第28話 孤独な兄――文月 恵吾 7

文字数 3,250文字

「あー、お兄ちゃん、泣かしちゃったー」
 気がつくと目の前に創がいた。
「お姉さんを泣かしたー」
「創君、これは俺が泣かしたんじゃないんだよ」
「ほんと?」
 創は真尋に近づき、首をねじ曲げて顔をのぞきこんだ。
「お姉さん大丈夫?」
 真尋は両手で目を覆ったまま何度もうなずく。
 泣かないで、泣かないで。そう言いながら、創は小さな手で真尋の頭を何度もなでた。
「少し、そっとしておいてあげよう」
 創をうながして、インテリアショップを出た。しばらくうろついて、トイレの入り口前に長椅子をみつけて腰掛けた。
「お兄ちゃんの弟、病気なの?」
 退屈そうにしていた創が急に真剣な顔をして恵吾を見上げてきた。
「創君、俺たちの話、聞いてたのか」
「だから、いつも僕や病院の子に優しくしてくれたの?」
 恵吾はため息をついた。
「そんないい人間じゃないんだよ、お兄ちゃんは」
 気負いなく素直に語れていた。
「弟のためにお金がいるの?」
 恵吾は苦笑した。見かけより幼いと思ってあなどっていたが、理解力はちゃんとあるのだ。
「うん、そう。すっごくたくさんお金が必要でね」
「そうなんだ。元気になるといいね」
「うん。でも、そのためにはお金だけじゃなくてね、他の人が死ぬのを待たなくちゃいけないんだ。そしてその人の肺をもらって移植しなくちゃいけないんだ。俺はそれもすごく理不尽な気がして、つらくてね。自分の家族の命が惜しいからって必死でお金を集めて、それなのに他の誰かの死を望まなくちゃいけないなんて、なんて皮肉な世界なんだろうって。俺は……そんなこと考えるなんて本当に最低だな。母さんの頑張りも踏みにじってしまったし。ここでは友達をだましていた」
「弟のために、でしょ。お兄ちゃんは悪くないよ」
 創が心配そうに言う。
「ありがとう。でもね、もういい人でいるの、疲れちゃったんだ」
 恵吾の目から涙がひとすじつたった。
「俺はもう、いいお兄ちゃんでいるの、疲れちゃったんだ。だから、ここでお金を稼げたらそれをあげて、家族とは距離をとろうって思ってた。もう章吾のお兄ちゃんでいるのも、あの両親の子供でいるのもやめて、どこかで自由に暮らしてみたいって思ってた。自分のためだけに生きてみたいって思ってた」
 困惑してみつめる創を見おろして微笑む。
「逃げ道が欲しかったんだ。あの家から逃げたかった。弟のためなんかじゃなく、全部自分のためにやってたんだよ」
 自分のために――契約金の二千万円は、恵吾にとって弟の命を救うと同時に、兄としての重荷から解放されるための金だった。そのために戦闘でも監視でもなんでもする、と決めたのだ。
(それなのに……それなのに、なぜ今さらあんな事を思い出したりしたんだろう)
「ああそうか。あれはじゃんけんパフェだった」
 恵吾は唐突に思い出した。
「じゃんけんパフェってなに?」
 創に問いかけられて、それを声に出していたことに気がついた。苦笑して説明する。
「うーんとね。昔、弟がもっと元気だったころ、うちには綺麗なパフェグラスがあってね。夏になると家でそれにパフェを作るんだ。って言っても適当に家に買い置きしてるお菓子を入れてバニラアイスを入れて、チョコレートシロップをかけるだけなんだけど。コーンフレークとかマシュマロとかバナナとかビスケットとか、その時のあり合わせでなんでも入れちゃうんだ。グラスは四人家族でちゃんと四人分あったんだけど、何かで一つ割れちゃって。同じ物が買い足せなかったみたいで、仕方なく一つだけ普通のコップで代用してた。だから一つだけ、ただのガラスのコップに盛りつけるんだ。小さくて分量も少ない。誰がコップのを食べるか、家族と仁義なきじゃんけんで決めるわけ。でさ、なぜかいつも最後は俺と弟の一騎打ちになって。俺も弟もゆずれなくて何度も『もう一回』って言うから、勝負が全然つかないんだよ。だんだんアイスは溶けるし、もう何のためにじゃんけんやってるのかも、わからなくなってきて。それでも『もう一回』ってふざけながら笑いながら、じゃんけんし続けた」
 恵吾は泣きながら微笑んでいた。夢見るような目つきでひとつ、大きなため息をつく。
「あの頃は楽しかったな」
「今、思い出したの?」
「うん。でも本当はこの島に来てから何度も思いだしてたんだ。俺には一草って友達がいてね。プラチナベビーズだけど、どんな能力があるのかまだわからないんだ。でも彼が俺の肩を叩くときがあって。励ますようにぽんって叩く時があって、そうすると俺の目の前にはいつもあれが見えるんだ。アイスの入った三つのパフェグラスと一つのコップ。それを見るたびに俺はまた迷ってしまうんだ。俺は、本当は誰かと戦いたいわけじゃない。一人ぼっちの自由が欲しいわけじゃない。……本当はただ、あの頃の、楽しかったあの家に帰り着きたいだけなんだって」
 恵吾は腿の上に肘をつき、顔を伏せた。
「あれ、お兄ちゃんも泣いちゃった?」
 創が手を出して、真尋にしたように恵吾の髪をもさもさ撫でた。
 泣かないで、泣かないで。まるで痛みを緩和する優しい呪文のように何度も唱えながら。
 涙でぼやけた視界に、自分の両足とその前で精一杯つま先立ちしているカエルの長靴を見えると、恵吾はさらに涙がこらえきれなくなってむせび泣いた。

