第15話 entering heart of the maelstrom

文字数 6,011文字

 カナタの呼吸に混じるノイズが、ようやくに治まり始める。
 顔にもわずかに赤みが差し、熱を生み出す機能を喪失したように冷え切っていた体も、温度を取り戻してきている様子だ。ほっと胸をなで下ろして、イツォルは彼を抱き締める腕を少しだけ緩める。
 ナークーンを降した直後に倒れこみ、彼はそれきり意識を喪失したままだった。
 消耗が、著しく深い。
 ナークーンの闘志は最後まで衰える事なく、手負いの獣の如き凄まじさを見せつけ続けた。死闘の最中(さなか)に術式を維持し続けた負荷が、カナタの身を蝕んでいる。
 聖剣なくしては切り抜けられぬ死地だった。それだけに爪痕も凄絶だった。
 霊術による損耗ばかりではない。長時間に渡る戦闘は、二人の身には数多の傷を刻み込んでいた。
 特に、カナタの盾を務めたイツォルのものが手酷い。
 それでも彼女は、彼への治療霊術を優先した。自身の負傷には布を巻いて止血するだけに留め、残された力を隠行術の執行とその維持に振り当てている。
 何もかもが精一杯の窮状だった。
 それでもこうして隠れ続けていられれば、カナタが目覚めるまでの時間は稼げるはずだと考える。

 ──守るから。きみだけは、絶対に守るから。

 音にはせず、唇だけで決意を囁いた。
 僅かな間に痩けてしまった頬を撫で、イツォルは彼の頭を胸に抱き直す。
 ふたつの足音が耳に届いたのは、その時だ。
 一瞬だけ、イツォルの体を緊張が走る。だが彼女はすぐに警戒を解いた。この響きには、この歩き方の癖には、聞き覚えがある。

