第42話 日暮れて道遠く

文字数 5,865文字

 見栄を張りはしたものの、セレストの見るところ状況はよろしくない。不意打ち予定の札を防ぎで切る羽目になっている。真昼の月(パヘル・マー)はいつまでも執行を続けられる術式ではなく、何よりこれを披露してしまった以上、アイゼンクラーも対策を取るだろう。当てる機会は大きく減じたと言えよう。無道鎧の速力を見る限り、ネスを連れての撤退も困難。
 なかなかの切所だが、それでもセレストは余裕めかして口角を上げる。子供に不安を与えないのが大人の役目だと決めていた。

 じわりと、アイゼンクラーが爪先で距離を詰める。セレストの右腕のみを警戒する、明らかな格闘戦の構えだった。霊術士が何らかの術式を執行しようとした瞬間、或いは狭まり続ける距離が我法使いの間合いとなった瞬間、ひと息に襲撃して決着をつける意図だろう。セレストの勝ち筋とはその一瞬を見極め、炎腕を叩き込むことばかりである。
 だがこのままの膠着すら、アイゼンクラーの有利なのだ。いずれ酒蔵内の消火を終えた長い手(リングヒンゼ)が、破壊痕を辿ってこちらへも来よう。ただでさえの優勢に数の利まで加われば、後のことは目に見えている。
 両者の距離は更に縮まり、我法使いが腰を沈めた。肩から打ち当たらんという姿勢である。
 肉体的な動きこそ見せねど、太陽もまた無数の手管を脳裏で巡らすに違いなかった。

 ネスもまた、ぎゅっと小さな拳を握ってこれを見ている。ただ見守るばかりではない。彼女はアイゼンクラーへ、同調を仕掛けることを決めていた。錯覚程度の引き起こしではない。肉体の制御を奪い取るような、非常に深い接続である。ただでさえ禁忌行為である上に、対象は我法使いだ。強い自我への接触はネスに大きな反動と障害をもたらすだろう。だがそんなもの、知ったことではなかった。
 三者三様に息を詰める。決着へ向け、大気が一点へ凝縮するようだった。

「無粋(つかまつ)る」

 その緊迫を一蹴し、彼は告げる。
 セレストとアイゼンクラーの間に割り入った影を、その瞬間まで誰も察知できなかった。

「ぬ!」
「げ」
「!?」

 アイゼンクラーは咄嗟に飛び下がり、セレストは何とも言えぬ苦笑を浮かべ、ネスはきょとんとその長身を見上げる。

「仔細は存ぜぬが、子供が怯えている」
「大助かりだぜ、オショウさん」

 詫びめいて告げる僧兵に、腕に絡めた月を消してセレストは肩を竦めた。もう勝負はついた、と言わんばかりの仕草である。

「細かい話は後だが、あれをどうにかしてこっから離れたい。手ェ貸してもらえるかい?」
「うむ」
「駄目ですわ」
「うむ?」

 重々しい頷きを遮ったのは、凛と明るい娘の声だ。膝を突きネスを抱き締めるケイトが、(まなじり)を釣り上げてセレストを睨む。

「セレスト様はこちらですわ。泣いているネスフィリナ様を放っておいて、何を遊んでらっしゃるのです!」

 彼女の感情論に理屈では勝てぬと承知している。太陽はもう一度苦く笑い、「そういうことらしい」とオショウに手を振ると、我法使いに(そびら)を向けた。
 雄敵の見せた恐ろしいほどの無防備であったが、アイゼンクラーは動けない。構えるまでもなくただ佇む、眼前の男に気圧されていた。
 虎体狼腰(こたいろうよう)にして豹頭猿臂(ひょうとうえんぴ)の相である。そこには巨大な自然石じみた、無言の質量を伴う迫力があった。

「……俺を、妨げるか」
「然り」

 面体からして、これがテラのオショウであろう。魔王拿捕の立て役者と聞く。太陽の油断も、この男の武を信じればこそと思われた。

「ならば、お前に死以外の道はない」

 金属鎧を纏うとは思えぬ速度で飛び下がったぶんの距離を詰め、アイゼンクラーが立て続けに拳を繰り出す。金属と法に覆われたそれは十分以上の鈍器であったが、

仏騒(ブッソウ)なことだ」

 呟きと共に、オショウは左手一本で彼の連打全てを撃墜した。目を疑うようなハンドスピードだった。
 仏道において、羂索小突(パーシャ・ジャブ)と称される仏技である。羂索(けんさく)――鳥獣を縛する縄の名を冠する通り、敵方の機先を制し行動を縛る、雷速の如き打突であった。
 一見無造作と見える手打ち、力の入らぬ小突きだが、しかし一打一打に色即是空の理が充満している。無道鎧を纏う拳が打ち払われたも、万物を虚へ帰せしめんというこの仏理が通念したゆえであり、もし我法なくば、アイゼンクラーの手指は甲冑ごとひしゃげ潰れていただろう。
 前に出ようとすれば顔を打たれ、腕を振るおうとすれば手を打たれ、我法使いは動き出しの悉くを封じられ、瞠目して半歩退く。

