第22話 孤独な兄――文月 恵吾 1

文字数 6,683文字

 五月十七日 午後一時三十分
 南高校で生徒の避難指示が出されたあと、文月恵吾は遥馬からの指示を受けて、南高校から島内唯一の病院へ向かっていた。
 橋梁へ避難に向かう人の流れに逆らって、島の南東をめざす。持ち物はズボンのポケットの中のタブレットと財布だけだ。一草とはちあわせになる可能性を考えると、教室に鞄を取りに戻ることはできなかった。
 通い慣れた道だった。高校から島の外周道路に出て、あとは道路にそって右手に海をながめながらひたすら歩く。津波の警報が出ているなどという話が滑稽に感じるくらいに、晩春の海は凪いでいた。独特の磯の匂いと、ねばつくような湿り気のある海風に体をさらして歩き続けた。
 恵吾が一草の監視業務として指定されていた時間は学校終了時刻までだった。ショートホームルームが終わって解散になったら、あとは自由時間になる。日付が変わる前にその日の一草の行動についてレポートを打って、監視施設にいる管理官にメールで送れば一日の監視業務は完了だ。
 恵吾は病院の院内学級のボランティアに登録していた。一週間のうち、授業が早めに終わる水曜日をボランティアにあてていた。院内学級にはちゃんと小学校の教職免許を持った先生が一名派遣されていた。しかし、年齢も学習進度もばらばらの子供たちに一人一人対応するには手が足りず、恵吾のような学生のボランティアが採用されていた。
 そこで恵吾は、簡単なプリントのまるつけをしたり、九九を一緒に唱えたりして過ごした。時には子供たちと一緒に歌も歌った。時間に余裕のある時は、教室の装飾を手伝い、病室をまわって絵本の読み聞かせをしたり、折り紙を教えたりした。そうすることで、少しだけ弟のために働いている気持ちになれた。もちろん、目の前の子供たちが本当の弟でないことは百も承知だったが。
 恵吾が日常的に病院に出入りをしていることを遥馬はすでに知っていた。別段不思議には思わなかった。自分の経歴でも見たのだろう。恵吾に入院中のプラチナベビーズ、宇都木創の保護を頼んできた。
 道を歩く人々はみな足早に自分と反対方向に進んでいく。
 ふと、黙って別れてきた一草のことを思った。今まで普通に生活してきたのに、自分がプラチナベビーズだということをもうすぐ思い知らされてしまう。自分は人間だと認められてはいない。しかも毎日、親友に監視されていた。そんな事実を、冷静に受け入れられるものだろうか。
(いや、彼なら)
 そんな事実でさえも、前向きに乗り越えてしまうかもしれない。恵吾は一草の明るさをいつもうらやましく思っていた。羨望しながらも、その屈託のなさに支えられていた。いずれ敵対してしまうのだから、もっと不気味で憎々しい人格であって欲しい。時々そう思わないでもなかった。
 しかし、そんなふうに思うのはやはり自分が弱いからなのだろうと自己嫌悪してもいた。自分のしていることを正当化したい。自分を親友だと思って気を許している一草に対して、うしろめたい気持ちから逃れたい。そんな自分の弱さがそう思わせるのだろう。
 恵吾はふと、新しいリーダーである遥馬のことを考えた。タブレットから響いた氷のような声を思い出す。彼なら、きっと迷いはしないだろう。自分のしようとしていることが正しいかどうか、誰かの価値観や評価で裏付けてほしいなんて女々しい考えは持たないはずだ。
 元特殊武装班班長の春待太一は男の自分からみても、頼りがいがありカリスマ性を感じた。その影のように近くにいた遥馬は、最初はひょろりと痩せていて目立たない存在だった。しかし、訓練を積むうちに静かに地力を伸ばして特殊武装班のナンバー2まで這い上がった。
 監視者の中では、外見や運動神経など生まれつきの素質に恵まれた太一よりも、努力でのしあがった遥馬を支持している者も多かった。自分の信じた道のために骨惜しみなく力を尽くすくせに、どこか冷めていて人とは一定の距離を置く。熱いのか冷たいのか―――恵吾から見た遥馬は不思議な存在だった。