「クレイズさん、アンダーセンさん」

 姿を現し声を発したイツォルに、護符の反応を確かめていたセレストとミカエラの視線が集中する。「よう」と軽く杖を上げたセレストを見て、彼女は思わず息を飲んだ。

「腕……!」
「おう。敵さんがちょいとばかり硬くてな。仕方ねェから炎珠握り込んだ腕を食わせて、腹の中からふっ飛ばした」

 何事かを言いかけたミカエラを遮り、セレストが莞爾(かんじ)と笑う。 

「ま、そのうち生えてくんだろ」
「いくら君の性分が大雑把とはいえ、体までもがそれにそぐいはしないだろう」

 呆れて首を振りながら、ミカエラはイツォルの傍に膝を突いた。
 手早く二人の傷を検分し、正統詠唱からの治癒霊術を施す。その行為にぺこりと感謝を示してから、

「あの、ペトペちゃんは?」

 不安げな面持ちでイツォルが問うた。 

「ペト……?」
「安心したまえ。ネス君は無事だ。案じるような事は何もない」

 横からの回答に「ああ、ネス公か」とセレストは膝を打ち、仲間の姓すらうろ覚えのその様にミカエラが額を抑える。

「ただ、五王との戦闘で甲冑が半壊してしまってね。これ以上は無理だと説き伏せて、先に帰投してもらったよ」
「そう」

 素っ気ないような返答で、しかしイツォルは面持ちを緩める。
 誰も気づかぬうちにこの二人は、随分と親しんでいたものだらしかった。

「我々の被害も相当だが、こちらも苦戦だったようだね?」
「ん。聖剣を詠唱なしに抜かなければならなくなって。それで……」

 イツォルが腕の中のカナタに目を落とし、一渡りの戦況を報告した。
 年長者の優しい目でミカエラがそれを(ねぎら)う。 

「しかし、気に入らねェな」

 吐き捨てたのは、一人仁王立ちで周囲を警戒しながら聞き終えたセレストだ。

「こんだけやりあってんだ、奥の魔皇様が戦闘の気配を感知しねェって事ァないだろう。だのに俺らにもこっちにも、追撃の一波もなしで傍観を決め込んでやがる」

 かつん、と杖の尻で石畳をひとつ打ち、彼は一同を振り返った。

「さて、どうするよ。俺らの戦力は想定以上に削り取られてる。おまけに状況を鑑みりゃ、あちらさんにはまだまだ企みがある気配だ。逃げを打つのが手かもしれねェぜ?」

 隻腕となった彼の目は、しかし闘志に満ち満ちている。もし撤退が決まれば、単身魔皇へ挑みかねない気迫だった。その性格を知悉するミカエラは、ただ短く「付き合おう」とだけ応じる。
 二人の視線がイツォルに向かい、

「わたし、は」
「……こう」
「カナタ!」
「行こう、イっちゃん」

 意識を取り戻したカナタの声は、渇いてひどく(しわが)れていた。イツォルが甲斐甲斐しく水を含ませる。 
 人心地をつけた彼はゆっくりと、けれど芯を取り戻した挙措で立ち上がった。

「五王六武も殆どを討ちました。魔皇は目と鼻の先です。こちらも満身創痍だけれど、喉元へは食らいつけているはずなんです」
「……わたしも、今攻めるのに賛成。最後の二王は、両方ともわたしの隠行術を見破ってた。もしそういう魔が増えたら、ここまでたどり着くのはずっと難しくなる」
「それにこれが誘いの隙だとしても、隙に違いありません。罠があるというのなら、それごと噛み破るまでです」

 勇ましく言ってのけてから、ぎょっとカナタは身を引いた。

「セレストさん、腕が!」
(おんな)じを反応するなァ、お前らは。ま、安心してくれ。ここにいるって事は、ちゃんと戦えるって事さ」

 セレストは小さく笑い、杖で皇の間へと続く扉を示す。

「じゃ、行くとするかね」

 そうして彼らは足を踏み入れた。
 皇禍の、その中心へと。



 *



 一昼夜は目覚めぬと、ケイト・ウィリアムズはそう告げた。
 テラのオショウの召喚者たる彼女の言いであるから、それは間違いのない話であるのだろう。
 魔族による飛空船襲撃と樹界からの脱出行、そしてこの祈祷拠点における六武との死闘。どれひとつとっても一生涯記憶に残る大難事を、オショウは全てわずか一日に成し遂げている。
 深い眠りに落ちるほどの疲弊もやむなしだとエイシズは思う。
 思いはしたが、けれどケイトを見送った後、彼はオショウの(もと)(おとな)わずにはいられなかった。

 魔族の脅威については語り聞いていた。この祈祷拠点に着任する前に学びもした。
 しかし直接に体験した上位魔族の圧は、如何なる伝聞も想像も飛び越えて凄まじかった。それは濃縮された死そのもののようで──だから、このままではいけないとエイシズは直感していた。
 涙の跡を残したる、ケイトの頬を思い出す。
 それでも浮かべた、あの透明な微笑を思い出す。
 彼女一人では駄目なのだ。 
 あのように心細げな背中を、独りきりで送り出してはならぬのだ。決して。

 炎のようなその一念を胸に走り出せたなら。
 剣を握り龍に跨り彼女を追う事ができたなら。
 自分がそのような英雄だったなら、よかった。
 だが違う。
 エイシズ・ターナーは己を知っている。加勢に赴くを望もうと、魔城にすらたどり着けず息絶えるのが精々だろう。現実の自分は非力で矮小(わいしょう)だ。笑みすら浮かべて艱難辛苦(かんなんしんく)を跳ね除ける、大英雄たちには程遠い。
 けれどこのままでは早晩、あの美しい人は失われてしまう。あの美しい人が失われてしまう。
 斯様(かよう)な未来を妨げんと欲するならば頼るべきは唯一であり、故に彼が訪れたのはその部屋の前だった。

