第47話 飼われ、囚われ

文字数 3,737文字

 自分よりずっと大きな生き物の呼吸と足音。そしてそれらがやわらかく湿った何かに牙を立て、べちゃべちゃと食いちぎる音。もっと堅い何かをごりごりと咀嚼する音。
 断末魔に入り混じるそんな音たちを、潰された天幕の残骸に埋もれたまま、ぼんやりと一晩中聞いていた。
 親兄弟や親しかった隣人たちが界獣に貪られていく。そんな地獄絵図に泣きも叫びもしなかったのは、奇妙に薄い現実感のお陰だった。その酩酊がマーダカッタの効能であるとツェラン・ベルが知るのは、今しばらくのちのことである。
 日が昇り、断末魔が界獣たちのものと変わった後も、彼はそこに転げたままでいた。
 自分も、もうとうに食い殺されたつもりになっていた。屍の仲間入りをしたのだと思い込んでた。
 もしひとりの騎士が避難民の野営地を隈なく巡り、生存者を探索し続けてくれなかったら、本当にそうなっていただろう。指一本動かさぬまま、そこで飢えて乾いて死んでいったことだろう。
 だが命を救われても、ツェランの心は動かなかった。此岸は既に遠いものとなっていた。目に映る光景は透明な壁越しのもののようで、少しも現実感がなかったのだ。
 だから恩人の、覚えのある見事な鎧を眺めたところで、何の感慨も抱かなかった。
 王都防衛において尊い犠牲となった避難民の生き残りたちは、その全てが子供だった。ツェランと同じく、飲食物から摂取した霊術薬のために仮死状態になっていた者たちである。彼らは王都の祖竜教会に集められ、教会の運営する孤児院で育てられることとなった。
 大樹界がある以上、獣による被害は絶えず、同様の孤児たちも多い。そのほとんどはお互い支え合う中で新たな道を見つけ出していった。
 けれど数年が過ぎても、ツェランの心はやはり死んだままだった。命じられ、促されればその通りに動く。だがそれ以外の場合は部屋の隅で、糸の切れた操り人形のように座り込んでいるだけだった。

『家族を失って辛いのはわかる。でもね、君のお父さんもお母さんも兄弟たちも、君の今を望んではいないよ。彼らが欲しいのは君の笑顔と幸福で、そのために皆は身を擲って君を助けてくれたんだ』

 神父が優しく説いてくれたので、本当だろうか、とツェランはひとりで考えた。
 なら言いに来てくれればいいのにと思い、もしかして黙ったままなのは、ひとり生き残ってしまった、ひとり生き返ってしまった自分が憎いからではないだろうかと思った。
 いつまで考え続けても答えは出なかったので、ある時彼は水と食料を詰めた長櫃(ながびつ)を背負って教会を抜け出した。王都を離れて記憶のままに彷徨い歩き、奇跡的にもあの日の野営地にたどり着いた。
 そこにあったのは不揃いの石で組まれた、簡素な回向(えこう)の塔だった。あの騎士たちが建立していったものであろう。
 ならこの下には、あの日死んだ者たちが眠っている。
 それで、ツェランは塔を掘った。手で掻き続けるのは効率が悪く、爪が剥がれて痛んだので、枝や石を利用して掘り続けた。そうして誰のものとも知れぬ骨が出るたび、丁寧に土を拭って長櫃に収めた。
 寝食を忘れて作業を続け、一体どれほどが過ぎた頃だったろう。彼は、望んでやまなかった死人たちの声を聞いた。
 その日ツェラン・ベルは法に至り、彼岸より帰り来た心は復讐を求めた。
 いくつもの死を食らい、それを(しとね)に肥え太る者を、彼は決して許さぬと決めたのだ。
 死した者全ての恨みと憎しみを己は背負うと、ツェラン・ベルはそう信じている。思い込んでいる。
 そして妄念であろうと執着であろうと、我法とはそのような心のかたちを実現させるものであった。死者を繰るその力は、過去に束縛され切ったさまをも証明する。
 だから――。

「一体全体どういう意趣で、手前を斬るおつもりで? この手出し、老公はご承知なんですかい?」
「不愉快だ。何故おれがロードシルトの影を気にしなければならない」

 襲い来る水面月の大剣を掻い潜りつつ、飼い骨はどうにかこの場を逃れる知恵を巡らす。
 ふたりが対峙するは第十七城壁外、つまりは都市の外である。これは全くの奇襲だった。ついにグレゴリ・ロードシルト本体の位置を突き止め、聖剣一味の協力を仰ごうとラムザスベルへ戻るところへ、物も言わずに振るわれた刃だった。

「あの爺はアイゼンクラーを食った。それで貴様の企みの全てが白日に晒された。だが勘違いするな。これは指図を受けてのことじゃあない。貴様、思っていただろう。おれを駒にできるかどうか、値踏みをしていただろう。それが気に入らなくて、おれは斬るのだ」

