第51話 花の在り処

文字数 8,940文字

 想定外のこの拮抗に、歯噛みするのはロードシルトだった。
 先ほどから攻撃霊術を執行できる人格を転写し、遠距離から戦力を削ごうとしているのだが上手くいかなかった。いずれもが何を執行するより早く、喉首を貫かれてしまうのだ。
 しかもこれが何者の仕業であるのか、ロードシルトにはまったく把握できずにいる。一切の気配すらない死、完全なる暗殺という点から逆算すれば、おそらくはイツォル・セムの仕業なのだろう。石舞台を狙う存在を監視し、空気のように忍び寄っては殺傷するのだ。
 いくつもの()を覗いて回り、闘技場内のみならず市街各所でも抵抗が強いことを確認していた。
 水面月を惜しんで行動に移したが、やはりマーダガッタを振る舞い酒として配り、万全を期してから捕食を開始すべきであったと悔いる。酒蔵に襲撃を受けた弊害であろう。あれで用いるべき時を逸し、折角霊術薬を買い集めながら持て余してしまった感がある。

 ――アイゼンクラーを、あちら(・・・)から戻すべきか。

 折しも地下水路において、ロードシルトはオショウとセレストの両名と交戦していた。十分勝算があると見てのことだったが、とんだ誤算だった。圧倒されていると言う外にない。どうにも判断の全てが空回りしている。
 (かぶり)を振り、半分殿は気を取り直した。風向きが悪いことなどよくあるものだ。それに屈せず、自ら流れを生み出す者だけが戦場では生き残る。
 水門を開け、濁流で地下水路のふたりを押し流すことを決定。彼らの死による揺さぶりをかけるべく、ロードシルトは闘技場側の使役体に意識を遷した。肉人形どもを下がらせて問答の間を作り、石舞台上のカナタと、客席からの避難を助力するケイトに呼びかける。

「カナタ・クランベル。ケイト・ウィリアムズ。そなたらは永遠が欲しくはないのか。尽きぬ命を望まぬのか」

 名指しされたふたりは顔を見合わせ、そして各所の戦闘が停止するのを見て頷き合った。ロードシルトの意図は不明だが、戦う力のない者がこちらへ逃げ込む猶予になると踏んだのだ。

「このありさまが貴方の言う永遠なら、僕は少しも要りません。誰とも関わらず何の成長もなく、ひとりでただ呼吸するだけなのを、生きるとは言わないと思うんです。それは永遠でなく、多分孤独と呼ぶんです」
「わたくし、いつでも胸を張って死ねるように心がけて生きておりますの。でもロードシルト様、あなたはいつまでも死ねない御方なのですわね」

 くすりと、ケイトは澄み切って冷たい微笑を浮かべた。

「控えめに言ってそんな永遠、クソ食らえですわ」
「そうか。残念なことだ」

 さして惜しがる風情もなく、老人は首を振った。

「そなたらが欲するのなら与えたが、要らぬというなら遠慮なく奪おう。アーダルの太陽とテラのオショウ。このふたりの死を、そなたらは今定めたのだ」

 思いもよらぬ先に飛んだ火に、ケイトが顔色を変える。

「一体どういう――」
「あ奴らは間もなく、濁流に呑まれて死ぬるということだ。そなたらのうち幾名かが、酒蔵より水路に踏み入るは知れていた。ゆえに昨日より水を堰き止めておいたのよ。貯めに貯めた水流れが、城壁をも打ち砕き押し流す牙となり、一面に満ちて襲い来るのだ。如何な英雄といえども、防ぎも逃れも叶いはせぬ。そなたらが我らとなるなら救ってやってもよかったが、こうもにべなくば致し方ない」

