第49話 影払い
文字数 6,080文字
ゆっくりと吸い込んだ息を、同じだけ時間をかけて吐き出していく。
石舞台の上を睨みつつカナタがするのは、オショウより学んだ調息法である。偽薬効果かもしれないが、手指の先まで温度が通うような気がした。
全身を、ほどよい緊張が満たしている。午前を用いてイツォルと軽い練武を行い、体を解 してあった。
昨日 のソーモン・グレイとの一戦が、明確に自身の血肉となっているのを感じる。とんとんと軽い跳躍をして、鞘を払うとカナタは舞台に進み出た。
わっと歓声が上がり、一段増した熱気が肌を刺激する。
混じって声援するケイトと懸命に手を振るネスの姿を肩越しに見て、カナタはほんの少しだけ笑った。このふたりだけではない。イツォルもミカエラさんも、セレストもオショウも。皆が自分を信じ、託してくれている。
――だから僕も、信じて託そう。
何もかもを独力で為し遂げねばと信仰していた彼が、心 から人を頼れた瞬間だった。
そうして聖剣は、斜光を浴びるウィンザー・イムヘイムに専心する。このことへだけ研ぎ澄ます。
「随分と面倒な手間をかけたが、ようやく斬れるな。 見せてやるとしよう。英雄様が負けるさまを」
「僕は英雄なんかじゃないよ」
両剣士の対峙と同時に、拡声術式がカウントダウンを開始する。
「そんなご立派な誇りはないし、だから今の僕の心を折るのは、なかなか難儀だと思うけど」
「あの爺の思惑には、察しがついたか」
ロードシルトの我法を知るらしく、イムヘイムが応じた。ミカエラの推測した我法執行条件の正しさが、裏打ちされた格好になる。
「まあ、いい。口でならなんとでも言える。両手両足をなくした後で、同じ文句を吐けるか試すとしよう」
帽子の鍔を撫でた水面月に対し、カナタはただ少女のような面 に微笑を浮かべる。先の笑みとはまるで異なる、冷たく鋭い風情があった。
正眼のカナタが膝を沈め。
イムヘイムが大剣を肩に担ぎ。
そして秒読みの完了と同時に踏み込んだのはカナタだった。恐るべき瞬発力による雷光のような迫撃であったが、イムヘイムはこれに反応している。
彼と相対する者は、揃って水面月を恐れ距離を詰める。斬法が剣の動きに付随して執行されると見て取って、物理的に斬り結ぶ間合いを選ぶのだ。斬撃に対応できさえすれば、同時に我法を封じうると信じるのである。
ゆえにこうした速攻に、イムヘイムは慣れ切っていた。対処は心得たものだった。
「浅はかだな、聖剣」
吐き捨てて、間合いの外で剣を薙ぐ。
が、我法を執行しての一刀を、ひょいと身を低くしてカナタは避けた。全速力で仕掛けると見せかけての、読み切ったサイドステップである。
だが内懐には入らせていない。未だ間合いは斬法のものだ。舌打ちしつつ、更なる剣をイムヘイムは送る。
「なんだと……!?」
しかしそのどれもが少年には届かなかった。軽やかにカナタは水面月を躱し続ける。彼の目は刃ではなくその下を、影を追っていた。彼の法を、明らかに見切った挙措だった。
即座の血飛沫を予感した闘技場に、どよめきが起きる。
「ああ、やっぱり」
得心顔で聖剣は呟いた。
「ずっと不思議だったんです。どうして日差しを正面から受ける側に行きたがるのか。逆光なんて不利になるだけですし。でも、こういうわけだったんですね」
独白のように紡いで、カナタは思い出している。
イムヘイムの試合のたびに、石舞台に落ちていた尖塔の影を。最初の対峙も曙光の中であったことを。
「水面月は影斬りの法。自分の影と接触した、別の影の本体を斬り捨てる。だから自分へ向けて、長く影が伸びてくれる方が都合がよかった」
あの時、カナタに斬法の初太刀を避けさせたのは、自身にも由来の知れぬ勘働きであった。
だが今ならばその理由がわかる。