 病院が見えてきた。いつもここを歩いているときは楽しく悩んでいた。足し算を教えている子に、くりあがりをどうやって説明してあげようか。鶴の折り方を教えてあげた子に、今日は羽がぱたぱた動く折り方を教えてあげようか。いつも半分眠ったようにぼんやりしているあの子に、今日はなんの本を読んであげようか。
(創君は宮沢賢治が気に入ったみたいだったな。オノマトペが独特で面白いのかもしれないな)
 そんなことを考えたこともある。宇都木創。十歳の少年だ。彼ほど気の毒な境遇のプラチナベビーズを恵吾は知らない。いつもベッドの中で半眼でうつらうつらしている。生まれてからまったく日焼けしていない透き通るような肌色で、髪は女の子のショートカットぐらいの長めだった。寝ている時間が長いために後頭部の髪はいつもぺったんこになっている。調子の良い時は、話しかけるとうっすら笑ったり、うなずいたりしてくれるのだが、実際のところどこまで理解できているのかはわからなかった。夢見るようにまぶたをうすく開くと、目の色は薄茶色と翡翠色の綺麗なグラデーションになっていて、風光明媚な湖面のようだと恵吾はいつも思うのだ。
 創の管理を他の監視者からひきついで監視施設まで送り届けるのが、遥馬からの依頼だった。
『宇都木創は、意図的に意識障害を起こさせている特殊な環境にある。しかもひとたび覚醒したらとても危険な存在だ。もともと顔見知りのお前なら警戒心も抱かれず適任だと思う。やってくれるか?』
 了承したのは、自分と遥馬のためだけではない。創にとってもそれがベストだと思ったからだった。
 正面玄関から入ると、外来患者の待合ロビーはすでにがらがらになっていた。自分で移動できる患者はみな避難に動いたのだろう。薄いピンクや水色の白衣を着た院内スタッフが、数人せわしなく廊下を駈けぬけていった。
 恵吾はエレベーターを避けて、階段を上っていった。小児病棟は三階の東棟だ。見慣れた階段をかけのぼる。三階についた時、顔見知りの医療スタッフと行きあった。
「文月君。もう聞いた?」
 創の監視者である小児科医の中島文香だった。ズボンとセットになったオフホワイトの白衣姿だ。胸ポケットの部分に写真入りの身分証をクリップしている。年は三十代の始めくらいだろう。いつも髪はひっつめ、化粧も薄めで眉毛だけをはっきりとひいているのが印象的だった。
 文香はちらりと辺りを見まわすと、恵吾の腕をとって階段の隅に連れていった。
「避難勧告の件ですか?」
「うん。PBの弥生真尋が監視をくぐって逃走したって」
 プラチナベビーズではなくPBと略称を使った。
「俺、その件で来たんですけど。創君を監視施設まで移送するようにって」
「私は聞いてないわ」
 文香は憤慨した様子だった。恵吾は逡巡した。
『もうすぐ学徒隊特殊武装班が反乱を起こして、この島からトゥエルブ・ファクトリーズの社員を一掃します。あなたも退去するはめになるんです』
 それを今、目の前の女医に告げてしまっていいのだろうか。迷ったあげく、時間を稼ぐように恵吾は話題をすりかえた。
「他の患者さんの避難は済んでるんですか?」
「他のみんなは大丈夫。文月君はわかってると思うけど、もともとこの病院は、創君の管理と、住民の初期医療のために作られているの。重症患者はすぐに提携している本土の病院に移送されているから、ここには基本的に軽症患者しかいないのよ」
「よかったです。で、今創君は」
「午後の薬の時間だけど、薬剤師がもうみんな避難したみたいだから、私が自分で投薬しにきたわ」
 文香は白衣のポケットから、創の名前が大きく印字された紙袋をちらりと見せた。
 その時――ドオン。
 遠くで爆音が聞こえた。二人は思わず顔を見合わせた。
 一拍おいて、病院の建物が大きく振動した。文香がよろめいて壁に手をついた。恵吾も上体を低くしてふんばった。