 この(かん)に僧兵は音を立てて合掌。次いで両の拳を腰だめに落とした。
 金剛身法(ゴンゲン・スタイル)
 体内の気が高速循環を開始し、オショウを中心に練気圧による突風が生じる。が、アイゼンクラーは我法によりこれを無効化。怯むことなく掴みかかる。オショウは撃ち落とさずに応じ、両者はがっぷりと手四つに組み合った。

「これほどの、これほどの力がありながら!」

 額をぶつけ合うほどの距離で、無道鎧は咆哮する。

「お前たちは何故、あの時現れなかった!」

 (しん)からの叫びであったが、同時にそれはただの繰り言だ。アイゼンクラーも自身も、そのことは理解している。
 だが、吼えずにはおれなかった。ないものねだりと知りつつも、そんな奇跡を望まずにいられなかったのだ。



 フィエル・アイゼンクラーは、当時(とお)と半ばだった。
 武門に生まれ、体躯と膂力に恵まれた彼は、既に成人と見做されて獣狩りに参戦し、その技量を磨いていた。いずれ一角(ひとかど)の武人として大成するだろうと、将来を目されてもいた。
 界獣群の侵攻が起きたのは、そんなある日のことだ。突如ラーガム近郊の大樹界から姿を見せた獣たちが、奇態な意志統一の下、道中の都市を文字通り食い潰しつつ、王都を目指し暴走を始めたのである。
 急報を受け、国軍は界獣の侵攻経路に展開。陣を敷いて激突に備えると同時に、人々の避難を助けた。

 アイゼンクラーが所属したのは、この避難誘導部隊にである。
 界獣襲撃の情報は周知だったが、到達までにはまだ時間的猶予があり、軍が同伴するというのが大きかったのだろう。王都よりの退避は大きな混乱もなく行われ、年若いアイゼンクラーにも避難民の子供たちと交流する余裕があった。

『この立派な鎧を見ろ。鏡のように磨いてあるだろう。先祖伝来の品だ。これまでにも界獣魔獣と戦ってきたけれど、お陰で傷ひとつ受けたことがない。その俺が守るのだから、お前たちの安全だって決まっている。避難は無事済むし、すぐに元の暮らしに戻れるさ』

 彼は少年少女に自慢の鎧を見せつけて、不安げなその心たちを慰撫して歩いた。
 だから王都より離れてしばし、避難民をここで野営させ、自分たちの部隊は別動隊と合流すると聞いた時には難色を示した。最後まで責任を以て彼らを送り届けるつもりでいたからだ。
 だが獣除けは施したから安全は保障されているし、合流しての任務はまだ危険な王都から更なる民草を救うためであると告げられてしまえば、当時のアイゼンクラーが信じないはずもない。
 しかし彼ら国軍が離れたその夜、野営地は界獣群に蹂躙された。この報を聞くなり別動隊を率いていたロードシルトは取って返し、のちに大英雄と称えられる人間に相応しく激烈に戦って、界獣たちを打ち滅ぼした。

 だが、遅きに失したことである。
 避難民のほとんどが飢えた獣の胃の腑に収まっていた。あちこちに食い散らかしの肉と骨が散らばり、飽食のさまが窺えた。ただ弄ぶように殺されている者すらあった。
 それでも幾人かが生き残っていた。
 中にはアイゼンクラーが親しんだ少年もいたが、彼は無感情にただアイゼンクラーの鎧を一瞥し、嘘を罵ることすらしなかった。
 自分は、憎しみにすら値しないのだと思った。
 何を間違えたのだろう、何が間違いだったのだろうと懊悩した。他に道は無かったのかと、アイゼンクラーは自らを責め続けた。
 そうしてある時、思い至った。

 誤っているのは己自身だ。
 誇れるは外見(そとみ)ばかり。この俺に中身などありはしない。信念も希望も何も、全ての判断が誤謬に満ちるなら意味はない。ならば決して壊れぬ強固な殻に押し込めて、決して開かぬ強固な檻に押し込めて、そうして誰にも災厄を及ぼさぬよう封をしてしまうしかない。
 無道鎧。どこにも道が無いのは彼こそだった。

 けれど悲しくも虚しいことに、こうして法に至ったがゆえに、アイゼンクラーは軍部に求められた。その武力を必要とされたのだ。
 そして浅ましくも彼は、まだ少しだけ希望を持っていた。こんな自分にも、何かの役に立てるのではないかと。あの日の贖罪が叶うのではないかと。
 しかし必ず(あやま)つアイゼンクラーは、自ら判断を下すことを恐れ、自らの知る最も高い名についた。
 グレゴリ・ロードシルト。界獣たちを打ち払った護国の英雄。彼の示す方角だけを見、この大きな流れに身を任せれば、きっと安心だろうと信じた。世のため人のためになるであろうと信じた。彼のように偉大な人物が誤りなどすまいと信じ込んで疑わなかった。
 王都防衛の折のロードシルトの采配に対し、疑問を呈する声はある。民草を餌としたのではないかと囁く向きもやはりある。
 だが仮にそれらが真実であったとしても、ロードシルトが最小限の犠牲で界獣を駆逐したことに変わりはない。もし彼がそうしなければ、王都にあの酸鼻極まる光景が誕生していたやもしれぬのだ。
 情に惑わず、大局を決して見失わない。それこそが英雄の資質であると、アイゼンクラーは考える。

