第35話 蠅の王――如月遥馬 3

文字数 4,102文字

 五月十九日 午後二時
 遥馬は、葉月一草から抗生物質を受けとった。一草はプラチナベビーズの身上書と監視映像で見ていたとおりの、体育会系の雰囲気ただよう快活そうな少年だった。彼が運んでくれた抗生物質は、仲間が澄人を寝かしている部屋に運んだ。
(効果があるといいのだが)
 四十度を超す高熱に耐えている澄人のことを思うと、さすがの遥馬も胸がつまった
 人道支援、などとふざけたことを言って彼を送り込んできたのは霜月類だ。そして、この抗生物質を集めて澄人の危機に備えていたのは芝虹太だった。遥馬の脳裏に二人の言葉がよみがえった。
『金で命は買えない。考え直してくれないか。僕はここで誰の犠牲も出さずに終わりたい。君だって仲間を失いたくないはずだ』
『プラチナベビーズとは戦うな。平和的に解決して、兵器実験を失敗させろ。遥馬、頼む。俺たちの未来に禍根を作らないでくれ!』
 類や虹太がのぞむ「平和的な解決」や「平和な未来」と、遥馬が今よりほんの少しだけまともな暮らしがしたい、まともな教育が受けたいと望むことは、なぜこの世界では両立しないのだろう。
『軍事産業の金にたかる俺達みたいなウジ虫がいるから、いつまでたってもこの世界から戦争がなくならないんだ』
 それは遥馬が、いらだちにまかせて叩きつけた言葉だ。
(そうだ。俺は戦場の死体にたかるウジ虫だ。だがウジ虫にだって生きる権利がある。羽化して飛び立つ権利がある)
 金のない苦労を一番知っているはずの姉の理央は、遥馬を裏切った。
『私は類の考えに一票入れる。お金は命には替えられない。私はまた惨めな生活に戻ってもいい。それでもいいから、遥馬に生きていて欲しい』
(俺が一人で生き残ったところで一銭にもならないじゃないか)
 すでに、春待太一が傷つき、文月恵吾が命を落とした。ここで契約金が発生しなかったら、彼らにどう報いることができるだろう。
(もう引き返すことなどできない)
 遥馬は再び、監視施設の玄関脇のソファにかけた。一草は、最後に遥馬の肩を気安く叩いた。まるで昔からの友人のように。いい気なものだ、と独りごちて一度、自分の前を見た。
 そこに。
 ほとんど忘れかけていた男がいた。忘れかけていたはずなのに、その丸まった背中を見ただけで遥馬には誰なのかがすぐにわかった。遥馬の目の前に、監視施設の玄関脇のソファの前に――彼に向かって土下座をする父がいた。両手を床につき俵のように丸まった、中年の背中だった。
 遥馬は一瞬、力一杯蹴り飛ばしてやりたい衝動にかられた。
 お前が! お前のせいで!
 何度も何度も、蹴りあげ踏みにじってやりたい。
 それなのに、体は動かなかった。喉がふさがったように言葉さえも出なかった。息子に土下座をしなければならない人生をこの人は生きたのだ。それはそれで、どうしようもなく惨めな人生だと、遥馬はうっすらと憐憫さえ感じていた。
 遥馬は一度目を閉じた。この島の監視施設に、自分の父がいるはずはない。これは幻覚かなにかのはずだ。それでも、再び目を開けると、彼はまだそこにいた。遥馬は黙ってみつめた。息子の断罪に震える薄汚れた背中を見ていた。以前にこんな姿勢で父親に蹴られたことを思いだした。遥馬が父親と話した最後の記憶だ。
 あれは小学五年の冬のことだ。ほんのわずかな小遣いとお年玉を入れた、貯金箱と財布を抱えて遥馬は床の上に丸くなっていた。
「ほら、二倍、いや四倍にして返してやるって言ってんだよ。お前が持ってたってどうせ、漫画かなんか買っておしまいだろ? だったら俺が有効に使ってやるって言ってんだよ」
 父親は相手が遥馬でも容赦なく金をせびった。
「ほら、一発当てたら遊園地も連れてってやるし、欲しがってたゲーム機だって買ってやる。お前だってそのほうが嬉しいだろ?」
 遥馬が動かずにしゃべらずにひたすら腹を内側にして丸まっていると、尻のほうから力一杯蹴り上げられた。激痛に遥馬が泣きだすと、父親は力ずくで裏返し、貯金箱と財布をむしりとって出ていった。
 遥馬は父親の背中を見て思った。
(ああそうか。この人もそうだったのか)
 一発あてて、人生を変えたかったのか。仕事を失い、妻の細々とした収入にすがって惨めな生活をするなんて、耐えられなかったのか。
 一発あてれば。子供を遊園地に連れて行ってやれる父親。子供に欲しがっていた玩具を買い与えてやる父親。人並みにそんなものになって、胸を張って家に帰ってくることができたのか。だから死にものぐるいになって、現実味のない可能性にすがろうとしていたのか。
 今の人生は、自分の本当の人生じゃない。今の自分は、本当の自分じゃない。ほんの少し見栄を張って、過信して。自分は、もっと他人に尊敬される存在のはずだと。自分の生き方は、もっといいことがある人生のはずだと。だからこそ今まで必死に我慢してやってきたんじゃないか、と。捨てきれない希望をもてあまして。
 たどり着いたところはここだ。
(そうだよ。俺はまぎれもなくあんたの息子だ)
 一発逆転できると信じて、全てをつぎ込んでしまった。もう命さえ、自分のものではなくなってしまったかもしれない。
『俺はお前たちを悪者だと思っているわけじゃない。みんなそれぞれの事情があって、どうしても生きていくために必要なものがあって、ここで戦いの道具にされている。たとえばお前も、俺みたいに何か書いたらどうかと思うんだ。何か自分の意見を発信してみたらどうかって。だって、自分から何か発信しなきゃ、理解も救いも与えられないんだぞ』
 明るい場所からさしのべられた手のように、虹太の言葉がひらめく。
「苦しい、助けて」と誰かに言えばよかったのだろうか。他人の理解や手助けをもっと信用するべきだったのだろうか。そんなことを言ったら、「負け」ではなかったのだろうか。
(だってみじめじゃないか、そんなの。泣き言吐いて人にすがるなんて。本当のクズみたいじゃないか)
 ――必死ですがりついてきた最後のプライドを、意味のない思い込みだったのだと諦観して、どこかでかなぐり捨ててこなければいけなかったのだろうか。