 深く長い息を吐いて、イムヘイムはぼそぼそと呟く。

「そいつぁまた、短気短慮で難儀なことだ。だがそうですかい。無道鎧が呑まれましたかい」

 ツェラン・ベルは言葉を切って、なんとも言えぬ面持ちをした。

 ――この俺が守るのだから、お前たちの安全だって決まっている。

「とうに筒抜けだろうと決め込んでたが、どうしてどうして。律儀にお守りくださってたかよ。……こいつは、こいつは、仇討ちの理由が増えちまったな」

 物思う風情の隙を縫い、イムヘイムの剣が閃く。が、それは長櫃から伸びた白い腕に受けられた。

「ありがとうよ、兄弟」

 礼を言いつつ飛び退(すさ)り、ツェラン・ベルは三度続けて舌を鳴らす。夕日に赤く染まる大地を、通う人の影はない。助けを請うも逃げを打つも難しい場であり、それを見越しての仕掛けであろう。どうやら、やるしかないようだった。

「外法・飼い骨」

 宣誓と同時に、長櫃から幾本もの腕が出る。いずれも白い骨の腕であり、ツェランのシルエットは直立した蜘蛛のようだった。距離を保ったまま小狡(こずる)く円を描いて歩き、飼い骨は斜陽を背負う。相対するイムヘイムの目が、逆光に眩む位置取りである。
 だが小細工を弄し威嚇はしてみたものの、水面月に対して自分は不利だと飼い骨は観じている。
 この男がカナタ・クランベルに対するもののみならず、自分への抑止力であると気づいてはいた。
 我法使い同士が対峙した場合、勝敗はどちらがより我が強いかによって決する。より意志の強い側の法が、相手の法を上書きして執行されるのだ。
 しかしここにも相性がある。その(でん)で、ツェラン・ベルは圧倒的に分が悪い。

 ――骨の白さは恨みの白。怨念晴れぬその限り、これらは砕けることあらじ。

 過日そう述べたように、飼い骨は死者への想いが強いほど、死者よりの想いが強いと信じるほど、骨の硬度を増す法である。その本質は死者との対話であり、死肉の使嗾(しそう)だった。おぞましさこそあれ、直接的な戦闘力は低い部類だ。
 対して、水面月。
 法力の詳細は明らかならねど、これは斬法の名を冠する通り、万物を斬断する法であろう。しかもそれを執行するのは、剣士としても一流どころのイムヘイムなのだ。戦力差は推して知れる。
 何より、これを不利と感じる精神がいけなかった。我法の強さは我の強さ。危ぶむ心はただ法を弱めるばかりである。
 そんなツェランの内心を読み切ったように。夕日に染まって、ウィンザー・イムヘイムは小さく笑った。

「斬法・水面月」

 剣の間合いの遥か外で、大剣がひと薙ぎされる。あっと後ろに跳ねたが、遅かった。中空で両足を膝から断たれ、ツェランはもんどり打って土に転げる。
 が、彼は苦鳴のひとつも漏らさなかった。

「――万骨啾々(ばんこつしゅうしゅう)

 執念の強さに法が応え、長櫃から無数の骨が出た。まるで間欠泉のように噴き上がり、それらは組み上がって巨大な人体を作り上げる。無論肉を備えない、人骨による純白の怪物だった。
 四つん這いの姿勢のまま、落日の色を宿した骨は長大な腕を打ち振る。思わぬ速度を、イムヘイムは危うく逃れた。

「手前、道半ばで死ぬわけには参りませんので。手向かいさせていただきやすぜ」

 その頭頂から、ツェランの声が響く。
 癇癪を起した子供がするように、骨の巨人は平手で地べたを幾度となく叩き打った。びりびりと衝撃が大地を走る。人間などひと打ちに圧し潰しそうな怪力だった。
 だがイムヘイムは慌てない。二度三度と後ろへ飛ぶと、やはり間合いの外から剣を振るった。
 何の接触もないまま、大骨の腕が斬られた。ついでもう一方の腕が刎ねられ、両足がそれに続く。機動を失った胴体を斬法が幾度も走り、堅牢この上ないはずの骨を微塵に解体した。
 最後にごろりと転げた頭蓋骨を一閃で唐竹に割り、そこで水面月は怒りを露わにした。
 頭骨の内にあるはずの、ツェランの姿がなかった。あったのは童のものと思しき、甚く小さなしゃれこうべである。頭部からした飼い骨の声は、これが発したものに相違なかった。イムヘイムが大物に気を取られるうちに、両膝下を失った男は如何にしてか逃げ果せていたのだ。
 苛立ち紛れにイムヘイムは唾を吐きかけ、(きびす)を返す。
 その背をぽかりと暗い髑髏の両目が、嘲笑うかの如くに見ていた。
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