水面月の執行に際し、イムヘイムの目はカナタの影のみを追っていた。その不自然が、少年に危険を直感させたのだ。
無論、本来のイムヘイムであれば、そのような失態は犯さなかったろう。帽子の鍔で視線を隠し、決して注目を悟らせなかったはずだ。だがカナタの隣にはラーフラがいた。人類の天敵たる魔皇への警戒が、彼に虚飾の余裕を失わせたのだ。
そして小さなその綻びが、カナタを解法へ導いたのである。
「……」
イムヘイムの沈黙が、何より雄弁な答え合わせだった。
聖剣の見極め通り、斬法は影を断つことで実体を断つ逆転の法だ。水面に映る月を斬る行為は、天空の月に何ら影響を与えぬが道理。しかし彼の法は、水面を斬って月を斬る不条理を為す。
我法とはそういうものだった。万象に通じる理である必要はない。影は本体と密接に繋がり、それを傷つければ実体もまた傷つく。我法使いがそう信じるなら、法の圏内においてそれは真実となる。
イムヘイムが長大な剣を用いるのは、間合いの拡大により、影を狙う動きを気取 らせにくくするべくであった。
「図に乗るなよ、小僧」
歯噛みしてイムヘイムが激情を露呈する。
彼の憤激は、しかし自らの法を見抜かれたことに端を発するものではない。
自身がカナタ・クランベルの下風に立ったと、彼の影に覆われた感触を覚えたがゆえのものだった。
ウィンザー・イムヘイムは妾 の子である。
父は小都市の貴族階級であり、母はその金で囲われた流民 だった。
さして興味はなかったから、詳しくは知らない。だがイムヘイムと血の繋がったその男は、本宅に居場所がないようだった。都市の運営にも携われず、いつも酒の匂いを漂わせていた。
そうした日々の鬱憤晴らしだったのだろう。男はよく母とイムヘイムを殴った。
『お前らが誰のお陰で生きていられるのか思い知れ』
殴りながら、そう言い続けた。
男が姿を見せない折も、イムヘイムに安息はなかった。血の繋がった女は、今の身の上の責を全て我が子に押しつけたからだ。
『あんたさえいなければあたしはどこへでも逃げられる。だけどあんたがいるから、あんたを死なせてしまうのは可哀そうだから、あんな男に生かされなきゃならない』
言いながら女は、イムヘイムを蹴り続けた。
だから彼はこの男女の下に属するのをやめた。己を支配するこの影より逃れることを決意した。
体が出来上がる歳までは我慢して、それからふたりに、自分たちが誰のお陰で生きているのかを思い知らせた。許し、見逃してやっていたのがどちらであるかを教え込んでやった。
暴力に暴力を返されたふたりの顔は滑稽だった。自分が強いと思い込んでいた者たちが、必死に命を乞うさまは愉快だった。
だがそれ以上に鬱陶しさが勝ったので、イムヘイムは彼らを斬り捨て都市を離れた。
死とは敗北である。上下でいうなら確実に下だ。ゆえにこのことは、彼が最初に得た明白な勝利である。
以来、彼は漂白しつつ独りで生きた。
つねに旅装であり、ひとつところに留まることは絶対にしなかった。
長居をすれば、無駄な人間関係が構築される。それは上下関係という影に派生して、彼を拘束するからだった。
そうして己の生から他者の影を切り捨てるうち、いつしか至ったのが斬法である。未だ父母の影響から逃れえない、幼稚と未熟の表れだった。
性情斯様なるイムヘイムがロードシルトと手を組んだのは、「聖剣を斬れ」という誘い文句をひどく魅力に感じたからだ。
魔皇を捕らえた者に勝 ったとあれば、イムヘイムを下に見る者は消え失せよう。誰も影を及ぼせなくなる。
加えてもうひとつ、老人と彼の間には約定があった。不死不滅の生である。
我法の執行による永遠を、半分殿は水面月に誓ったのだ。イムヘイムの観念において、死とは敗北だ。永遠の命とは完全なる勝利であり、彼の飢えを満たしうるものだった……