 五月二十日 午前十時
 前室で紙製のスモックを着せられ、ビニールシートで区切られた簡易無菌室の入り口をくぐりぬけて、遥馬は澄人の病室に踏みこんだ。
 白いパイプベッドの上にはすでに上半身を起こした澄人の姿があった。
「もういいのか、起きあがって」
 あれから一晩だ。そんなに急激に効果が現れるものだとは思っていなかった。
 薬効よりもむしろ「助けが来た、新しい薬が来た」という事実が澄人の心理に大きく作用したのではないかと思った。
「まだ、熱はあるんですけど。だいぶ下がってきました」
 そして澄人は恥ずかしそうに笑った。
「僕、お腹すいちゃって」
 カロリー補給用ゼリー飲料のアルミパックがぺちゃんこになってサイドテーブルに置いてあった。遥馬は片手で口元をおおった。震える口元を無理矢理ひきあげて笑う。
「本当に……お前は不死身なんだな」
 澄人は無邪気に笑った。
「すごいのは僕じゃないですよ。みんなが助けてくれるからですよ。事故の時は理央さんが助けてくれたし、今度はプラチナベビーズのほうから、薬があるって言ってきたんですよね」
 もう少し休んでおけ、と遥馬は会話を切った。やっとまともにしゃべれるようになったばかりだ。看病にあたってくれていた班員が、澄人に再び横になるようにうながした。
「遥馬さん、僕もう少し休んだら、創って子のところへ行きたいんです。許可してくれますか?」
 ビニールの扉をくぐって退出しようとしていた遥馬は足を止めた。澄人が遥馬と話したがっている、というのはそういうことだったのか。遥馬は顔をこわばらせた。
「まだ、戦闘は無理だろう」
「でも……僕の力が必要じゃありませんか? こうしている間にも、彼の熱で島がどんどん破壊されていきます」
 澄人はすでに状況を知っていた。まだ立ちあがることもできない澄人に、そんなことを聞かせたのか。遥馬はつきそっていた班員を一度ぐるりとにらみつけた。部屋に緊張が走る。
「ぼ、僕からきいたんです。今、どうなっているかって」
 あわてて澄人がフォローした。そして澄人はまだやつれた顔のまま遥馬に微笑んだ。
「遥馬さん、創君は僕にすごく似てると思いませんか。生まれつき何も知らないまま重い罪を背負わされて。そのせいで身近な人も失ってしまって。普通の人とは違う体のつくりをしていて。僕たち、きっとわかりあえると思うんです。僕は――創君と、友達になりたいんです」
 澄人は目をうるませて言った。
「ともだち?」
 未知の単語を聞いたように遥馬は問い返した。
「はい。僕の耐熱、耐電圧、耐衝撃強化モジュールの体は、ガウスガンを撃つためなんかじゃなく、一人ぼっちでいるあの子と手をつなぐためにあるんじゃないですか? 遥馬さんは、そう思いませんか?」
 遥馬はまだ蒼白な顔色をしている少年を見た。高熱がひいた時の汗で、耳前の髪がひとすじ頬にはりついている。遥馬はふたたびベッドに近づき、その髪を指先ではらってやった。
「そういう仕草、理央さんみたいです」
 澄人がくすぐったそうに言った。相変わらず、日本語の濁音は苦手でほとんど清音のようにしか発音できない。
 遥馬はしびれるような感覚が胸にひろがるのを感じた。
 この子はあきらめないのか。あれだけ踏みにじられて、まだこの世界をあきらめないのか。自分が共感を寄せることのできる何かがあると、信じてその手をさしのべるのか。そんな価値がまだあったのだろうか。この無関心で残酷な世界に。
(ああ、そうだ。最初から――彼には心があった。兵器になどされてはいなかった)
 うるんで歪む視界で、遥馬はそう思った。
「……わかった。許可しよう。ただし、固形物が食べられるようになってからな」
「はい!」
 澄人はまぶしいばかりの笑顔で答えた。
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