「お休みのところ失礼します。オショウ様、貴方様を見込んで、不躾(ぶしつけ)ながらお願い申し上げます」
 
 頼るしかできない自分が嫌いだった。でも、何もしないよりはマシだと思った。 
 唇を引き結び、気息を整え、エイシズはドアを叩く。
 返答はない。
 室内には、物音ひとつも起こらない。 

「ケイト・ウィリアムズが行きました。我々の為に、魔皇を討ちに行きました」

 扉に両手を突き、額を押し当てる。
 そのまま、とつとつと告げた。飛び立つ前の彼女の言葉の全てを。死を覚悟してなお、凛と澄んだ横顔を。なのにどうしてか小さく、か弱く見えてしまった後ろ姿を。

 ターナーの家は裕福だ。お飾りとはいえ、息子を軍の指揮系統にねじ込める程度の政治力もある。またしても借り物の力であるけれど、もしオショウが戦後に権勢を欲するならば、自分はそれを提供する事ができる。
 当初はそうした類の甘言を(ろう)そうとも考えていた。
 けれど語り始めた途端、そんな打算は奔流めいた感情に押し流された。

 ケイトの孤影を見て、気づいてしまったのだ。
 ただ遠いものと、隔絶したものと思い込んでいた英雄たちが決して万能ではないのだと。
 全幅の信頼でオショウを見上げて微笑んでいた、少女らしいケイトの顔が思い浮かぶ。
 彼女だけではない。
 悠然と構えた霊術師も、参謀役の弓使いも、小さくて大人しい甲冑繰りも、穏やかな聖剣士も、それに寄り添う懐刀(ふところがたな)も。
 彼らの心は自分たちとなんら変わりがなくて、だから抱えていたに違いないのだ。不安も、(おそ)れも、苦しみも。
 それでも誰かの為に何かの為に、悪い夢に泣く子をあやす大人のように、素顔を隠し大丈夫を装って立っている。
 そんな人たちが不幸になるのは、絶対に間違った事のはずだった。
 万一を考えたケイトにより、扉は霊術的に施錠されていた。正当な開錠式を知る者以外は(ひら)けない。それでも声は届くはずだと、エイシズは思いの丈を振り絞る。

「お願いします。オショウ様、テラのオショウ様。あのひとたちを助けてください。どうか、助けてあげてください」

 自らの懇願がどういうものか、エイシズは理解していた。
 これは果てしのない矛盾だ。不幸になって欲しくない人をまた一人、死地へ送り込まんとする行為だ。「彼らを救う為に死ね」と頭を下げているのに等しい。
 理解してなお、縋る事をやめられなかった。
 眼裏(まなうら)にオショウの大きな背があった。合財(がっさい)の願いを背負って、大樹の如くしっかと(そび)える彼の背が。
 思ったのだ。思ってしまったのだ。この人ならばもしかしたら、と。
 嗚咽(おえつ)混じりの声に、しかし、(いら)えはない──。



 *



 扉を抜けた先のその部屋は、奇妙なまでにただ広かった。
 作りは至極単純で、入口側を短辺とした矩形(くけい)である。天井を支える柱も少なく調度の類も見当たらず、逆の短辺に位置する玉座は無為としか思えぬ空間でだけ飾り立てられていた。
 それでいて光明は数多で其処彼処(そこかしこ)に灯り、室内に影は薄く闇は少ない。まるで何らかの宴の為に、或いは戦闘の為だけに誂えられたような場だった。

「初めまして、諸君」

 一同を迎えたのは、朗々たる声音である。
 簡素な石造りながら、こればかりは細やかな文様が彫り込まれ磨き抜かれた皇の御座。その肘掛けに頬杖をつき、深くもたれてそれ(・・)はいた。