「この身、既にして一剣なれば。危地において恐れず、死地において惑わず。而 して、吠え猛れ!」
イムヘイムが発した感情のうねりを好機と見たか、カナタが詠唱を遂げる。
聖剣抜刀。
少年の眩い金色が刀身を取り巻き、火炎のように噴き上がる。
それはかつてこの地に根づいた界渡りの編んだ術式。異界の理 に立脚し、異界の血脈を有するものだけが起動しうる秘法である。
しかしながら、イムヘイムは軽侮の目つきでこれを眺めた。
界渡りの血が薄れた現在のクランベルに、聖剣の執行が恐るべき負担となるとは知れたことである。
確かに水面月は執行条件を見抜かれた。正眼に据えた聖剣の輝きにより、刃先の届く位置からカナタの影は失せている。だが状況は、ようやく剣と剣の戦いとなったに過ぎない。ここで勝負を賭けるなど、早計以外の何ものでもなかった。
我法なくとも、ウィンザー・イムヘイムは一流の剣腕を備えている。これを以て耐え凌げば、いずれクランベルが自らの聖剣に食われるは明白だった。如何に強力な術式とはいえ、所詮は諸刃の剣 である。
この思考から、イムヘイムは更に激しくカナタへ仕掛けた。火の出るような太刀筋が乱れ飛び、存分に得物の利を生かして攻め立てる。
が、噂に聞く滞留斬線は用いず、聖剣は丁寧に、ただ丁寧に、イムヘイムの剣をいなしていく。水面 へ投げた石が川流れに少しの影響ももたらさぬように、イムヘイムの斬撃はひとつとて少年に届かない。抜刀維持の疲労など少しも見せず、涼しい顔をしてのけていた。
無呼吸の運動に限界をきたし、イムヘイムが飛び下がる。
しかしカナタはぴたりとこれに追随した。一杯に体を伸ばした片手突きが水面月の肩を抉り、刹那手首を返して傷を広げたのは、岩穿ちより習い覚えたやり口だ。
小さく呻いてイムヘイムは更に後退し、カナタが今度は追わずに見逃す。
受け切られ、押し返された我法使いの顔には、動揺が張りついていた。確かに力攻めではあった。だが聞き及ぶ聖剣の消耗を考慮すれば、こうも長く打ち合えるはずがない。カナタ・クランベルの体力こそが先に尽きるはずなのだ。
「貴方は、少しも他人を見ないんですね」
「何……?」
「そんなに強いのに、誰とも正面から向かい合わない。俯いて、落ちる影ばかり追っている。それじゃあ僕の目鼻だって見えないはずです」
「黙れ」
切り捨てて、イムヘイムが強く睨んだ。
言われるがまま口を結び、カナタは思う。もしセレストが現状を目にしたら、したり顔をしただろうな、と。
カナタの剣が纏う光は、実を言えば聖剣の執行によるものではない。
真昼の月 の術式構成基幹に聖剣があることからも知れるように、皇禍ののち、カナタとセレストはそれぞれの秘伝術式を交換していた。
国の上層部が知れば大憤慨間違いなしの行為だったが、聖剣はクランベルの血筋でなければ執行できず、また真夜中の太陽 もセレストほどの霊素許容量を備えねば実用できない。『どうせバレやしねェって』とは大雑把極まりない提案者の言いである。
そして聖剣の霊術式を研究したセレストは、カナタに合わせていくつかの、聖剣に似て非なる術式を編み上げた。聖剣を神聖視し、改変を始祖への不敬と考えるクランベルでは思いもよらぬ仕業である。
『テトラクラムを、お前たちに任せっぱなしにしちまってる。ならせめてこれくらいはしねェとな』
そう言って先日伝授されたそのうちのひとつが、現在執行する偽剣 だった。
術の効能は実に単純で、聖剣とそっくりの光輝を剣に宿す――ただそれだけである。刀身をぴかぴかと格好良く光らせるだけの術式であり、当然負荷などないようなものだ。
『お前ら揃って真面目すぎんだよ。もっと適当でいいんだ、適当で。頭やわらかくいけ』
習い覚えた折は使いどころに首を傾げて呆れられたが、なるほど、セレストの言う通りだった。適切に当たれば見事役立つ。相手に無理の攻め手を強いて、ああも乱すことができた。
