第19話 怒りの鉄拳

文字数 6,074文字

 オショウの登場で完全に気を呑まれ呆けていた魔皇と魔軍とが、一指を受けて我に返る。
 敵意と殺意とが蘇生し、それらを束ねるようにラーフラが紡いだ。

「テラのオショウ。君がそうか。つくづく、私の図面を打ち壊してくれるものだ」

 苛立ちも露わな口調だった。
 想定外の異物に必勝の局面を覆され、ラーフラはひどく波立っていた。
 それ故だろう。
 続く魔皇の采配が、ひどく警戒を欠いたのは。

「だが大言を吐いたな。この軍勢を前に、ただ一人の加勢でなんとする。悔いて死ね」

 指を鳴らす。
 意味するところはただ一つ。「殺せ」だ。
 先陣を切り、四王の影が二人を襲う。
 だがオショウは、これらを容易く殴り飛ばし蹴り飛ばし張り飛ばし投げ飛ばした。意気と出鼻をくじかれながら、それでも殺到する魔軍へ、彼は手を打ち鳴らしつつ合掌する。
 次いで握り締めた両の拳を腰だめに落とし、体内の気を高速循環。急激な練気圧の変化により、彼を中心に竜巻めいた衝撃波が発生した。

 金剛身法(ゴンゲン・スタイル)
 その颶風(ぐふう)は、常よりも更に激しい。
 地に打ち伏して堪えるもの、吹き倒され転がるもの、障壁により身を守るもの。個々の状況は様々なれど、魔軍の動きはこれにより大きく束縛される。
 そして。
 縁覚(えんがく)に至り一層純度を高めて練り上げられた気は、オショウの額、眉間のやや上の一点に収束。そこに生じた擬似白毫(びゃくごう)から、一万八千世界を照明する輝きが(ほとばし)った。
 放光一閃。
 それは皇の間を横薙ぎに薙ぎ払い、風圧ならぬ気圧に封殺されていた魔軍のみを、一瞬のうちに跡形もなく消滅させる。文字通りの色即是空。強制的な成仏だった。

 後に残るのはケイトを警戒し、彼女の霊術射程に収められぬよう徹底して距離を保っていた魔皇ばかりである。
 戦場が、水を打ったように静まり返る。
 その場を形容するものとして、此度(こたび)の沈黙もまた雄弁だった。

「……お、おう」
「そんな、デタラメな……」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、セレストとカナタが、やっとそれだけを口に出す。
 一方、してのけた当人と、悪い意味で慣れっこのケイトに一切の遅滞はない。

「ケイト」
「はいっ!」

 名を呼ばれ、彼女は自らの足で立ち上がる。
 行動は最早以心伝心。
 オショウの練気のそのうちに、ケイトは自身に治癒霊術を施していた。軽やかとは言えぬ足取りだが、それでも動ける程度に回復した彼女は、セレストたちの下へと駆け寄る。

「もう大丈夫ですわ、皆様」 
「……いやあのよ、大丈夫とかそういうのの前によ。一体全体何だ、ありゃあ……?」

「誰」ではなく「何」との言いが、セレストの心境を如実に物語っていた。
 その心中を察しもせずに、ケイトはえへんと胸を張る。

「オショウ様です。わたくしの、オショウ様ですわ」
「ええと、味方、なのですよね?」
「はい!」

 力強く頷いて、そのままミカエラたち負傷者の救護に当たろうとする彼女の肩を、大慌てにカナタが掴んだ。

「待ってください。それなら貴方は彼に加勢すべきです。魔皇の宣誓は解けそうもないけれど、でも貴方なら、ウィリアムズの──」
「いや、撤退だ」

 言い募りかけたカナタを、セレストが遮る。
 そこで初めて自分の言葉がケイトの死を求めるものであったと気がついて、カナタは恥じ入り目礼をした。

「すまねェが手を貸してくれ、ウィリアムズのお嬢ちゃん。怪我人どもを動けるようにして、一旦退きたい。再侵攻はその後、万全を期してからだ。アレ(オショウ)とオレがいりゃ、魔軍を蹴散らすのに造作はねェ。カナタの回復を待って、次こそ聖剣でケリをつける」
「ええと」