「私が当代の皇だ。名を、ラーフラという」

 燦然(さんぜん)と光を反射して煌く豪奢な金髪は、両肩に分かれて長く流れ、獅子のたてがみを思わせた。
 高く通った鼻梁(びりょう)。白く透き通るような肌。切れ長の緑の瞳は男女の別を越えて蠱惑(こわく)的に(つや)めいてた。
 彫像のように美しく、絵画のように麗しく、しかしどこか人とは決定的に異なるものを感じさせる。
 それは、そんな(かお)だった。

「ああ、君たちの名乗りは必要ない。一方的に見知らせてもらっている」

 魔皇が、ふわりと立ち上がる。
 どこか現実離れした、芝居の一景のようだった。釣鐘型に作られた彼の袖口、裾口が、動きに連れてゆらり揺らめく。

「アーダルの太陽」

 一歩進み出たかと思った直後、誰の反応も許さぬまま、その姿はセレストの眼前にあった。

「クランベルの聖剣。神眼の弓手。順風耳の影渡り」

 歌うような歩みの折々に魔皇の姿は消え、また現れる。
 一同の間を亡霊の如くすり抜ける終えると、ラーフラは玉座の前に戻り両手を広げた。

「カダインの甲冑繰りにアプサラスの巫覡、そしてテラのオショウ。足りぬ顔があるのは残念だが、いずれ劣らぬ英雄たちだ。私に挑むに相応しい。私が挑むに相応しい」
「……随分と大仰な物言いだがよ、魔皇様。一体全体、何を企んでんだ? 不自然な戦力の小出しだのなんだのと、どうにも魂胆が見えねェんだよな」

 セレストの言いに、ラーフラはゆったりと笑んで見せた。

「そんなもの、訊くまでもなかろう? 無論私の目的は我々の勝利だ。その為にはまず放たれる人類最精鋭を、人の側の希望を打ち砕く必要がある」
「確実に仕留められるように、僕たちをここへ誘い込んだって事ですか」
「然り。史書を紐解けば、軍を率いての衝突など些末事だと思い知らされるよ。君たちのような個、強烈無比の質こそが人の備える真正(しんしょう)の牙だ。まずそれをくぐり抜けなければ、それを刈り取らなければ勝負にならない。故に、」

 ぴたり、と。
 魔皇は差し伸べた腕で一同を一指する。

「時機を図らせてもらった。既に血は薄れ、聖剣に次代の継ぎ手はない。太陽を扱いうる器の創造には、素体選出時点からの困難が付きまとう。確定執行の直系男子は未だ幼く、子を成せるようになるまでに時を要する。もしその子をこの戦いに用いればウィリアムズの血統は絶えよう。つまるところ君たちの殲滅が叶えば、人が我々に反抗する術は久しく失われるというわけだ」

 カナタが喉を鳴らして唾を飲み、セレストがわずかに眉を寄せた。
 聖剣と太陽についての指摘は的を射ていた。確かにここで自分たちが一敗地に(まみ)れれば、形勢は人類に著しく不利となる。加えて、時は常に魔族の味方だ。

「上手くしてのけたと自画を自賛したいところだよ。撤退を選ばぬ程度に、決戦を望む程度に。君たちは実に都合よく削れてくれた。アプサラスの巫覡が不在の今、私に敗北要素は存在しない」
「威勢がいい。でもまだカナタの聖剣も、クレイズさんの太陽も失われてない」
「その通りだ。確かに我々は損耗している。してこそいるが、君の喉笛を噛み破るのが不可能とは思わないね」

 イツォルが絡め縄を取り出し、後を継いだミカエラが矢を錬成する。「ま、そういうこった」とセレストが杖を握り直し、魔王を()めてカナタが曲刀の鞘を払った。

「貴方も負けれないんでしょう。でも、こちらも同じです。善悪も理非も差し置いて、僕たちにも守りたいものがあります。だから──」
「委細承知だとも。最早口上は無粋でしかなかろう。来たまえ、人類。私はお前たちが恐ろしい。恐ろしくてたまらない。だから──」

 互いの死を(こいねが)う、不倶戴天の気が満ちた。
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