であった。
 つまるところ彼の不運は、その任期中に皇禍が発したという一点に尽きる。

 魔軍侵攻の急報が届いた当初、エイシズは己の責任の重大さに震えた。最前線の最高指揮官という立場は、魔軍と対峙し続けるという現実は、食を受け付けなくなるほどに彼の心を蝕んだ。
 しかし、数日もせぬうちに彼は気づく。
 魔族が現れたその(のち)も、全てが副官たちにより遺漏なく執り行われているという事実に。(よろず)はエイシズの前を素通りして決定され、変わらず彼はお飾りだった。
 そうしてエイシズは理解する。
 自分にはする事も、出来る事もないのだと。それからは大人たちの邪魔をせぬよう、じっと席にだけ座す日々だった。

 やがてアーダルからセレストたちが、ラーガムからカナタたちが着陣。
 彼ら人類精鋭による魔族との前哨戦は負け知らずで、戦況は優勢と見えた。圧倒的戦果を目の当たりにして、拠点の兵たちの士気も大いに振るった。
 だからアプサラスの手勢を待たずに出立すると告げられた時も、さしたる不安は覚えなかった。彼らの振る舞いは相変わらず英雄めいて自負と自信に満ち溢れていて、その勝利に少しの疑いを挟む余地もなかった。
 一行を見送ったエイシズは、こうして何事もなく此度の皇禍は終わるのだろうと考えていた。
 この日、その時までは。


 カヌカ祈祷拠点に火の手が起きたのは、セレストたちの出陣からしばしが過ぎた頃である。
 各所に生じた猛烈な炎により一時的な混乱が生じたものの、駐留軍はただちに統制を取り戻すや消火活動を放棄。拠点中央部の祈祷塔へと集結し、これを守るべく布陣した。
 同時的に生じた火災は魔軍の仕業以外になく、未だ姿を見せぬ襲撃者の目的を祈祷塔の破壊、ひいては封魔大障壁の解除と断じたからである。
 祈祷塔を内包し、整然たる方円の陣が組まれた。大盾を備えた兵がぐるりと外周を受け持ち、その内側に槍兵、弓兵、霊術師が射程の順に層を作る。
 場は空気が、肌を切るほどに張り詰めた。
 炎の熱を浴びながら、煙にひどく燻されながら、誰もがこそりとも音を立てない。いつ、どこから現れるかも知れぬ魔に対し、全軍が知覚を研ぎ澄まして備えていた。
 ただ静かに。緊張は不吉を孕んでその水位を増し──ついに、それが破れる。

 轟音と共に兵舎の壁が吹き飛んだ。
 開口と同時に炎を吹き出した大穴から、隊伍(たいご)目掛けて投じられたものがある。気づいた外周が盾て受けるも勢いは殺し切れず、着弾地点の数名が巻き込まれ、鎧を凹ませながら打ち倒された。
 陣形の穴を塞ぎつつも周囲の者々が確かめれば、飛来物の正体は人だった。人の、(むくろ)であった。恐ろしい速度で複数の鋼に衝突したその全身は、生みの親が見ても気づけぬほどに無残な変形を遂げていた。

 突如出現した凄まじい死に、兵たちが息を呑む。
 波紋めいて伝わる、わずかな動揺。
 その呼吸を狙い澄まして、次の刹那、同じ穴から別の何かが続けて飛び()でた。
 今度の影もまた、人の形をしていた。してはいたが、しかし人ではなかった。
 火の粉を纏い、駐留軍の甲冑を装ったそれは、躍り出た速度そのままに兵士の上に着地。あろう事か鎧ごと、紅を散らせてその肉体を踏み壊す。次いで、両の腕を無造作に突き出すや、それぞれの手のひらにひとつずつ、手近な兵の頭を掴み込んだ。
 金属が握り潰される、異音がした。
 兜ごと首を失った胴体が、鮮血を振りまきながら地に転がった。子供の握り拳ほどに圧縮された鋼と肉の塊を指を開いて落下させ、

(まぎ)れ込むのに化けてはみたが、どうも窮屈でいけねぇ。そろそろ、戻るぜ」

 独白めいて呟くと、それは自らの纏っていた鎧に手をかけた。ぶちぶちと、まるで紙きれの何かのように金属をむしり取り、筋骨隆々たる銅色(あかがねいろ)の素肌を(さら)け出す。
 体躯が、みりみりと膨れ上がった。(たちま)ち、兵たちの背丈を軽々と倍する高さにまでに伸び上がる。
 更に赤銅の色合いを強めたその肌は、鋼鉄の威容を放っていた。全身には(こぶ)の如き筋肉の束が隆起し、披露した怪力の所以(ゆえん)を知らしめる。

 蟻も漏らさぬ密度で組まれた陣形に、波が引いたような空白が生じた。
 総員が大盾を構え、正体を見せた魔を取り巻いたのである。
 瞬きの間に鈍色の壁が出来上がったかのような光景だったが、しかしその実情は包囲とは異なる。
 兵たちは皆、ただそれを恐れて遠巻きにしたのだ。だがこの怯懦(きょうだ)を、一体誰が責められようか。