 オショウが魔皇に敵わぬのが前提の話運びに、ケイトは些か不満げにする。
 人差し指を顎に当てて思案顔を作り、

「魔皇様の宣誓を、わたくし聞いてはおりませんけれど。でも、オショウ様ならなんとかしてしまうのではありませんかしら?」
「大雑把過ぎんだろう、お前!」

 思わずセレストが声を荒らげた。
 ミカエラが耳にすれば失笑間違いなしの文句だが、当人は必死である。戦力の無益な損耗は何が何でも回避したかった。

「セレストさん、ウィリアムズさん、とにかく今は治療を。オショウさんが時間を稼いでくれている間が勝負です」

 切迫したカナタの言いに目をやれば、オショウとラーフラは互いに間合いを縮め、睨み合いの距離に至っていた。ケイトの参戦がないと見た魔皇は、厄介者を一騎打ちの形で排除せんと思い定めたのだ。
 となれば、カナタが正しい。
 セレストは即座に口論を打ち切り、ミカエラの施術へと移行する。魔皇の干渉拒絶が打ち破れぬ以上敗戦は時間の問題であり、それまでに何を為すかこそが肝心だ。

 彼らの撤退準備を認識しながら、ラーフラは妨げもせず、意識の七割がたをオショウへと向けている。
 それだけ、先ほどの白光は脅威だった。
 オショウ一人がいるだけで、魔軍は意味を成さなくなる。巨象に蟻の群れをけしかけるようなものだ。いくら数を揃えようと、ただ蹴散らされるばかりであろう。
 そうして量という盾を失えば、ケイト・ウィリアムズによって敗北を決定づけられる可能性は著しく高まってくる。
 この男は、テラのオショウという存在は、何としてもこの場で抹消せねばならない。
 よって危険度第一位たるケイトが他者の治療に当たる今こそが、魔皇にとって最大の好機だった。

「非礼を詫びよう、オショウ。私は君を見くびった。君の強さを見くびった」

 歌うように告げながら、ラーフラはするすると間合いを詰める。
 既に霊術の射程を割り込み、殴り合いの距離にまで到達していた。空気がきな臭く緊張を孕む。

「だがそれでも。君という個が如何に強大であろうとも、君は私に及ばない。今一度宣誓しよう。堅きもの、鋭きもの。熱きもの、冷たきもの。いずれに()ろうと無駄なのだ。女の腹よへぶっ!?」

 一切の躊躇なく。
 オショウの一撃が、無防備に接近した魔皇の頬げたを打ち抜いていた。

 ラーフラを殴り飛ばし地に這わせたもの。
 それはただの拳であった。
 鋼のように硬くもなく、刃のように鋭くもない。
 炎のように熱くもなく、氷のように冷たくもない。
 培養槽から(・・・・・)生まれ出た(・・・・・)、従軍複製僧兵の拳骨であった。

「ばっ、馬鹿な!? 何故私に触れられる!?」
「知らぬ」

 愕然と振り仰いだラーフラの逆頬を、再度オショウが打擲(ちょうちゃく)する。
 半回転して床に伏し、物理面と精神面、双方の衝撃から魔皇の目の前が暗くなった。

「どうして私を傷つけられるのだ。君は、君のその拳は一体……!?」
「存ぜぬ」

 オショウからすれば、ラーフラの驚愕になど興味はない。
 殴り、近づき、また殴る。
 問うも鉄拳制裁、問わぬも鉄拳制裁。正しく問答無用の所業である。
 相手が悪い、と言う他になかった。
 特殊にして強力な干渉拒絶を備えた代償として、魔皇ラーフラの身体能力は五王の数段上程度に留まっている。肉弾戦でオショウに(あらが)うべくもない。
 傲岸にして不遜、秀麗にして美麗であった魔王の顔は忽ちに腫れ上がった。右の頬を打ったならば左の頬も、とは総合戦闘術たる仏道の教えである。左右の拳がエンドレスに輪廻するのも致し方ない。

