第31話 人道支援 1
文字数 2,988文字
五月十八日 午後二時
血まみれの真尋が類の家へ到着したのは、その日の午後だった。リビングでなんとなくつけっぱなしになっていたテレビ画面が、突然玄関の防犯カメラ画像に切り替わった。リビングにいた一草は画面に目を止めた。
赤いワンピースの少女がカメラを見上げている。あきらかにこちらを意識して、アピールしている目つきだ。目の表情は――懇願。ここを開けてちょうだい。そう訴えていた。
「あれはプラチナベビーズの弥生真尋。助けを求めてるみたいね」
理央が言った。
真尋とは、午前中に電話で話したばかりだった。あの時はずいぶん強気で類の説得をふりきったのに、ほんの数時間のうちに心境の変化が起きたのだろうか。
「類に知らせてくる」
一草は席を立った。
澪は少し前から頭痛を訴えて、寝室にとじこもっていた。類は相変わらず調べもので忙しいらしい。インターネットはつながっていないが、いざという時のために父親が残してくれた資料があるという。外付けハードディスク一台に詰め込まれた莫大な情報から、役に立ちそうなものをひっぱり出しているが、まだまだ時間はかかりそうだった。
類の指示で、真尋は家の中へ迎え入れられた。個性的なショートカットに意志の強そうな目をしていたが、かなり憔悴した様子だった。
「まず、手を洗いたいんだけど」
廊下を歩きながら、暗褐色に染まった両手を見せた。
「それは? ケガをしたのか?」
「恵吾は? 恵吾は一緒だったんだろ?」
「もう一人のプラチナベビーズがいたはずだ。宇都木創、彼はどうした?」
類と一草の矢継ぎ早の質問に、真尋は脱力して大きく息をつくと、うんざりした顔で何か言いかけた――と、その途端に、せきをきったように涙があふれだした。
真尋の心に何が去来したのだろう。身につけた赤いワンピースは、すそのほうに土埃と血痕の茶色いシミがついていた。その胸に、縦長の滴が雨を書きこむように落ちていく。真尋はぬぐいもせず、目を見開いたまま涙をこぼしていた。それはまるで自分が泣いていることに、自分で驚いているようだった。
手を洗い少し落ち着いた真尋は、リビングの椅子に腰掛けてここに至る顛末を話しだした。それは一草にとって残酷な知らせだった。
「恵吾君の遺志に応えないと、私は死ねない。だから恥をしのんで助けてもらいにきた。かっこよく死ぬことなんできなかったよ」
自分をあざけるように笑った。
ぼう然とする一草の前に、焼け焦げて変形した恵吾のタブレットが差しだされた。それは真尋が遺品として持ってきたものだった。それをにぎりしめて一草は声をあげて泣いた。
やがて真尋は類にすがるように言った。
「創君は『青鬼』になろうとしている。お願い。あの子を武装斑に殺させないで。みんなのために自分が犠牲になろうとしている子が、危険な怪物なわけがないじゃない。あの子、本当はみんなと一緒に生きたがっているんだと思う」
真尋は泣きそうな顔で微笑む。
「……私は、創君にまたカエルの傘を買ってあげたい。あの子にまた自販機のアイスクリームを食べさせてあげたい。素直に『生きたい』って言わせてあげたい。たとえ怪物だったとしても、生まれてきた以上生きる権利はあるよね。誰もそれを奪うことはできないよね。類、あんただったら、なんとかしてくれるでしょ。あんた筋金入りの平和主義者でしょ。この戦いを止める方法を教えてよ」
類はテーブルの上に両手の指を組み合わせて額を乗せていた。難しい顔で思案にくれている。
「事態は急変したな。一刻も早く遥馬に連絡をとって創との交戦を止めなければならない。いや、もう遅いかもしれない」
『つまり、そちらの要求は?』
相変わらず、感情のうかがえない氷のような態度だ。それでも組んだ足先が微妙に揺れているのが、画面越しに見えた。遥馬は少し苛立ってるようだった。その背後にいつも立っていた澄人という中学生の姿がない。監視者の内部でなにかあったのだろうか、と一草はいぶかしんだ。
「遥馬、君の要求どおり本土にいる父に連絡して七億六千万円を用意してもらおうと思う。そのためにこの島の周辺に出ている妨害電波を一時的に消して、本土と通話できる状態にしてほしい。それと、父が金策に走るのに二十四時間の猶予をもらいたい。明日の昼過ぎまで創の制圧を待ってくれないか」
遥馬はゆっくり首を振った。
