第34話 蠅の王――如月遥馬 2

文字数 4,041文字

 遥馬が学校から帰ってくると、理央がいなかった。「今日は遅くなるから勝手に晩ご飯食べて寝てて」と書き置きがあった。
 日付が変わる頃になってやっと理央は帰ってきた。その夜の理央はまるで酔っているようにうかれていた。いや、本当はうかれているフリでもしなくては、自分が保っていられなかったのかもしれない。
「遥馬、おこずかいあげる」
 チェーン付きの小さなハンドバッグから封筒を出すと、そこから一枚紙幣を出して、アパートの玄関に立った遥馬の鼻先につきつけた。一万円札だった。遥馬の顔色が変わった。
「姉ちゃん、これ……」
「遠慮しないで。私ももう服買っちゃったから」
 体のラインもあらわなニットワンピースを着ていた。ミニ丈で首回りはゆるいタートルネックになっている。襟元を下ろして肩を出して着ることもできるデザインだった。
 ほっそりした理央の肢体はマネキンそのままのようだ。なんとなく遥馬は事情を察した。
「来週も同じだけあげる。いや、もっと稼げるかも。これからは我慢しなくていいよ。携帯電話の契約もできるかもね。あ、未成年だからそれはダメか」
 けらけらと理央は軽薄に笑った。
「何? 何やらかしてきたんだよ」
「ちょっと、お仕事してきた。紹介してくれる子がいてさ」
 遥馬は怒鳴りつけたいのをこらえて、理央を台所の椅子に座らせ、「お仕事」の内容を聞き出した。
 四畳ほどの台所には作業台代わりの細長いテーブルがあり、折りたたみ椅子を置いていた。コップに水をくんで置いてやる。理央は少し酒の匂いがした。
「同伴者派遣ビジネスっていうの? ほら友達の代わりに一緒に遊園地行ってあげたり、彼女の代わりに、食事につきあってあげたりするやつだよ」
「それってデートクラブってことだろ?」
「ううん。ホテルには行かないよ。そういう規約になってるし。あくまで飲食店止まり。あのね、そういう職域に手を出すと、怖いおじさんたちの縄張りとかあって、いろいろ大変らしいよ」
 姉は、自分を子供だと思っているのだろうか。
「それだけでそんな稼げるわけがないだろ」
 理央は言いたくなさそうに、しばらくあちこちに視線を飛ばしていたが、やがて口を開いた。
「あのね。一番稼げる行き先は、ハプニングバーなの。バーにつきあう分は前金で。そこからあとはオプションで」
「なんだそれ」
「バーの中は衆人環視だし。基本的に同意の行為しか認められてないから、嫌がってるのに余計なことされることはないし。盗撮はお店側が禁止してるし。フロアが盛り上がれば、バーのほうから内緒でチップもらえることもあるし。むしろ、密室でサービスするようなお仕事なんかよりずっと安全なんだよ」
 遥馬はしばらく憤怒をおさえるのに格闘していたが、なんとか感情を抑えこんで長いため息をついた。プライドとか、尊厳とか、今まで大事に抱えてきたそういったものが、バラバラとめっきのように剥がれ落ちていきそうなため息だった。もはや悪びれた様子もない理央を見て、自問する。
(姉貴がこうなったのは誰が悪い? 俺か?)
 はらわたが煮えるような怒りはたぶん、自分の無力に対してだ。未熟で愚かで何もできない。何もわかっていない。
 理央だって、とっくに限界だったのだ。崖っぷちの前に立って、自分が落ちるであろう暗い崖下をのぞいていた。それでも後ろに遥馬がいたから。守らなければならない存在がいたから。自分がここで持ちこたえなくてはいけないんだと、必死で自分を鼓舞していたのだ。その姉を崖っぷちから突き落としたのは、誰でもない遥馬だった。自分がすてばちな態度で、理央の忍耐をたちきってしまったのだ。
 十五歳と十四歳で。手を握りあって、守りあわなくてはいけなかった。それなのに、自分のしたことは――どうして自分は、姉を守ってやれなかったのだろう。
 理央は長い長いシャワーを浴びたあと、疲れたのか布団を敷くとすぐ眠ってしまった。
 遥馬と理央は幼い時から和室で寝起きしていた。アパートにはキッチンと畳のはがれかけた和室、あとは狭い洋室が一部屋あるだけで、洋室のほうは嫁入り道具だったという母の衣装ダンスとドレッサーで占領されていた。
 足先の出る子供用の布団の中で、遥馬が眠れずに展転していると、理央が手を伸ばして隣の布団にいる遥馬の手を探りあててきた。
 きゅっと握りこまれた。少し汗ばんだ手の平は、懐かしい感触だった。
「ねえ」
 薄闇に姉の声がした。
「私たちがもっと可愛い子供だったら、父さんは真面目に働いて家に帰ってきてくれたのかな。母さんも、変な宗教に入れあげたりしなかったのかな」
 姉の声はかすれていた。
「私たちが悪かったのかな。私たちが両親の期待に応えられるようないい子じゃなかったから、こうなっちゃったのかな」
「姉貴」
 遥馬は理央の声をさえぎった。卑屈な思考だが、そう思うことでしか運命を受け入れることができない理央の気持ちは痛いほどわかっていた。
(私、生きていけなくなるのが怖いよ)
 姉の手は、世の中の不条理に脅えているように感じた。
 遥馬は言葉もなくそれを握りかえすことしかできなかった。
(うん。……俺も怖いよ)