もっともイムヘイムがもっと観察に秀でた人間であれば、刃を噛み合わせた折の感触から、偽剣であることを察しただろう。誰とも向かい合わぬと水面月を腐したカナタの言葉は、このことへの諫 めだった。
そして我法使いの動きが鈍り、また自ら離れたこの隙に、カナタは異なる聖剣を執行する。刀身の唸りがわずかに変じ、直後彼は一足飛びに踏み込んだ。
対処し慣れたはずの動きに、しかしイムヘイムの反応が遅れる。読みを外し気勢を削がれ、更にその原因を掴めず惑わされ、彼は著しく集中力を失っていた。
遅まきながら薙ごうとする大剣の軌道上をまず一閃。
発生した滞留剣閃、時間的に連続する斬撃が、水面月の刃を受け、止め、食い破る。
咄嗟に剣を戻すその体 の崩れに付け込んで、カナタは首元をもう一閃。しゃがみ込んで斬線を回避するイムヘイムの鼻柱に、加速の乗った容赦のない膝を叩き込んだ。
今度の改変術式は、刀身に数回ぶんの剣閃効果を付与するものである。常時この効能を維持する基本形に比べ、消耗は甚く軽い。使いこなすには攻めの組み立てと先読みが重要となるが、これも勝手のよい術式だった。
一撃を受けて仰向けに倒れたイムヘイムは、だが即座に跳ね起きる。同時に低く、地を薙ぐ太刀行きをした。迫撃により間合いに入った影を狙う、水面月の執行である。
だが激しやすく負けん気の強い彼の性質を、カナタは読み切っていた。この反撃も想定の内であり、ゆえにイムヘイムの腕が通る位置を、聖剣は既に斬っている。
絶叫が上がった。
滞留剣閃への接触により無限回の斬撃に襲われ、我法使いの右腕 が千切れ飛ぶ。
「ここまでです」
その喉元へ我が剣の切っ先を突きつけ、カナタは静かに宣告した。
心中でほっと息を吐く。斬法の解き明かしとセレストの改変聖剣。どちらを欠いても勝ちはなかった。
激昂させるべく挑発的な物言いをしたが、ウィンザー・イムヘイムもまた恐るべき剣士である。勝負の天秤が一瞬でも逆に傾けば、勝敗はまた変わっていたろう。
完全な敗北の形に、イムヘイムは己の歯を噛み砕かんばかりに歯軋りをする。
認められるものではなかった。絶対に、何をしようと、許せるものではなかった。それは自身が下風に立つことを、相手の影を刻み込まれることを意味する。我法使いにとって、それは死と同義であった。
「前金を寄こせ、ロードシルト!」
折れかけた心で、外聞もなく叫ぶ。
「貴様はおれに永遠を約した。なら先払いだ。この腕を戻せ。今度こそこいつを斬り捨てて――」
「致し方あるまい。ウィンザー・イムヘイム、我らと共に永劫となるがよい」
石舞台の上を睨みつつカナタがするのは、オショウより学んだ調息法である。偽薬効果かもしれないが、手指の先まで温度が通うような気がした。
全身を、ほどよい緊張が満たしている。午前を用いてイツォルと軽い練武を行い、体を
わっと歓声が上がり、一段増した熱気が肌を刺激する。
混じって声援するケイトと懸命に手を振るネスの姿を肩越しに見て、カナタはほんの少しだけ笑った。このふたりだけではない。イツォルもミカエラさんも、セレストもオショウも。皆が自分を信じ、託してくれている。
――だから僕も、信じて託そう。
何もかもを独力で為し遂げねばと信仰していた彼が、
そうして聖剣は、斜光を浴びるウィンザー・イムヘイムに専心する。このことへだけ研ぎ澄ます。
「随分と面倒な手間をかけたが、ようやく斬れるな。 見せてやるとしよう。英雄様が負けるさまを」
「僕は英雄なんかじゃないよ」
両剣士の対峙と同時に、拡声術式がカウントダウンを開始する。
「そんなご立派な誇りはないし、だから今の僕の心を折るのは、なかなか難儀だと思うけど」
「あの爺の思惑には、察しがついたか」