「機を窺い数を絞り、隠密の内に玉体を穿つ。これは手前らのお得意だろうが。やり返されて怯んでんじゃあねぇ。きっちり対応して見せろや。さもなけりゃ……」

 返り血に濡れた両手を(はた)き、魔族は獰猛に笑う。
 じろりと、(そび)える祈祷塔を()め上げた。

「手前らの大事なあれを、ぶっ壊しちまうぜ?」
(ひる)むな! 大障壁を抜いてきた以上、あれは五王六武に類するものだ。難敵なのは知れた事だ。だが怯むな。我らは最前線。(おび)えて逃げれば、後背(こうはい)の民が死ぬぞ」

 威圧を込めた眼光を跳ね除けるように、副官の激が轟いた。

「槍を構えろ。矢を番えろ。霊術師は速やかに宣誓を解け。狙えるなら打倒を狙え。だが倒せなくても構わん。既に我々の希望は出陣した。彼らが魔皇を討つまで、ただ足止めをすればいい。それで十分だ。それは勝利も同然だ」

 崩れかけた雰囲気を押しとどめた采配に、魔族は内心で舌なめずりをする。
 この魔がカヌカ祈祷拠点を訪れたのは、(ひとえ)にテラのオショウに(まみ)える為であった。ムンフとパエルを続けざまに討ち取った男と、雌雄を決すべくであった。
 祈祷塔の破壊は言うなれば物のついで、ただの暇つぶしのようなものだ。
 だが手強く抵抗し、楽しませてくれる敵があるというのなら、まずはそちらを堪能するのもやぶさかではない。

「ではお望み通り、宣誓しようか。我は皇に身命捧げ奉る六武が一、ディルハディ」

 圧倒的自負の現れか。
 己に向けられる穂先、矢尻、術印のいずれも意に介さず、魔族は仁王立ちで腕を組む。
 一瞬の惑いの後、副官の腕が振り抜かれた。総攻撃の指示である。誘いの隙であろうと隙は隙。一種の無防備が生じているのに間違いはない。
 ディルハディの巨躯へ向け、一斉に槍が投じられ、矢が放たれた。その後を追い、曲射軌道を設定された霊術が、或いは炎、或いは雷、或いは氷の形を成して乱れ飛ぶ。
 だが。

「──この身、血肉に非ずして傷つくる事能わず」

 その悉くに対して、干渉拒絶が発動した。武具はあらゆる破壊力を失って地べたに転がり、霊術式は構成を喪失して無に帰った。
 野太く通ったその声音に、再び動揺の波が広がる。
 解自体はこの上なく明白だ。
 血と肉、つまりは手足を始めとした五体髪膚(ごたいはっぷ)を用いての暴力であるならば、ディルハディを害しうる。ただそれだけの話である。実に単純で明快で、だからこそ対応は困難極まりない。
 それは、人の積み重ねの一切を否定する宣誓だった。 
 生まれは脆弱な人類が、魔族に拮抗すべく重ねてきた時間と積み上げられた歴史。そこより生じたのが武具であり、防具であり、霊術であり、これらを駆使する戦闘技法である。
 それら人類の研鑽と叡智の全てを否定された時、人が魔族の暴威に抗う(すべ)はない。
 生得(しょうとく)の差はそれほどに著しいのだと、最前線の兵たる駐留軍は骨身に染みて知っていた。

 その上敵手はただの魔ならず、魔王の腹心たる六武の一角である。
 これと()(こう)正面から殴り合って、勝利できる人間がいるなどとは到底に思えなかった。赤熱した鋼鉄のような、暴力の凝固のようなこの魔を徒手空拳で圧倒するなど、絵空事でも有り得まい。

「どうした。人間ってのは体ばかりじゃなく心までも脆いのか。もっと気張りやがれ。張り合いがねぇだろう?」

 立ち竦む兵士たちへ向け、ディルハディは足元の死体を蹴り飛ばす。さして力を込めたとも見えぬのに、元人体は千々(ちぢ)に爆散。一部の硬く、重いパーツが鋭い弾丸と化して盾と鎧とを貫き、新たな犠牲者を量産した。 
 魔族が、一歩を踏み出す。
 途端、預言者を前にした海の如くに軍勢が割れ、祈祷塔までの道が(ひら)けた。
 誰もが阻まねばと思った。だが、誰も動けなかった。場は、完全にこの暴君の支配下にあった。

 ──否。
 一人だけ、いた。
 腰に帯びた剣を投げ捨て、手甲を外して裸の拳を剥き出しながら、ただ一人進み出る者がいた。
 エイシズ・ターナーである。

「閣下!」

 焦る声が届いたが、無視した。
 期待などされていないのはわかっていた。何もできないと理解もしていた。
 けれど前に出る者がないのなら、自分こそが行くべきだと思った。

「来い、化物」

 そうして、彼はディルハディの眼前に立ち塞がった。拳を己の手のひらに打ち付ける。
 才能も経験もない彼であったが、勇気の持ち合わせだけはあった。なけなしのそれを振り絞り、上げた声だった。