「……」
「……」
「オショウ様とお付き合いしていく上で大切な、ふたつの心構えをお伝えしますわね」
「一応、頼む」
「お願いできますか」
「世の中諦めが肝心という事。それから、人間何にだって慣れるという事。以上ですわ」
「おう……」
「……あ、はい」

 得意満面なケイトへの返答は、当然ながら弱い。


 だが無論、そのまま敗北に甘んじる魔皇ではなかった。
 動揺から立ち直るなり即座に短距離を転移。オショウの手を逃れ、中空で(たい)を立て直す。口元から滴る黒血を拭い、転瞬踏み込んで鋭く貫手を繰り出した。
 聖剣をも斬り捨てた恐るべきその手刀は、しかしオショウの肌から数ミリの距離で停止する。彼の肉体を(くる)む、見えざる硬気の働きだった。

 自らの反攻が無効化されたと見るや、ラーフラは再度空間を渡る。
 今度は先よりも長く距離を取り、手刀を床石へと突き立てた。積もり立ての新雪ででもあるかのように石材をすくい上げ、ふわりと前方に投じたそれをオショウ目掛けて蹴り砕く。
 弾丸めいて撒き散らされた石片がオショウの全身に降り注ぎ、やはり傷一つつけられずに弾かれた。
 彼の結界深度は、上位魔族の干渉拒絶さながらである。
 硬きものも鋭きものも、オショウを害するは叶わない。

「おのれ……!」

 歯噛みしながら、ラーフラはより大きく飛び退(すさ)った。
 眼前の敵は、得体が知れない。
 その拳は人種に対する絶対防御たる干渉拒絶をやすやすと貫通し、その守りは魔皇の矛先の一切を受けつけぬほどの硬度を誇る。
 危険度第一位を入れ替えて然るべき、凄まじい戦闘能力だった。
 これ(・・)は、単体で魔皇を殺しうる。
 
「ッ!」

 弱気に傾く意識を嗅ぎつけたように、オショウが動いた。
 怯みつつも魔皇は短距離転移。が、逃げ切れない。空間を渡ったその直後に、オショウはラーフラの転移先へと猛迫している。迦楼羅天秘法(ヴァーハナ・スラスター)。砲弾の如き速力は、魔皇の想定を遥かに上回る。
 鉄拳の間合いに捉われればどうなるか。それは既にして思い知った。
 よってラーフラが選択したのは逃げの一手である。
 ただ遁じるばかりの無策では無論ない。
 尋常ならざるオショウの反応速度ゆえ追随を許してこそいるが、自在に空間を渡るラーフラの機動力は低からぬものだ。これを利して距離を得、アウトレンジよりの強力な霊術砲撃による決着を目論む闘争的奔逸(ほんいつ)である。 
 斯様な思惑から魔皇は(のが)れ、オショウが追う。
 結果繰り広げられたのは、超高速の鬼事(おにごと)だった。

 逃げて逃げて逃げて逃げる。
 無様を繰り返し屈辱に満ちながら、それでもラーフラは足掻き続ける。自らの手のひらを指で裂き、オショウの移動経路へと黒血を散布。血は中空で泡立ち、不完全ながら形を成した数匹の魔がオショウへと手を伸ばす。
 そこへ重ねて、魔皇は霊術を執行した。
 詠唱棄却により構築されたのは極寒と停滞。
 絶対零度の氷牢に作用範囲を投獄し抹殺する霊術式であるが、当然のようにオショウには通用しない。結界界面に霜を生む程度の結果に終わる。
 だがオショウの体に接触していた──つまり霊術の効果圏内に存在していた魔族はそうもいかない。即死に近い被害を受けた彼らは、半粘液化したままに氷結。オショウの動きを封じる拘束具と化した。
 氷縛は、しかしオショウの剛力により忽ちに粉砕される。
 だがラーフラが欲したのは、まさにその一瞬であった。

