第26話 孤独な兄――文月 恵吾 5

文字数 4,476文字

 目の前にガラスの器がある。じゅわじゅわとアブラゼミの声がうるさい。
 木目の座卓の上に、鉄砲百合の花を上向きに置いたようなパフェグラスがある。こんもり半円形のバニラの山にはこぼれそうにチョコレートシロップがかけられて、市販のコアラの絵がついた市販の菓子がのせられていた。
 器は一見すると透明だが、縁の分厚くなっているところだけアンティークガラス独特の、わずかに濁った水色をしていた。恵吾はこの上品な色が好きだった。
 ランニングシャツに短パン姿の恵吾の前には、同じような服装の章吾がいた。鼻下に酸素吸入用の透明のチューブがあてられて、床に置いたキャスターつきの吸入器までつながっていた。
 弟の章吾が大声でがなりたてる。
「兄ちゃん、ずるい。もう一回」
「ずるくねーよ。いいがかりつけんな」
「もう一回~」
章吾がお祈りのように両手を組み合わせて、くねくね身をよじる。駄々をこねるときのポーズだ。細いあごと耳の形は、恵吾と母親に似ていた。眉が太く、南国系のように顔が濃いところは父親似だ。
「それが人にものを頼む態度か」
 恵吾が言うと、章吾はうっ、と大げさにうなって畳の上に膝をついた。
「兄上。太陽礼拝でお願いします~」
 両手を合わせて、また変なポーズをとる。最近ダイエットのために母親がヨガのDVDを買ってきて、時々やっているのだ。それを真似してふざけていると、章吾は通りかかった母親につきだした尻をぺしっと叩かれた。章吾は尻の痛みに一瞬情けない顔になって、それからぺろりと舌を出す。
 恵吾は盛大に笑いだした。章吾も一緒に笑う。
「やべー、こんなことやってる間にアイス溶ける」
「アイス食べたい、兄ちゃ~ん」
 そんなことを言いながら、二人で笑い転げた。
(あれはいつのことだっけ? それとも、あれは……ただの俺の幻想だったっけ?)
 自分の記憶なのか願望なのかも、もうよくわからなくなっていた。