 ゆえに彼は主に尽くす。その道を、誰にも妨げさせぬと決めている。
 だがこのような根があるゆえに、彼はこうも思うのだ。思わずにいられないのだ。
 あの日の自分が、アーダルの太陽、テラのオショウのような力を持ってさえいたらと。彼らがあの時居合わせていてくれたならと。
 それは自身の救済ならず、失われた命のための咆哮であった……



「すまぬ」 

 無道鎧の激情に対し、巌のような(おもて)が、何故か詫びた。
「尊公に俺は間に合わなかった」

 オショウの両眼に悼みを読み取り、アイゼンクラーは激昂する。そのようにありふれて安い同情で、彼の(かつ)えは癒えはしない。

「知った口を……」
「すまぬ。衆生一切の幸いを望むは、この身の業であろう。俺はそれぞれの幸福の形も知らぬ」

 中身のない言葉と見切り、アイゼンクラーは両腕に力を込めた。
 テラのオショウも長身だが、自分の体躯は彼を上回る。延いては膂力にも勝ろう。更には我法のこともある。ぐっと上体を浴びせたアイゼンクラーに、オショウが「む」を眉を寄せる。無道鎧の法力により、僧兵の側の力が殺されているのだ。
 多対一の状況において組み技など愚行だが、無道鎧に限ればそうではない。このまま力任せに打ち倒し、手足の一二本をへし折ろうという魂胆だった。

「立ち技では勝ったろうに、迂闊に組んだお前の負けだ。もっと、頭を使うべきだったな」

 優位を断じた我法使いが囁き、「うむ」と涼しい顔でオショウが応えた。

「では、そのようにしよう」
「何?」
「頭を使おうと申したのだ」
「あ」

 オショウの意図を把握して、ケイトが声を上げ目を覆う。そして、直後。鈍い打撃音と共に、アイゼンクラーの兜が変形した。

「ぐう、あ……!?」

 言うまでもなく、炸裂したのはオショウの頭突きである。金属へ全力で額を打ちつけたというのに、その(おもて)には何の痛痒も窺えなかった。
 仰け反るアイゼンクラーだが、オショウが両手を捕らえて逃がさない。再び何とも言えず痛ましい音がして、今度はネスが顔を覆った。我法ごと守りを粉砕され、アイゼンクラーの足が不格好な踊りめいてふらつく。

「この無道鎧に耐え切れぬものなど……耐え切れ、耐え……」

 うわ言のように口走り、どうにか踏みとどまりかけたところへ次が来た。我法使いの動きが止まり、糸が切れたようにだらりと脱力する。その体を支えていた手をオショウが緩めると、彼は力なく地べたに転げた。

 三面鉄槌(アスラ・クラックダウン)
 三面六臂の闘神に(あやか)った、杭を打つようなトリプルヘッドバットであった。
 人体は七つの(チャクラ)を有すると仏道は言う。練気における最重要器官であり、この第六輪は眉間に、第七輪は頭頂に存在した。
 つまり頭部とは両輪を擁し、強力な放気の起点となる最大の凶器なのである。これを用いた打撃には凝らした念が十全に乗り、その一打ごとが畜生道、餓鬼道、地獄道の三途(さんず)に比類する業苦を内蔵するとされていた。

「あー……その、なんだ」

 一陣の風が吹き抜けた後、所在なげに声を上げたのはセレストである。

「積もる話がなくもないんだが、とりあえずこの場は退くぜ。いいな?」
「でもわたくしたち、ここの調査に」
「いや状況を考えろってんだよ。弓矢と同じだ。無理に数射るよりも、しっかり引き絞って放った矢の方が早く正確に飛ぶ。色々すり合わせと行こうぜ」

 投げた杖を拾い直すと、セレストはネスにぱちりと強い爪弾きを食らわせた。

「オレも昔やらかしたからな。おしおきはこいつで勘弁してやる。わかったらとっとと泣き止め。行くぞ」
「セレスト様!」

 ケイトの抗議に霊術士が聞こえぬふりを決め込んだところで、小さく一同を呼ばわる声がした。

「皆、こっち」

 物陰から手招きするのは、別行動のはずのイツォルである。オショウとケイトが向かうなりの火災で、様子を見に来たものらしかった。

「野次馬が出始めてるから、クレイズさんの言う通りにしよう。こっちに集まって」

 全員が揃ったところで発揮されるのは、もちろんセム家家伝の隠行術である。そうしてオショウたちは影も見せずに撤退し、前後して酒蔵の火も消し止められた。
 悪夢を腹に抱えたまま、ラムザスベルの夜は静けさを取り戻す。 
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