「図に、乗るなぁぁぁぁ!」

 魔皇の咆哮と共に、霊素が空間の一点へと収束を開始。強風を生じるほどに渦動しながら圧縮され、やがて一抱えの火球へと姿を転じる。
 大気が熱を帯び、そして焼けた。
 同時生成される多重積層型の隔離障壁に封じられてなお猛威を誇示するそれは虚無の顎、青褪(あおざ)めたる炎。真夜中の太陽(ラト・スール)である。

 ──オレの炎の禁呪は、オレと同量以上の霊素許容量がなけりゃ起動しない。
 ──他所様が詠唱構成文だけ丸暗記したって使いこなせるもんじゃねェ。

 かつて、セレスト・クレイズはそう語った。
 だが魔皇の霊素許容量は人のそれよりも桁外れて大きく、そして魔族間の思念伝播により、魔皇はこの霊術の詠唱構成を把握し、記憶していた。
 これらの事実が可能としたのが、詠唱棄却による禁呪の執行である。

「避けろ! 影も残らねェぞ!」

 現出した脅威を誰よりも知り尽くすセレストが、切迫した叫びを上げた。
 真夜中の太陽(ラト・スール)は上位魔族を殺傷すべく編まれた霊術式である。人間程度は余波だけで喰らい尽くす破壊の権化だった。
 だがオショウは動かない。動けない。その後背にはケイトたちの姿があった。もし彼が逃れれば、太陽は餌食として彼女らを貪るに相違ない。狡猾なる魔皇の位置取りである。
 ラーフラの一指がオショウを示した。
 灼熱は解き放たれ、(あやま)たず彼に着弾する。

「オショウ様!?」

 炸裂する輝きに目を覆いながら、ケイトが高く叫んだ。
 勝利を確信し、魔皇は唇を歪める。
 五王六武すら干渉拒絶ごと焼き滅ぼす超高熱である。人間風情が耐え切れるはずもない。霊術本体の接触どころか、接近だけで全身に火脹れを生じ、火炎に近い空気の呼吸により喉を、肺を焼け爛れさせて絶命する事だろう。
 それが、直撃である。
 生死を改める必要すらあるまい。

「──三伏(さんぷく)、門を閉ざし一衲(いちのう)()る」

 だが、声がした。
 朗々たる声がした。

「兼ねて松竹の房廊(ぼうろう)(かげ)をする無し。安禅(あんぜん)、必ずしも山水を(もち)いず」

 ラーフラはそれを見た。
 煮え滾る石の上、仁王立ちで太陽を受け止めるオショウの姿を。ただ、呆然と見た。
 青白く燃える光の球の左右から、ぬう、と太い腕が出る。

「心頭滅却すらば、火、(おの)ずから涼し」

 心頭滅却(ジョウキ・イニシエーション)
 結界による防御能力に秀でるが仏道である。熱きものも冷たきものも、彼を傷つけるは能わない。
 双腕が、結界越しに禁呪を抱き締めた。抱擁により白熱の死神はみりみりとその直径を縮小。仏理的圧力に押し切られ、術式構成を完全解体されて消滅する。
 直後、迦楼羅天秘法(ヴァーハナ・スラスター)により宙を舞ったオショウの巨躯が、ずしりと魔皇の前に降り立った。

「ば、化物め!」

 その姿が、どれほどに恐ろしく映ったのか。
 ラーフラの悪罵は悲鳴のように上ずっていた。

「選べ」

 蛇に睨まれた蛙、金縛りにあったように動けぬ鼻先に、(おお)きな拳が突きつけられる。

「仏の顔も(サンド)──一度(ひとたび)憤怒の相に至らば、菩薩に会おうと如来に会おうと、砂となるまで打ちのめす覚悟の境地を言う。以後の俺はこれに()る。故に今、選べ。降るか、続けるか」

 それで、魔皇の心が折れた。
 完全にへし折れた。

 斯くして。
 当代の皇禍は、人の側の勝利で幕を閉じた。
 魔皇の無条件降伏は、人類史初の快挙である。
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