 遥馬は白いワンボックスカーの車内にいた。平日の車上荒らしはもう彼の日常になっていた。補導されるようなへまをやったことは一度もない。
 ショッピングセンターや飲食店のパーキングは狙わない。買い物客が財布を置いていくことはないからだ。遥馬が狙うのは、レンタルショップの駐車場。それから自宅から少し離れた大学病院の駐車場と周辺のコインパーキングだ。
 特別な道具や技術はいらない。そんなものは職質を受けたとき不利になる。遥馬がやっているのは、片っ端からドアの取っ手を触っていき、施錠し忘れた車を根気強く探すだけの単純な仕事だった。車の持ち主も、自分が施錠を忘れた過失があるせいか、あまり被害を訴えないようだ。
 レンタルショップの駐車場は、返却するだけの客がちょっと車をとめてロックを忘れることが多い。物陰から降車する様子をひそかに観察していて、すばやく仕事をしなければならない。
 病院はゆっくり仕事ができた。患者の付き添いや、お見舞いに来た客の車がいい。とくにチャイルドシートを乗せたファミリーカーは狙い目だった。後部ドアのチャイルドロックが何かのはずみに解除されているのに、運転者が気づいていないことが結構あるのだ。幼児を抱きかかえた親は手が空かないから、あまり細かくチェックできない。遠隔ロックを過信しすぎて、施錠されていない車もたまにあった。
 遥馬は、今日の獲物に乗りこむとまるでその車の持ち主のように運転席に座り、無遠慮にサイドボードに置かれていたお菓子を食べた。輸入雑貨店のおしゃれなパッケージに入ったマシュマロだ。リアウインドウには、クレーンゲームで取ったぬいぐるみが並ぶ。座席の荷物入れにはテーマパークのガイドブックが丸めて入っていた。遥馬は一瞬、これにライターで火をつけて車ごと焼いてやろうかと思いたち、やがてバカらしくなってそんな自分を笑った。
 置きっぱなしのトートバッグから、通帳の入ったポーチが出てきた。中に銀行の名前が印刷された封筒が入っていた。下ろしたての数万円で収穫としては充分だ。今日の仕事ははこれで終わる。
 遥馬は瞑目して大きく息をついた。父親は以前に増して、家に帰って来なくなった。金を無心できる母親がいないからだ。今頃どこでどうしているのか、もうとっくに自分たちのことなど忘れてしまったのか、それとも何か事情があって帰れなくなっているのか、遥馬には知る術もなかった。
 相変わらず母親は教団の施設に入り浸りだった。そこからパートに通わされているらしく、月に一度、信者に付き添われて最低限の生活費を置きにきた。
 理央は週に二、三回、夕方から例の仕事に出かけている。遥馬もこうして現金を得る方法を身につけた。サッカー部には入らず、自分も非合法で稼ぐことにしたのだった。
 遥馬は理央が客と行くという、ハプニングバーの実態を調べてみた。学校の図書室のパソコンはフィルタリングがかかっていて表示できなかったので、若い養護教諭を口説き落として、彼女のノートパソコンで調べさせてもらった。客同士の同意さえあれば、性的な行為も時には器具を使ってSMじみたことも行われるらしい。あられもない画像を見ているだけで遥馬は吐き気がした。
 そして昨夜、理央に仕事を紹介してくれたという少女が救急搬送された。ウイルス性の肝炎を発症したのだった。数日前から吐いて何も食べられなくなっていたらしい。すでに黄疸の症状があり、そのまま集中治療室に入ってしまった。
「私もいつかああなるのかな」
 搬送に付き添ってから、家に帰り着いた理央は紙のような顔色をしていた。
「どうしよう、遥馬。私があの子みたいになったら」
 理央は、和室の照明器具の真下で膝を抱えて震えていた。黒いレースのスリップドレスが寒々しく見えた。
「入院費や治療費なんか出せないよね。どうなるんだろう」
 遥馬は言葉もなくうなだれた。結局、姉をこんなろくでもない仕事に追いこんだのは自分だ。
 理央は決心したように顔を上げた。蛍光灯の下で、蒼白な顔できっぱり言った。
「やっぱり、こんなこといつまでも続けられない。私たち、いつか二人ともだめになっちゃう。ねえ、やっぱり、あの話に応募しようよ」
 あれ。それは遥馬が学校帰りに声をかけられた不思議なスカウトの話だった。
「寮で生活できて、高校にも通わせてもらえて、あと契約金が二人合わせて四千万だよ。遥馬、誰にも頼らずに行きたい大学に行けるんだよ」
「命がけなんだろ? だからそんな金額提示してくるんだろ?」
 遥馬は反対しながらも、それ以外すでに選択肢がないことを悟っていた。
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