 皆まで言わせず、ロードシルトは口の()を釣り上げて宣告した。ふたりから目を離し、地下水路側の窓を覗く。

「おお、もう水が見えた。あの水量ではまず衝撃で即死。生き延びても溺死であろうな」

 嫌らしく笑み、罪悪感で心弱らせるべく、あちらの情景を伝えてのける。啖呵を切った娘が、「オショウさま!?」と慌てふためくのが愉悦だった。

「そら、言う間に水に飲まれ……飲ま……は?」

 楽しげな声が、ふと途絶えた。理解不能の光景をこの老人が見たのは間違いがなく、オショウを知る者は、どうしてか安堵でなく同情の嘆息をした。
 ロードシルトの目撃とは、およそ彼らの想像通りのものだ。つまりは預言者の如く奔流を裂くオショウの図である。
 半円錐状の結界により逆巻く水流は全て阻まれ、その内部に飛沫ひとつ滴らせることなく通過。彼らの後方でまたひとつに合わさり、遠く流れ去って行く。

「……は?」

 たまさか結界内に取り込まれ、命拾いした水路側のロードシルトが、もう一度漏らした。大界獣の迫撃のようなこの激流を、どうして個人がこうも完全に凌ぎうるのか。まったく理解の埒外だった。

「いやはや人間、何にでも慣れるもんだな」

 そう笑ってからセレストは老人に片目を瞑る。

「これからそっち(・・・)へ行く。首を洗って待ってな」

 言い捨てるなり炎珠を乱射し、岩盤を掘削。赤熱する土砂が降り注ぐ中にロードシルトを残し、ふたりの体は迦楼羅天秘法(ヴァーハナ・スラスター)で上方へと舞い上がる。
 土と炎の尾を、太く柱のように曳きながら高空へ至った彼らは、現在位置がラムザスベルをほど離れた山間であると視認。するとそのタイミングを見極めたかのように、都市の上空で様々な色の光が連続して弾ける。

「ミカ公だな。矢に載せて光明術式を飛ばしてやがる」

 目を凝らして見極めると、セレストは自らに施した浮遊霊術を強化した。

「剣祭会場だな。かっ飛ばせるか、オショウさん?」
「うむ」
「なら頼むぜ。合わせてくれよ」

 オショウがラムザスベル側へ方向転換するうちに、セレストは結界外へ炎珠を執行。これが爆裂すると同時に迦楼羅天秘法(ヴァーハナ・スラスター)を起動させ、ふたりは猛烈な加速で都市へ飛ぶ。
 唖然としたままのロードシルトとケイトの間に地球(テラ)の如き青色の衣が降り立つまで、要した時は数瞬だった。

「お待ちしておりました」

 ずしりと石畳どころか世界を揺らし、砲弾めいた勢いで着地したその背を、ケイトは当然のものとして受け入れる。彼女にしてみれば、今更騒ぎ立てるほどのことではなかった。

「うむ。遅くなった」
「お気になさらず。信じておりましたから、大丈夫ですわ」
「うむ」

 ただ少しだけ、ほんの少しだけ悔しく思う。
 この人が傍にいるだけで、どうして自分はこんなにも安堵してしまうのだろう。

 ――わたくしの負け、みたいな感じがするのが解せませんわ。

 (わらべ)のように口を尖らせてから、

「それからわたくし、こうも信じておりますの。オショウさまなら、何とかしてくださるって」
「うむ」

 無理難題に近い、厚顔無恥の物言いに、オショウは太く笑って応じた。 

「楽勝だ」

 僧兵が両の手のひらを打ち合わせるなり、凄まじい音と衝撃が吹き抜ける。
 金剛身法(ゴンゲン・スタイル)
 大気が震え、気に圧されたロードシルトたちが仏塔のように棒立ちとなり、