 館内の照明が全て消えた。階段の中心の吹き抜けから、わき上がるような悲鳴が上階まで貫いていった。階下で大人数が駆けだす足音と、新雪のようにキュッキュッと鳴るリノリウムの音が聞こえてた。エレベーターが緊急停止を告げる電子音を発している。ナースステーションからだろうか、あらゆる警告音が一斉に鳴った。ガシャン、ガシャンと何かがひっくりかえる音が聞こえた。
 数秒おいて病室から順次照明がついていった。自家発電に切り替わったようだ。
「なんなの、もう」
 文香が怒鳴った。混乱すると怒りを表すタイプらしい。怒ることで、不安になる自分の気持ちを抑えているようにも見える。
 階上ではまだガタガタと不穏な金属音がしていた。
「停電時の対処法もちゃんと訓練しているっていうのに、さっきの騒ぎはなんなの。まったく、うちのナースたちは――」
 文香は四階へ続く階段を見上げて、言葉を失った。目を見張っていた。
 恵吾が彼女の様子に異変を感じた時にはすでに遅かった。目の前にいた文香は消え、かわりに医療用具を積んだ銀色のワゴンが壁に激突していた。衝撃で起きた風が、ふわっと恵吾の髪をゆらした。小学校の頃、給食を運んでいたワゴンによく似た二段編成のステンレスのワゴンだった。
 床にピンセットと鉗子が勢いよくばらまかれた。鼻をつく消毒液の匂い。血圧計からカールコードが飛び出してブラブラ揺れていた。階段を転げ落ちてきたワゴンを受けとめた壁は、壁紙がハンドル部分でえぐられて、ひだを寄せたようにしわになっている。ワゴンと壁の隙間は、恵吾の体の幅の半分もない。ここに人がいるとは到底思えない狭さだ。そこから、文香の手がだらりと伸びていた。
 ぽとりと創の薬袋が床に落ちた。
 恵吾しばらくぼう然とその光景をながめていた。階段から聞こえていた人々の喧噪が遠ざかり、病院内がふたたび沈黙に包まれる。そこで初めて声にならない声をあげて飛びのいた。
 床にじわじわ広がる消毒液の透明な水たまりに、紅い色が混ざり、広がるスピードをあげていく。恵吾は自分を奮い立たせた。長時間正座した後みたいにガクガクする足をなんとか立たせて、一歩一歩文香の手に近づく。
 ぴちゃ。
 血だまりに足を踏み入れた。ワゴンと壁の隙間をのぞきこむと、あきらかに骨格がおかしな形になった文香の上半身が見えた
 口元をおさえて悲鳴をこらえる。奇妙な植物みたいにのびた手首にそっと触れてみたが、脈は感じられなかった。恐怖心から吐き気がこみ上げるのを、腹に力を入れてぐっとこらえると、方向転換して病棟の廊下を走っていった。
「誰か! ケガ人です、誰か来てください!」
 恵吾の声はからっぽの病棟に虚しく響いた。ナースステーションまで走っても人影はなかった。ナースステーションから廊下を振り返ると、今自分がつけてきた血の足跡が、驚くほど鮮やかでぞっとした。
 恵吾は病室を一つ一つのぞいていった。「患者の避難はすんでいる」という文香の言葉どおり、病室も空だった。
 倒れた点滴台、開けっ放しの窓。先ほどの異変で、スタッフはかなり動揺して避難を急いだ様子だった。院内学級に使われる小児科の部屋にも誰もいない。これでは文香が医療スタッフの手当を受けるのは、もう絶望的だろう。苦しい気持ちをひきずりながら最後に恵吾が開けたのは、ナースステーションの正面の特別室だった。
 彼はもう、不審そうに上半身を起こしていた。
「創君?」
 まだ焦点の定まらない目で声のしたほうへ顔を向け、ぼんやり恵吾を見る。いつもどおり後頭部はぺたんこで横の髪の毛は少しはねている。
「お、にい、ちゃん」
 めったに聞けない声だ。乾燥したかすれ声だった。
「お、俺がわかるの?」
 恵吾は創を怖がらせていないことに安堵していた。創は病室の棚に重ねられた絵本を指さした。
「そう。わかるんだね。いつも本読んでるお兄ちゃんだよ」
 創が嬉しげに目を細めた。
「ごめんね。今日は本を読みに来たんじゃないんだ」
 創は言葉の意味がわかっていないのか、笑顔のままだ。
「創君。ここから移動しなきゃいけないんだ。君は歩けるのかな?」
 恵吾は彼がベッドで上半身を起こしている所しか見たことがない。看護師の話では、トイレには普段歩いて行っているらしい。短い距離なら歩けるのだろうか。