ロードシルトの我法を知るらしく、イムヘイムが応じた。ミカエラの推測した我法執行条件の正しさが、裏打ちされた格好になる。
「まあ、いい。口でならなんとでも言える。両手両足をなくした後で、同じ文句を吐けるか試すとしよう」
帽子の鍔を撫でた水面月に対し、カナタはただ少女のような
正眼のカナタが膝を沈め。
イムヘイムが大剣を肩に担ぎ。
そして秒読みの完了と同時に踏み込んだのはカナタだった。恐るべき瞬発力による雷光のような迫撃であったが、イムヘイムはこれに反応している。
彼と相対する者は、揃って水面月を恐れ距離を詰める。斬法が剣の動きに付随して執行されると見て取って、物理的に斬り結ぶ間合いを選ぶのだ。斬撃に対応できさえすれば、同時に我法を封じうると信じるのである。
ゆえにこうした速攻に、イムヘイムは慣れ切っていた。対処は心得たものだった。
「浅はかだな、聖剣」
吐き捨てて、間合いの外で剣を薙ぐ。
が、我法を執行しての一刀を、ひょいと身を低くしてカナタは避けた。全速力で仕掛けると見せかけての、読み切ったサイドステップである。
だが内懐には入らせていない。未だ間合いは斬法のものだ。舌打ちしつつ、更なる剣をイムヘイムは送る。
「なんだと……!?」
しかしそのどれもが少年には届かなかった。軽やかにカナタは水面月を躱し続ける。彼の目は刃ではなくその下を、影を追っていた。彼の法を、明らかに見切った挙措だった。
即座の血飛沫を予感した闘技場に、どよめきが起きる。
「ああ、やっぱり」
得心顔で聖剣は呟いた。
「ずっと不思議だったんです。どうして日差しを正面から受ける側に行きたがるのか。逆光なんて不利になるだけですし。でも、こういうわけだったんですね」
独白のように紡いで、カナタは思い出している。
イムヘイムの試合のたびに、石舞台に落ちていた尖塔の影を。最初の対峙も曙光の中であったことを。
「水面月は影斬りの法。自分の影と接触した、別の影の本体を斬り捨てる。だから自分へ向けて、長く影が伸びてくれる方が都合がよかった」
あの時、カナタに斬法の初太刀を避けさせたのは、自身にも由来の知れぬ勘働きであった。
だが今ならばその理由がわかる。
水面月の執行に際し、イムヘイムの目はカナタの影のみを追っていた。その不自然が、少年に危険を直感させたのだ。
無論、本来のイムヘイムであれば、そのような失態は犯さなかったろう。帽子の鍔で視線を隠し、決して注目を悟らせなかったはずだ。だがカナタの隣にはラーフラがいた。人類の天敵たる魔皇への警戒が、彼に虚飾の余裕を失わせたのだ。
そして小さなその綻びが、カナタを解法へ導いたのである。
「……」
イムヘイムの沈黙が、何より雄弁な答え合わせだった。
聖剣の見極め通り、斬法は影を断つことで実体を断つ逆転の法だ。水面に映る月を斬る行為は、天空の月に何ら影響を与えぬが道理。しかし彼の法は、水面を斬って月を斬る不条理を為す。
我法とはそういうものだった。万象に通じる理である必要はない。影は本体と密接に繋がり、それを傷つければ実体もまた傷つく。我法使いがそう信じるなら、法の圏内においてそれは真実となる。
イムヘイムが長大な剣を用いるのは、間合いの拡大により、影を狙う動きを
「図に乗るなよ、小僧」
歯噛みしてイムヘイムが激情を露呈する。
彼の憤激は、しかし自らの法を見抜かれたことに端を発するものではない。
自身がカナタ・クランベルの下風に立ったと、彼の影に覆われた感触を覚えたがゆえのものだった。
ウィンザー・イムヘイムは
父は小都市の貴族階級であり、母はその金で囲われた
さして興味はなかったから、詳しくは知らない。だがイムヘイムと血の繋がったその男は、本宅に居場所がないようだった。都市の運営にも携われず、いつも酒の匂いを漂わせていた。
そうした日々の鬱憤晴らしだったのだろう。男はよく母とイムヘイムを殴った。