「繋がりを見せてもらおう」

 僧兵が呟いた直後、ケイトの眼前の使役体が飛んだ。大地と平行に吹き飛んで、そのまま観客席にめり込み、五体をひしゃげさせて絶命する。
 オショウの掌底であった。ぱん、という打撃音は後から聞こえた。
 時を同じくして、まだ無事な者たちが集まった石舞台が炎の壁に取り囲まれる。ロードシルトの仕業ではない。上空でオショウと分離し、落下制御を行いつつ状況を把握していたセレストの術式である。一瞬で構築されたそれは、さながら守りの城だった。
 全方位から押し寄せていた肉人形たちは火炎に阻まれ、足を止める。まだ落下中のセレストが、続けざまに炎弾を執行。誘導を織り込まれた霊術砲火が次々に着弾し、無数の人間松明を作り上げる。
 そこでようやく着陸した霊術士が、更に杖をひと振りした。応じて炎の壁が一部避け、石舞台への道を開く。
 精妙な術式制御によるそれは、まだ逃げ来る途中の者たちを受けいれるべくの抜け道であり、使役体が攻めかかる方角を限定する手管であった。そこへカナタたちが蓋として位置取るだけで、裂け目は城門として機能する。
 ここまでを終え、セレストはカナタに手を挙げた。

「面倒な量が寄せてきたら早めに言え。裂け目の位置を変えっから」
「はい!」

 色々と申し述べたげだった少年は、しかし安堵の顔でいい返事だけして、剣士たちの指揮へと戻る。
 ひと皮向けた様子にセレストは小さく笑い、直後腹に衝撃を受けてよろめいた。ネスである。全力のタックルのような勢いで、少女は打ち当たってきたのだった。
 叱りつけようとして、霊術士は頭を掻いた。彼女がぐずぐずの泣き顔を擦りつけるのに気づいたからだ。

「いつも言ってんだろうが。オレは特別だって。何を無駄に案じてやがる」
「!!!!!」
「……ああ、悪い悪い悪かった。心配かけたな」

 さしたる反省のない言葉だったが、それでも満足したものらしい。身を離し、ネスはごしごしと腕で目元を拭う。セレストは彼女が顔を当てていた服裾を摘み、

「ところでお前、鼻水とかつけてねェだろうな」
「!? !!??」
「おいこら痛ェ脛蹴んな。何してくれやがんだお前は」

 揺らめく炎越しに、ロードシルトはその光景を睨めつけた。
 炎壁は静かと見えて凄まじい。ひと舐めに肉を炭とする火力を秘めている。肉人形どもがあれを抜けるは不可能だろう。無道鎧でこじ開けたいところだったが、ネスの一指を受ければ突破口を確立する前に燃え尽きるが必定だった。
 ゆえにロードシルトは誘導されると知りながら、壁の裂け目を攻めざるをえない。
 無限の兵力を保証する魂食であるが、それは増殖が叶えばこそ。閉鎖された闘技場内の人間はおよそがロードシルトとなるか、石舞台に逃げ延びるかしており、市街より呼び寄せぬ限り、更なる増援は望めない。
 単純な力攻めで押し切れると見えた戦況が、腹立たしくも覆された格好である。
 老人はセレストから、オショウへと視線を移した。だがもっとも憎いのはこの男だ。文字通り流れを変えたこの男だ。

「我らがもっとも警戒すべきはそなたであったか、テラのオショウ」

 ケイトと背中合わせになった僧兵は何かを観察する面持ちで、けれど一瞬の遅滞もなく、間合いに入った肉人形を屠り続けている。

「しかし界渡りとあらば、己が宿命(しゅくみょう)に理不尽を覚えるのではないか? 否応もなくこの地へ喚ばれ、魔皇討伐へ駆り立てられ――奴隷の如き扱いに憤懣を(いだ)くのではないか? どうしてそうもウィリアムズに尾を振る必要がある。武の置き所を誤るな」

 それはひどく優しげに、心(とろ)かす声音だった。
 昨今は我法に頼り切るが、グレゴリ・ロードシルトを英雄に押し上げたのはこの弁舌である。人心をかき乱し掻き立てる舌先こそが、彼の根幹を作り上げたものだった。