「僕が相手をしてやる。僕が、相手になってやる」

 対してディルハディは、苦笑気味に頭を掻いた。

「度胸は認める。認めるが、震えてるぜ、小僧。声も、膝もだ」
「知った事か。来い」

 魔族は不満げに息を吐き、少年を見る。やがて諦めたように首を回した。

「ま、仕方ねぇ。それでも立ちはだかるってんなら、手前は俺の敵だ」

 巨体が、動くとも見えずに動いた。告げた時にはもう、エイシズの眼前にある。
 少年の頭へと、無造作に魔族の手が伸びた。ひどく大きな手のひらだった。
 これが己の死だと、エイシズは直感する。潰されるのだ。先の二人の兵と同じく、自分の頭もやわらかな果実のように握り潰されてしまうのだ。はっきりと、そう悟った。
 死を覚悟した刹那、脳裏を過ぎったのは父母の顔で、つまりまだ、彼はそんな年頃だった。
 だが諦めに目を閉じかけた、その時。
 ひとつのシルエットが、エイシズの上に差した。
 それが宙を舞う男とその荷物の落とす影であるとは、この時の彼には理解の及ばぬ事である。
 
「ぬあッ!?」

 直後。
 ディルハディの上体が仰け反った。のみならず巨躯は浮かされ地面と平行に吹き飛んで、現れた折の逆回しのように兵舎の中へと叩き込まれる。
 兵たちの、エイシズの頭上の駆け抜けた男が──オショウが、魔族の胸板にドロップキックを炸裂させたのだ。

 それにしても美しい蹴りだった。
 鞠めいて体を丸めた姿勢から、転瞬、爆ぜるように蹴り足が繰り出される。質量と速度とが十全に乗り、尚且つ高度も、長身を思い知らせる体の伸びも申し分がない。
 力強い筆致の水墨画めいて、シンプルな美に満ちた蹴りであった。
 更に瞠目すべきは、これが四人の人間が乗る鉄の椀という重荷を抱え、その内部へ衝撃を伝えぬように配慮しながらの一撃という事だろう。
 尋常ならぬ技量の一端を披露しつつ魔族を蹴り飛ばしたオショウは、迦楼羅天秘法(ヴァーハナ・スラスター)により姿勢を制御。空中で鉄椀を担ぎ直すや、ずしりと両足の裏で大地を踏みしめる。
 地を揺るがせた重量の大半以上は、無論担いだ椀によるものだ。

「……」

 衝撃の事態に、当然ながら誰の声もない。
 ただ唖然と、ただ呆然と、オショウを見守るばかりである。

「オショウ様! 降ろして、降ろしてくださいまし!」

 いささか間の抜けた沈黙を破ったのは、涼やかな少女の声だった。
 出処を求めて視線を上げれば、巨漢の肩に収まった珍妙極まりない乗り物から、ひょこりと顔を出している者がある。それはエイシズとさして齢の変わらぬ、可憐な娘だった。
 発せられた要望に応え、オショウがゆるりと優しい動きで鉄椀を土に置く。
 すぐさま身軽に椀の(ふち)を乗り越えた彼女は、自らの足で地に立つや辺りを見回し、そしてエイシズを認めてにっこりとした。

「ご勇姿、拝見しましたわ。ご立派でした。わたくしも、斯くありたいと思います」
「あ……あの、貴方は……?」

 (かぶり)を振ってエイシズが言葉を絞り出すと、少女はぽんと手を打って、

「いけません、また先走りましたわ。まずはご挨拶、そう、ご挨拶を申し上げなければですわね。わたくし、ケイト・ウィリアムズ。アプサラスのケイトと申します。そしてこちらはテラのオショウ様。わたくしに合力(ごうりき)してくださっている、万夫不当の御方ですの」

 きらきらと信頼に満ちた眼差しを向けられ、巨漢は何とも言えぬ顔で手を握ったり開いたりしている。
 その様から目を転じて椀を見れば、かつて船の一部であった(おぼ)しきその横腹には、確かにアプサラス王家の紋章が刻まれていた。

「貴女がアプサラスの……。しかし、樹界に船が落ちたとの報告を受けています。一体どうやってこんな短時間で……」

 我ながら馬鹿な問いだという自覚があった。
 状況を顧みれば、如何に信じがたくとも回答はひとつなのだ。この巨漢があの鉄の大椀を担いで、ひた走って来たのに違いないのだ。
 困惑気味の彼の表情を読んだケイトがこくりと頷き、「オショウ様のなさる事ですから」と想像の肯定をした。

「ではそれを担いだまま、界獣を振り切って?」
「流石に全てからは逃げ切れませんでしたわ。なので」
「うむ。やむを得ず、蹴殺した」
「けころ……」
「あまり深く考えてはいけませんわ。なにせ、オショウ様のなさる事ですから」

 ケイトがもう一度繰り返す。
 人の味を覚えた界獣は、一軍を以て討伐に当たるべき脅威である。単独で文字通り一蹴したなど、通常ならば笑殺すべき発言だった。しかしこのテラのオショウなる人物は、たった今、眼前で六武を蹴り飛ばしてのけている。
 己の常識が足場を失っていく感覚に、若き総指揮官は目を覆った。
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