『お前らが誰のお陰で生きていられるのか思い知れ』
殴りながら、そう言い続けた。
男が姿を見せない折も、イムヘイムに安息はなかった。血の繋がった女は、今の身の上の責を全て我が子に押しつけたからだ。
『あんたさえいなければあたしはどこへでも逃げられる。だけどあんたがいるから、あんたを死なせてしまうのは可哀そうだから、あんな男に生かされなきゃならない』
言いながら女は、イムヘイムを蹴り続けた。
だから彼はこの男女の下に属するのをやめた。己を支配するこの影より逃れることを決意した。
体が出来上がる歳までは我慢して、それからふたりに、自分たちが誰のお陰で生きているのかを思い知らせた。許し、見逃してやっていたのがどちらであるかを教え込んでやった。
暴力に暴力を返されたふたりの顔は滑稽だった。自分が強いと思い込んでいた者たちが、必死に命を乞うさまは愉快だった。
だがそれ以上に鬱陶しさが勝ったので、イムヘイムは彼らを斬り捨て都市を離れた。
死とは敗北である。上下でいうなら確実に下だ。ゆえにこのことは、彼が最初に得た明白な勝利である。
以来、彼は漂白しつつ独りで生きた。
つねに旅装であり、ひとつところに留まることは絶対にしなかった。
長居をすれば、無駄な人間関係が構築される。それは上下関係という影に派生して、彼を拘束するからだった。
そうして己の生から他者の影を切り捨てるうち、いつしか至ったのが斬法である。未だ父母の影響から逃れえない、幼稚と未熟の表れだった。
性情斯様なるイムヘイムがロードシルトと手を組んだのは、「聖剣を斬れ」という誘い文句をひどく魅力に感じたからだ。
魔皇を捕らえた者に
加えてもうひとつ、老人と彼の間には約定があった。不死不滅の生である。
我法の執行による永遠を、半分殿は水面月に誓ったのだ。イムヘイムの観念において、死とは敗北だ。永遠の命とは完全なる勝利であり、彼の飢えを満たしうるものだった……
「この身、既にして一剣なれば。危地において恐れず、死地において惑わず。
イムヘイムが発した感情のうねりを好機と見たか、カナタが詠唱を遂げる。
聖剣抜刀。
少年の眩い金色が刀身を取り巻き、火炎のように噴き上がる。
それはかつてこの地に根づいた界渡りの編んだ術式。異界の
しかしながら、イムヘイムは軽侮の目つきでこれを眺めた。
界渡りの血が薄れた現在のクランベルに、聖剣の執行が恐るべき負担となるとは知れたことである。
確かに水面月は執行条件を見抜かれた。正眼に据えた聖剣の輝きにより、刃先の届く位置からカナタの影は失せている。だが状況は、ようやく剣と剣の戦いとなったに過ぎない。ここで勝負を賭けるなど、早計以外の何ものでもなかった。
我法なくとも、ウィンザー・イムヘイムは一流の剣腕を備えている。これを以て耐え凌げば、いずれクランベルが自らの聖剣に食われるは明白だった。如何に強力な術式とはいえ、所詮は諸刃の
この思考から、イムヘイムは更に激しくカナタへ仕掛けた。火の出るような太刀筋が乱れ飛び、存分に得物の利を生かして攻め立てる。
が、噂に聞く滞留斬線は用いず、聖剣は丁寧に、ただ丁寧に、イムヘイムの剣をいなしていく。
無呼吸の運動に限界をきたし、イムヘイムが飛び下がる。
しかしカナタはぴたりとこれに追随した。一杯に体を伸ばした片手突きが水面月の肩を抉り、刹那手首を返して傷を広げたのは、岩穿ちより習い覚えたやり口だ。
小さく呻いてイムヘイムは更に後退し、カナタが今度は追わずに見逃す。
受け切られ、押し返された我法使いの顔には、動揺が張りついていた。確かに力攻めではあった。だが聞き及ぶ聖剣の消耗を考慮すれば、こうも長く打ち合えるはずがない。カナタ・クランベルの体力こそが先に尽きるはずなのだ。
「貴方は、少しも他人を見ないんですね」