「わずかでも迷うならば我らが手を取るがよい。無理にこの世のために励まずともよい。そなたはもっと安楽に、そして富貴にあるべきだ。我らと共にあるを決断すれば、この世界と永劫の至福を――」
「稚児の髪なきは法師に劣り。田舎へ置け。なんぞ?」

 だが老人の雄弁を遮り、オショウが告げた。

「……何を言っている?」
「謎かけだ。だが尊公に解けはすまい。回答は、俺の世界の言語と遊戯に属するからだ」

 ゆっくりと首を横に振り、オショウはロードシルトの言を否定する。
 無理に励むのでは決してなかった。これは自ら選び、また望んですることである。

 旅を、した。自らの目で見、耳で聞き、肌で感じて多くを知った。四荒八極心巡らし、観じたはいずこも変わらぬ世のかたちだった。泣き笑い、憎み喜び、命の綾を織り成しゆく人の姿だった。
 いずれも些細、些末とされる泡沫(ほうまつ)ながら、これらのかけがえのなさをオショウは思う。
 季節を得て咲き誇らねば、人は花の姿を見ない。
 けれどあるのだ。土中の根に、樹皮の下に、伸ばす枝のそれぞれに。いつか蕾成し花開くための力が、必ず。
 未だ芽吹かぬものへの合力は、時に無為と見えるだろう。
 いくつもの正義が、互いを悪と(そし)り合って成り立つのが穢土(えど)である。行き会い手を貸し、ゆえあって力を貸し、そうして救った者の行く末が如何なるかは計り知れない。己の(ぎょう)が育むは善の種ならず、悪の芽やもしれぬ。

 それでも、手を伸ばそうと思った。
 その上で、守ろうと思った。
 ケイトに倣うに非ず、我が心のうちより起きた情動だった。己に恥じぬ曇りなき生きざまを、彼は決めたのだ。
 場違いに穏やかな光を、双眸(そうぼう)が宿す。
 もしこれが独善ならば、きっと正してくれる繋がりが自分にはある。あの日何も掴めなかったこの手のひらに、いつしか多くが載っていた。十万八千里に負けず劣らぬ広大無辺だとオショウは思う。

「同じことだ、グレゴリ・ロードシルト。尊公の言葉は、同じく俺に理解及ばぬ。何ひとつ、俺に響かぬ」

 ゆえに、そう告げた。独り法師のありさまなぞに、少しの魅力も覚えなかった。

「慮外者が! 身の程を知らぬとはそなたのことよ。ただ一人(いちにん)の力が、我らに及ぶべくなしと知れ!」

 吼えて、再びロードシルトは始末を決めた。
 言い交わすうちに、都市軍の兵だった使役体を集めている。武装した彼らを用いれば、無道鎧も水面月も効率的に執行できよう。前者でオショウの動きを封じ、後者で確実に斬り捨てるつもりだった。
 が、人格標本を転写しようとしたその刹那、オショウが動いた。
 魂食の法力が見えているかのように駆け、彼は変形を始めた兵士を一撃の下に撲殺する。次も、その次も結果は変わらなかった。予知としか思えぬ対応速度で、我法使いたちを殴り殺し、蹴り殺していく。
 綺麗だな、とカナタが感嘆する。僧兵の動きは磨き抜かれた刃のように、無駄なく洗練されていた。これ以上なく完成された、舞の形のようだった。
 姿を隠したままのイツォルは、初めて目の当たりにするオショウの武に開いた口が塞がらなかった。伝聞は誇張どころか、やや過少であったのだ。今度、もう一度ラーフラに謝ろうと思った。
 ふたりとは違い、ケイトはそれを体で追った。守られるだけでなく、いつか肩を並べたかった。決して及ばぬとしても。任せきり頼りきる安楽を、断じて娘は好まなかった。
 そうして繰り広げられるもぐら叩きのような光景は、ロードシルトにとっては紛うことなき悪夢である。
 だが石舞台上の者たちからすれば、そうではなかった。
 助太刀が来たとはいえ所詮ふたり。対して化け物どもは無数であり、その上、人を捕らえては増殖していく。打開できる状況とは少しも思えなかった。
 今は拮抗するものの、いずれ物量に呑まれ皆ここで果てるのだ。そのような諦念が、ほとんどの顔に貼りついている。
 ゆえにオショウの獅子奮迅を、彼らは炎越しに冷めて眺めた。一体、二体を打ち倒したところで、何も変わりはしない。
 しかしサダク商団の子供たちだけは、例外的にひどく明るい。何故なら彼らはオショウを――ラカン先生を知るからだ。三体、四体と息を合わせて蹴散らすたびに、オショウとケイトの背へ向けて、彼らは精一杯の声援を送る。
 そして、ふたりだけではなかった。
 カナタも、イツォルも、セレストも、ミカエラも、ネスも。グレイをはじめとした剣士たちや衛士たちも。それぞれがそれぞれの力を尽くし、降って湧いたこの地獄に一条の光を差し込ませている。
 花の在り処はここだった。