「あ、る、け、る?」
 ゆっくり言い直してやると、創はうなずいてベッドの布団の中から足を引っ張りだした。
「トイレの時間?」
「トイレも行っておこうね」
 恵吾がスリッパをそろえてやると、創は床に降りたった。全身に星の模様が跳んだパジャマを着ていた。 恵吾はベッドの柵にかけてあった丈の長いパーカーを羽織らせてやった。
「靴、あるかな?」
 たずねてみるが、創は首をひねるだけだ。
 恵吾は病室のロッカーを開けてみたが、着替えや玩具、文房具以外のものをみつけだせなかった。ベッドの下も丹念に探してみたが、靴はなかった。しかたなくスリッパのまま、近くの男子トイレを使わせて廊下に出た。
 やはり創はふらふらしている。それが普段歩かないせいなのか、薬がきいてぼんやりしているせいなのかはわからない。一足歩くたびに大きく体重移動して体が左右にゆれてしまう。これではいっこうに進めない。
「おんぶしようか」
 恵吾が前にかがんで背中を見せてやると、創は少し考えてから、同じ格好で恵吾の横にかがんだ。何かのゲームだと思っているようだ。
「違うよ。俺の背中に乗るの」
 ようやく合点がいって、創が恵吾の背中に乗った。文香の遺体のある階段を避けて、西棟まで廊下を歩いた。
 創は十歳だが、筋肉が少ないせいか思ったより軽く感じた。それでも監視施設までずっと背負っていくのは難しそうだった。実際、三階分の階段を降りただけで恵吾の息はあがっていた。
 待合のベンチ型のソファに創を一度座らせて、腰をのばして休憩した。こんな時、一草みたいにスポーツでもして鍛えていたら、と思う。
「スリッパじゃ外を歩けないよな。やっぱ、靴を調達するか」
 恵吾は病院近くのコンビニやスーパーに子供用の外靴があるだろうか、と考えてみた。
(いや、ミナトタウンまで行くのが確実だ)
「お兄ちゃん。どこ行くの? 僕、病院出るの?」
 創の声は三階で聞いたときよりずっとしっかりしていた。文香は、恵吾に「午後の薬を投薬していない」と言っていた。すでに薬の効き目が薄れてきているのかもしれない。
「創君」
 ソファに腰掛けた創を見ると、こころもち瞳もぱっちりしているように見えた。色白で目が奥まって彫りが深く、欧米人とのハーフのような顔立ちだった。
「僕、病院出ちゃ行けないって言われてるんだけど。いいのかな? 文香先生に怒られないかな?」
「文香先生はもう怒らないよ」
 恵吾は嗚咽をこらえて、それだけ言うのがやっとだった。
「そう。よかった」
 ほっとした様子で、開放感からかベンチから膝下をぶらぶらさせている創の前に、恵吾はかがんで視線を合わせた。かみくだくように、ゆっくり言い聞かせる。
「創君、今ね、病院の人たちがみんないなくなっちゃったんだ。創君の世話をする人がいないからね、いまから俺と別の場所まで行くんだ」
「病院の人、どこにいったの?」
「この島から出ていった。でもそのうち戻ってくると思う。それまでお兄ちゃんの仲間のいるところへ行こうね」
「うん。わかった」
 素直に答えながら、どこかまだ納得いかなさそうな様子だった。なぜみんなはいなくなって、自分たちだけが島に残ったのか。多分そのあたりに疑問が残っているのだろうが、どうたずねていいのか思いつかない様子だ。しばらくこの幼さに甘えさせてもらおう。そう恵吾は思った。
 ――本人告知。君はプラチナベビーズと言って、人間扱いされない存在なんだ。生まれた時に自分の母親を含む四人の人間を死なせていて、プラチナベビーズの中でもっとも罪深い問題児だ。
 その事実を、本人に伝えるのはひょっとして自分なのだろうか。いきがかりで保護することになった自分が、それを行わなくてはいけないのだろうか。それは病院に向かった時から、恵吾が内心もっとも恐れていたことだった。創は危険な存在だったが、恵吾の中では弟とよく似た境遇の十歳の子供だった。
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