「何……?」
「そんなに強いのに、誰とも正面から向かい合わない。俯いて、落ちる影ばかり追っている。それじゃあ僕の目鼻だって見えないはずです」
「黙れ」
切り捨てて、イムヘイムが強く睨んだ。
言われるがまま口を結び、カナタは思う。もしセレストが現状を目にしたら、したり顔をしただろうな、と。
カナタの剣が纏う光は、実を言えば聖剣の執行によるものではない。
国の上層部が知れば大憤慨間違いなしの行為だったが、聖剣はクランベルの血筋でなければ執行できず、また
そして聖剣の霊術式を研究したセレストは、カナタに合わせていくつかの、聖剣に似て非なる術式を編み上げた。聖剣を神聖視し、改変を始祖への不敬と考えるクランベルでは思いもよらぬ仕業である。
『テトラクラムを、お前たちに任せっぱなしにしちまってる。ならせめてこれくらいはしねェとな』
そう言って先日伝授されたそのうちのひとつが、現在執行する
術の効能は実に単純で、聖剣とそっくりの光輝を剣に宿す――ただそれだけである。刀身をぴかぴかと格好良く光らせるだけの術式であり、当然負荷などないようなものだ。
『お前ら揃って真面目すぎんだよ。もっと適当でいいんだ、適当で。頭やわらかくいけ』
習い覚えた折は使いどころに首を傾げて呆れられたが、なるほど、セレストの言う通りだった。適切に当たれば見事役立つ。相手に無理の攻め手を強いて、ああも乱すことができた。
もっともイムヘイムがもっと観察に秀でた人間であれば、刃を噛み合わせた折の感触から、偽剣であることを察しただろう。誰とも向かい合わぬと水面月を腐したカナタの言葉は、このことへの
そして我法使いの動きが鈍り、また自ら離れたこの隙に、カナタは異なる聖剣を執行する。刀身の唸りがわずかに変じ、直後彼は一足飛びに踏み込んだ。
対処し慣れたはずの動きに、しかしイムヘイムの反応が遅れる。読みを外し気勢を削がれ、更にその原因を掴めず惑わされ、彼は著しく集中力を失っていた。
遅まきながら薙ごうとする大剣の軌道上をまず一閃。
発生した滞留剣閃、時間的に連続する斬撃が、水面月の刃を受け、止め、食い破る。
咄嗟に剣を戻すその
今度の改変術式は、刀身に数回ぶんの剣閃効果を付与するものである。常時この効能を維持する基本形に比べ、消耗は甚く軽い。使いこなすには攻めの組み立てと先読みが重要となるが、これも勝手のよい術式だった。
一撃を受けて仰向けに倒れたイムヘイムは、だが即座に跳ね起きる。同時に低く、地を薙ぐ太刀行きをした。迫撃により間合いに入った影を狙う、水面月の執行である。
だが激しやすく負けん気の強い彼の性質を、カナタは読み切っていた。この反撃も想定の内であり、ゆえにイムヘイムの腕が通る位置を、聖剣は既に斬っている。
絶叫が上がった。
滞留剣閃への接触により無限回の斬撃に襲われ、我法使いの
「ここまでです」
その喉元へ我が剣の切っ先を突きつけ、カナタは静かに宣告した。
心中でほっと息を吐く。斬法の解き明かしとセレストの改変聖剣。どちらを欠いても勝ちはなかった。
激昂させるべく挑発的な物言いをしたが、ウィンザー・イムヘイムもまた恐るべき剣士である。勝負の天秤が一瞬でも逆に傾けば、勝敗はまた変わっていたろう。
完全な敗北の形に、イムヘイムは己の歯を噛み砕かんばかりに歯軋りをする。
認められるものではなかった。絶対に、何をしようと、許せるものではなかった。それは自身が下風に立つことを、相手の影を刻み込まれることを意味する。我法使いにとって、それは死と同義であった。
「前金を寄こせ、ロードシルト!」
折れかけた心で、外聞もなく叫ぶ。
「貴様はおれに永遠を約した。なら先払いだ。この腕を戻せ。今度こそこいつを斬り捨てて――」
「致し方あるまい。ウィンザー・イムヘイム、我らと共に永劫となるがよい」