 やがて、希望は伝染する。ただ怯え、竦み、頭を抱えていただけの者たちが、次第に顔をもたげ始める。互いに見交わし言葉を交わし、自らに為せる仕業を求め出す。或いは怪我人の手当てに回り、或いは大声に各所の状況を伝え、或いは最前線へくたびれた武具の代わりを届け――。
 あまりの不可解に、ロードシルトが呻いた。 
 魂食は精神の強弱を見抜く。よって彼はつい先ほどまで、石舞台が絶望に満ちることを把握していた。このまま飽和作戦を継続しその濃度を増し、心折れた者を食らって使役体に変え、炎壁の中で連鎖捕食を行う腹積もりだった。
 だが、今。愚民たちの間には、ありえぬ希望が立ち込めている。暗く淀んだ負の薫香は払拭され、彼らの魂魄はロードシルトの手の届かぬものと成り果てた。力押しに続き絡め手までもを封じられ、老人の思考が愕然と止まる。

「ケイト」
「なんですかしら、オショウさま」

 諸行無常の散布でできた屍山血河の只中で、オショウが呼ばわった。

「しばし、頼む」
 告げて両足を大きく開き、腰を沈める。左掌を前方へ突き出すと、逆の腕を腰だめに引いた。

「かしこまりましたわ!」

 まるで説明の足らぬやり取りだったが、ケイトはその構えに覚えがある。すぐさまに心得て、自分に従う衛士たちに指示を下し、オショウを囲む円陣を組み上げた。

「姐さん、旦那は何をなさるつもりなんで?」
「なんかこう、どかーんとなさるおつもりなのですわ。なのでちょっぴりの間だけ、オショウさまをお守りくださいね。それと、姐さんってなんですかしら。わたくし、貴方がたより歳下なのですけれど。ずっと、ずうっと歳下なのですけれど!」

 憤慨を右から左に聞き流し、衛士たちはふわふわとしたケイトの物言いを受諾する。陣の中央に位置したオショウを見れば、彼女の言う「どかーん」がただならぬものであることは見当がついた。
 深く吸い、吐く。
 そのたびに不可視の何かが僧兵の体を駆け巡るのが、肌でわかった。全身を巡る気を、オショウは更に高密度に練り上げるのだ。
 ただならぬ気配を察し、我に返ったロードシルトはイムヘイムとアイゼンクラーを転写する。が、水面月はたちまち矢衾(やぶすま)となるか喉を刺し貫かれるかしてものの役に立たず、無道鎧は驚くべきか、ケイトよりしっかと阻まれた。
 自爆に近い確定執行を除けば、ケイト・ウィリアムズは一芸を持たない。だが彼女にないのは長所ではなく短所だとは、既に述べた通りである。強化術式を自らに施したケイトは、単身魔軍を真っ二つに裂いて駆けうる戦力を有している。オショウを除けば、一行の内で最も無道鎧への対抗力が高いのは彼女だった。
 間隙を縫って襲い来るただの(・・・)ロードシルトを衛士たちが切り払い、そのうちにも僧兵の練気が横溢していく。
 やがてそれは蛇体めいてのたうつ三昧(さんまい)の真火と化し、幾重もの螺旋を描いてオショウの腕に絡みつく形でして可視化された。
 
