第43話 無道鎧

文字数 1,567文字

 瞼を開けると、寝台の天蓋が見えた。
 身を起こそうとしたが、額のみならず全身に痛苦と麻痺があり果たせない。テラのオショウの一撃ごとに、無道鎧を貫いて感電するような衝撃が走った。今、体を苛むのは、それらの残滓であろう。
 アイゼンクラーは深く無念の息を吐く。我法の根底は砕かれた。不壊(ふえ)の鎧は破砕され、ただ無様なばかりの己が露呈した。
 何者かがこの身を運び、治療を施した様子だが、無為無益というものだ。最早自分は、何の働きも為しえまい。

「そなたほどの者が、後れを取ったか」

 呟きを耳が拾い、我法使いはこの一室に余人のあるを知る。身動(みじろ)ぎして視界に捉えようとするが、やはり(おお)せなかった。
「そのままでよい」

 二度目の声で、アイゼンクラーはようやくそれが己の主と気づく。

「不覚でした。もう、お役には立てますまい」

 深い諦念と共に告げた。この大きな流れからも見放され、自分は真正の塵芥(ちりあくた)となるのだろう。

「いいや」

 だがロードシルトは、静かにアイゼンクラーを否定した。

「そなたはまだ役に立つ。私の役に立ってくれるぞ」
「……」

 それは道なき男に喜びを生むはずの言葉だった。が、どうしたことか、彼の胸は少しも動かない。
 ああ、と得心をする。
 またも自分は間違えていたのだ。己の我法による視野狭窄が解けて、アイゼンクラーは目を逸らし続けていた我が主の性情を認識する。しかし過ちを正そうという心すら、もう起こりはしなかった。

 呑法・魂食。
 ロードシルトが意図するのはこの執行だ。アイゼンクラーを呑み、他者の我法を我がものとしうるかを試験したいのだろう。それが叶えば、いずれ誰の手にも負えない怪物に到達できると、愚かにもこの男は信じている。
 だがその誤謬(ごびゅう)を指摘することすら億劫だった。彼は疲れ果てていたのだ。
 何が正しくて何が間違っていたのか、もうわからなくなってしまった。絶対的に大きな、皆のためになるものがあると、昔は思えていたはずなのに。
 或いは今の己を過ちと思うことも、また誤りであるのやもしれぬ。これは先へと繋がる偉大な殉教なのかもしれぬ。
 だとしても、もう全てがどうでもよかった。
 己の忠義が少しも主に届かぬことを、全てをささげた相手がまるで己を理解しないことを、今また知り及んでしまった。

 ――我が生を皮肉と呼ぶならその通りだろう。他者に判断を委ねる選択が、大局に従い心を殺す決意が、まず誤りであったのだから。

 道など、どこにもありはしない。
 我法の残骸は再び深い嘆息をして、無抵抗に目を閉じる。

「……」

 アイゼンクラーの諦念をどう受け取ったか。ロードシルトはただほくそ笑む。
 酒蔵への襲撃は予期したものであったが、アイゼンクラーの敗北はよもやの事態であった。ゆえに一度は動転したが、すぐさまに思い直した。
 法を砕かれ、負傷して弱り切った心。それは即ち、魂食の餌食として絶好である。まるで世界が我が身を祝福するが如き幸運であった。

「我が法に服せよ、アイゼンクラー」

 喜悦を孕んだ声が言い、満面の笑みを貼りつけたまま、ロードシルトの手が伸びる。
 ぞろりと心が削られる感触を覚えつつ、フィエル・アイゼンクラーはひとつだけ気がかりを思い出していた。
 それは彼が我法に堕ちてのち、十数年の歳月を経て再会した少年のことだった。お互い容貌も変り果てていたが、アイゼンクラーはすぐさまに彼とわかった。無論合わせる顔はなく、名乗り出ることはしなかったけれど。
 あちらは、どうだったろうか。この鎧を見覚えてはいただろうか。
 少年の虚ろがいつか満ちるよう願ったを最後に、アイゼンクラーの意識は闇に溶けた。
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