「文月君、さっきまで創君と一緒だった?」
 真尋の声にあわてて袖で涙をぬぐって顔を上げると、創の姿が見えなくなっていた。
「さっきまで隣に座ってたんだけど……」
 ベンチの周りにも姿は見えない。
「やだ、迷子?」
 真尋はまだ少し目のふちを赤くしていた。それでも気丈に通路を歩き始める。声を張って創の名を呼びながら、恵吾も歩き出した。
「文月君、あれ」
 真尋が指さす先を見ると、数メートル先でカエルの傘がエスカレーターを降りていくところだった。
「創君!」
「どこ行くの」
 二人はかけだした。創はまるで逃げるようにたんたん、と足音を響かせて下りていく。二人がエスカレーターの乗り口に着くまでに、すでに下の階まで着いてしまった。
「創君!」
「待って、どうしたの?」
 創は、一階で一度立ち止まった。傘を上げる。幼い顔がのぞいた。
「僕が、青鬼になってあげる」
 恵吾と真尋は言葉を失った。下っていくエスカレーターの途中で釘付けになったように創を見つめる。
「お姉ちゃんは好きな人に会いに行かなくちゃ。お兄ちゃんは弟の命を助けて自由になるんでしょ。だったら僕が、青鬼になってあげる。そしたらみんなが幸せになれるんでしょ」
 ――ああ、彼にはそこまで聞こえていたのだ。
 恵吾はへなへなと崩れかけた。
「だめっ!」
 真尋が声をふりしぼった。
「だめ。そんなことしたら、創君は死んじゃうんだよ。わかってるの?」
 真尋が精一杯怖い声を出している。創は不安そうにうつむいた。
「うん。死んじゃうのは怖いけど。でも、もう僕、病院には戻れないよ。こうやって自分の足で歩けるの楽しいし、お買い物ごっこおもしろかったし。アイスもパンもおいしかったし。もう、前みたいに病院でずうっとベッドの中で暮らすことなんてできないよ。僕はもう……悪い子になっちゃったんだよ」
「創君は悪くない」
 恵吾も懸命に声を絞る。
「お兄ちゃん、僕ね、昨日の一日が今まで生きてきた中で一番楽しかった。ありがとう」
 そして、何か思い出すように中空をじっとながめた。それはまるで見えない黒板の文字を読むようだった。
「……僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」――恵吾が読みきかせた言葉を、創はちゃんと覚えていた。
 創はくるっときびすを返した。出入り口へ向かって走りだす。真尋と恵吾もはじかれたように小さな後ろ姿を追いかけていった。
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