 仏道には、ある。
 他者の心魂を恣意とする魔性の記録と、対策とが存在している。
 それは類似の業魔が類似の悲しみを生むを阻むべく、先人たちが積み重ねてきた備えだった。一石ずつ持ち寄られた建材は(うずたか)く重なって、天を()す絶佳の塔を成している。
 時を越え受け継がれてきたそれが、今日この日を救う花だった。

後生(ごしょう)に託せぬ尊公にはわからぬ道だ」

 小さな呟きが、他の全ての音を圧して轟く。オショウの目が、鋭くロードシルトを射た。使役体ではなくその奥を、法による接続をたどり、老人の本体を射抜く視線だった。

「ゆえにただ見よ、グレゴリ・ロードシルト。尊公が――たかが一人(いちにん)の力が、これに及ばぬそのさまを」

 オショウの右手が、ゆっくりと小指から握り込まれる。
 形作られた拳に、紅蓮の輝きが装填された。

「我が拳にて(なれ)を打ち、我が瞋恚(しんい)にて汝を討つ」

 即ち、怒りの鉄拳である。
 透明な紅を宿す一打が、直後ロードシルトの覗く窓(・・・)を直撃した。
 打擲(ちょうちゃく)された胸板に種字が浮く。通念したオショウの火炎が(かたど)るそれは、不動明王を表す一文字(いちもんじ)火生三昧(かしょうざんまい)の刻印だった。
 転瞬印字が爆裂し、使役体は目、耳、鼻、口の七孔より火炎を噴き出し活動を停止する。
 降魔の利拳(フォアフィスト・オブ・カーン)
 打撃により肉体を、真火により精神を破壊し、入滅せしめる秘奥である。明王の火は対象の三魂七魄を捕縛し、一片も残さず焼き尽くす対魂魄系仏技だった。
 無論、人体と同一の耐久性しか備えない肉人形に用いるのは過剰火力だ。しかし此度のオショウの火には、状況に即したアレンジが加えられている。
 拳を受けた使役体が燃焼を終えるのと同時に、闘技場内の肉人形全てが火炎を吐いて寂滅した。
 オショウの心眼は魂食の痕跡を捕捉し、因果の糸として知覚している。転写への反応速度はそれがゆえのものであり、そしてこの飛び火も、我法が残す(えにし)の道を利用したものだった。
 使役体のいずれもが、我法によりロードシルトと接続している。瞋恚の火はこれを遡って爆発的に類焼し、転写された全てのロードシルトを焼き払ったのだ。「繋がりを見る」というオショウの言いは、最も効率のよい連鎖のために、着火地点を見極めるとの意味であった。
 つまり降魔の利拳は闘技場やラムザスベルのみならず、世界中の魂食の囚人たちへ叩き込まれた格好になる。一度受けた真火から逃れることは叶わない。我法の犠牲者はロードシルトの支配より放たれ、例外なく活動を停止したはずだった。
「うむ」と頷き、オショウが身構えを解いた。そうして場内を見回し、悼む風情の合掌をする。

「オショウさま、オショウさま!」

 黙祷の終わりを待ってケイトが駆け寄り、高く腕を掲げた。応じてオショウも顔の高さに手のひらを上げ、互いに合わせて打ち鳴らす。
 その小さな音が引き金であったかのように、わっと歓声が湧いた。
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