 五月十八日 午前十時
「おはよう」
 真尋の声だった。
「眠れた?」
 顔を隠すようにおいていた腕をどけた。蛍光灯の光がまぶしい。
「いえ」
「だよね」
 相変わらず明るい店内に、ヴァイオリンの音と小鳥の声が流れていた。ソファに半身を起こして辺りを見ると、真尋はすでにこざっぱりした格好をしていた。昨日着ていたブルーのつなぎではなく、赤いワンピースに茶系のレギンスを合わせていた。バックサテンの長袖のワンピースはシンプルだったが、ウエストがきゅっと締まったデザインでよく似合っていた。
 恵吾はあわてて髪を手で整え、創の寝ていたベッドの方を向いた。
「彼ならあそこ」
 真尋の指さす先には、昨日恵吾が弁当を食べたパソコンデスクにちょこんと腰掛けて、足をぶらぶらさせながらパンをほおばっている創がいた。そういえば、彼は昨日、夕食を食べていないのだった。
 毛先が透き通るような明るい茶色の髪の毛は、またあちこちはねている。昨日着替えさせたTシャツはやはり大きすぎたようで、首まわりから片方の肩がのぞいてしまっていた。デスクの上には麻のキッチンクロスがひかれて、パンくずを受けていた。カバの親子がプリントされたクロス。その上の編みかごの中には、クロワッサンやメロンパンが入っているのが見えた。
 カゴもキッチンクロスもこの店の売り物だったはずだ。パンだってそうだろう。もうやりたい放題だな、とあきらめたように一人つぶやいて恵吾はソファから降りた。
「お兄ちゃん、これ中にチーズ入ってるよ」
 創はもごもご言って、食べかけのクルミパンを半分ちぎって恵吾にさしだした。紙パックの牛乳を片手でつかみ、ちゅーと音を立てて吸う。
「はい、半分こ」
 恵吾は苦笑してクルミパンのかけらを受け取った。
「創君はいい子だね。うちの弟はがめついよなあ。パフェ一つでさ」
「がめついってなに?」
「欲張り? いや、俺にかまってもらいたかったんだよな。一生懸命ふざけてさ」
 創が恵吾を見上げて首をかしげていた。
「なんでもないよ」
 真尋の方を見ると、木の丸椅子に腰掛けてタブレットをいじっていた。
「朝ご飯、調達してくれたんですよね。ありがとうございます」
 真尋はタブレットから視線だけをよこして、にっと笑った。
「お腹すきすぎて、ちっちゃな怪獣が暴れだしたら困るからね。文月君も食べてよ。余りそうだし」
 余るとは言うものの、最初から二人分用意してくれていたのだろう。
「あの、あなたはこれからどうするんですか。俺たちと一緒に監視施設に投降しませんか」
 真尋は一瞬固まった。
「それで、この一件は収拾がつくんじゃないですか」
「本当にそんなふうに思ってる?」
 恵吾は黙って次の言葉を待った。
「私ね、逃げる時にもうすでに人を一人犠牲にしてるの。おとなしく投降したらそれでおしまいってわけにはいかないの。文月君、君は霜月類ってプラチナベビーズを知ってる? 彼は過去に人に重傷を負わせた。その代償として今でも車椅子で生活してるの」
「霜月類のことは知ってますが……」
「こんなこと、もう終わらせない?」
「終わらせるって?」
「文月君だって、早くお金もらって帰らなきゃ、でしょ。だから、私たちがこの実験を終わらせてあげようって」
「私たち?」
 真尋は寂しげに笑った。寂しげに、しかし愛おしそうに。意志の強そうな顔が一瞬薄氷のようなはかなげないろをみせて、恵吾は彼女が一人の女なのだと強く認識した。
「そう。それが私たちの悲願だったの」
 そして椅子から立ちあがり、恵吾に近づいた。
「文月君、君の弟さんのこと、力になってあげられないから私ができることをしてあげるよ。ここで会えたのもなにかの縁だしね。君のエフェクトチップを出してみせて」
 恵吾は警戒心をあらわに真尋を見た。
「エフェクトチップって。どうしてあなたがそんなことまで。プラチナベビーズには監視のことは伏せてあって……」
「私、監視者とつきあっていたの」
「え?」
 真尋は笑った。
「私たちは敵同士で出会ってしまったの。だから……こんな実験なんてクソくらえだ。私たちが全部ぶっ壊してやるって、思ったの」
「真尋さん……」
 真尋はうむを言わせず、ソファに座る恵吾の前に手の平をつきだした。
「さあ、出して」
 恵吾は迷いながらも自分のシャツをまくった。左手を服の中につっこんで右腕をあげる。右の脇の下から透明なシリコンに包まれた五百円玉くらいの丸いものを剥がしとった。一瞬、真尋に手渡すのがためらわれた。が、それでも真尋の強い視線にうながされて、おそるおそるさしだした。
「これが、そうなの? 私が知ってるのと形が違うけど」
 たとえるなら和菓子のくず桜のようだった。シリコンの中心には桃色の液体の入った平たいパックが埋め込まれていた。
「こんなにむき出しなの? もっと周りが金属っぽかったと思ったけど」
「真尋さんのつきあってたっていう人は武装班の人ですか」
 真尋はうなずく。
「武装班のエフェクトチップは耐熱耐衝撃性のチタン合金で保護されていて、アームリングやチョーカータイプが多いと思います。監視対象者のすぐ近くで監視するヒューミント班は、そういう目につくものを身につけられないので、服の中の目立たないところに装着するようになっているんです」
「今、ピンク色だね」
 恵吾は声をおとした。
「そうですね。たぶん、昨日創君の能力に触れた結果ですよね。真ん中のジェルの色が、始めは赤色なんです。プラチナベビーズの能力にさらされると、少しずつ反応して白色に近づいていく」
「知ってる。君の契約金支払いの具体的な基準は?」
「赤色5パーセント以下です。でも、それはあくまで条件の一つなんですよ。一番大事なのは戦闘の記録です。この島に張りめぐらされた監視ビデオ画像や熱探知、赤外線、放射線センサーの情報と一致してはじめて基準を満たすことになるんです。当人がその場にいても戦闘に参加したか微妙な場合、判断基準になるのがエフェクトチップなんです」
 真尋は手をのばして、恵吾の手の平からチップを剥がしとった。
「待ってください。それ、体温が必要なんです。中心のパックの温度が三十四度を下まわると、反応が停止するんです」
「それも知ってる。どこかに置き忘れたり、死体になってから戦闘に巻き込まれても、反応しないってことでしょ」
 真尋が手の平を合わせて包みこんでいく。
「アクシオン粒子、だっけ? プラチナベビーズだけがあやつることができるっていう。あれはただの仮定の話にすぎないんじゃないの?」
「ええ、研究者たちもその粒子の存在をはっきり観測はできていないと思うんです。だけど、それに反応する物質は発見できているという」
「結果だけはあって、過程や方法はよくわからない、そういう感じ?」
「ま、そうでしょう。しくみの解明されていない自然現象みたいな感じだと、俺は思ってますけど」
 話している最中に、真尋の指の間からピンク色のゲル状の物質がこぼれた。恵吾は目を見開く。
「ほら」
 真尋が合わせていた両手の平を開くと、そこには白色に変わったエフェクトチップがゲル状の液体にまみれていた。真尋がハンカチでぬぐって、恵吾の方にチップを返した。粘着面はかなり拭きにくそうだった。
「真尋さん……」
「とりあえず一つ条件をクリア。あとは戦闘に立ち会わなくちゃね。でも最初からこれが白に変わっているってわかってたら、戦うときに功を焦らなくていいでしょ」
 笑顔で言った真尋は、そのあと急に真剣な顔になった。
「あのね。こんなことしたあとで卑怯なお願いだってわかってるんだけど」
 恵吾はチップを受けとって不安げに真尋を見た。
「文月君、私と別れたあと、創君を監視施設じゃなくて別の場所に連れて行ってくれる?」
「え……。どこに、ですか?」
 真尋は一度あたりを見まわし、声をひそめた。
「霜月類の自宅。そこはプラチナベビーズのアジトになっているはずだから。創君もそこに合流させてあげてほしい。あとで私が類に連絡をとる」
「で、でも、創君が危険だってわかってますよね」
「類は、守ることのエキスパートなんだ。なんとかできると思う。ていうか、してくれないと困る」
 恵吾は天井をあおぎ瞑目した。
「……僕に少し、考える時間をください」
 あまりにもどうしようもない時間稼ぎの言葉に自己嫌悪になった。
 創を監視施設に連れて行かない、ということは遥馬の命令に逆らうことなる。考えてみれば真尋とは、偶発的とはいえ本来利害の対立している相手とのおかしな協調関係だった。それもここまでなのだろうか。
 真尋はその答えを予期していたように、数歩下がって顔をこわばらせた。
「協力してほしいな。でないと、力ずくになっちゃう」
 スカートをまくり、スパッツの上から身につけている太もものホルスターから自動拳銃を抜いた。
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