『もう事態は動いてしまった。ミナトタウン駐輪場付近で異常な熱波と水蒸気爆発が観測された。これは創の能力だろう。それ以降、監視者の文月恵吾と連絡がとれない。この爆発に巻き込まれたと考えるのが常道だ。とうとうこの島でプラチナベビーズの能力による死傷者が出てしまった。春待太一に続く二人目だ。もはや一刻の猶予もならない。類、君は理想的な平和主義者だが、そろそろ覚悟を決めてもらう』
「遥馬。応戦すれば、監視者サイドにも今後、恵吾と同じような犠牲者が出る。君は賢いリーダーだ。これ以上部下が犠牲にならないですむ道を選択してくれると僕は信じている」
『俺は安いおだてにはのらない』
遥馬はあざけるように酷薄に笑った。
『そもそも俺は、本当に霜月耕三が七億六千万円を用意できるとも思っていない』
類は初めて表情を厳しくした。
「父は用意する。父は僕に人権を与えるために、このとんでもない実験を実現させた人間だ。一からスポンサーを集め、政府要人を説得し、ここまでこぎつけた人だ。あの人にとって七億六千万なんて僕の命にくらべたら、はした金なんだ。必ずなんとかしてくれる」
遥馬が少し目を見開いた。
『愚かだな。お前の生涯賃金が生活費をさっぴいて七億六千万円を上回るとはとても思えない。そんなつまらない投資をされるお方なのか、お前の父親は』
「お前に何がわかる!」
類は激昂して叫んだ。
『わからない。だから俺達はわかりあえない』
遥馬はあくまで冷静だ。その黒瞳が、すっと細くなった。
『いや、考え直した。いいだろう。創の制圧に猶予をやる。だがこちらからも条件をつけさせてもらう。創が監視者もしくは監視施設に直接攻撃を加えてきた時は、すみやかに応戦する。あとでモニタリングオペレーターに命じて、本土と携帯電話回線、およびインターネットがつながるようにさせよう。ただし余計な情報を流せばこの実験は即終了だ。よく考えろよ。では明日の午後二時、もう一度連絡をくれ』
「遥馬……」
思わず驚きの声をあげた類を、遥馬は突き刺すような視線で嗤った。
『お前が、「お父さん、僕の命とお金どっちが大切なんですか」って絶望して泣き叫ぶところを見たくなった。たまには余興もいいだろう』
そこで通信は切れた。
「類、本当にお金のあてがあるのか?」
パソコンの画面が暗くなるのと同時に、一草は類に問いかけた。
「いや、あれは一時的な時間稼ぎのつもりだったんだ。ごめん、僕も少し頭に血がのぼった」
類がハンカチで額の汗をぬぐいながら申し訳なさそうに言った。
「ま、でも創の制圧を待ってくれるんだから、結果オーライか」
「そうなるね」
「で、これからどうする気なんだ?」
類は大仰にため息をついた。
「立場が一方的すぎる。なにか、こちらに交渉できる材料があればいいんだが」
血まみれの真尋が類の家へ到着したのは、その日の午後だった。リビングでなんとなくつけっぱなしになっていたテレビ画面が、突然玄関の防犯カメラ画像に切り替わった。リビングにいた一草は画面に目を止めた。
赤いワンピースの少女がカメラを見上げている。あきらかにこちらを意識して、アピールしている目つきだ。目の表情は――懇願。ここを開けてちょうだい。そう訴えていた。
「あれはプラチナベビーズの弥生真尋。助けを求めてるみたいね」
理央が言った。
真尋とは、午前中に電話で話したばかりだった。あの時はずいぶん強気で類の説得をふりきったのに、ほんの数時間のうちに心境の変化が起きたのだろうか。
「類に知らせてくる」
一草は席を立った。
澪は少し前から頭痛を訴えて、寝室にとじこもっていた。類は相変わらず調べもので忙しいらしい。インターネットはつながっていないが、いざという時のために父親が残してくれた資料があるという。外付けハードディスク一台に詰め込まれた莫大な情報から、役に立ちそうなものをひっぱり出しているが、まだまだ時間はかかりそうだった。
類の指示で、真尋は家の中へ迎え入れられた。個性的なショートカットに意志の強そうな目をしていたが、かなり憔悴した様子だった。
「まず、手を洗いたいんだけど」
廊下を歩きながら、暗褐色に染まった両手を見せた。
「それは? ケガをしたのか?」
「恵吾は? 恵吾は一緒だったんだろ?」
「もう一人のプラチナベビーズがいたはずだ。宇都木創、彼はどうした?」
類と一草の矢継ぎ早の質問に、真尋は脱力して大きく息をつくと、うんざりした顔で何か言いかけた――と、その途端に、せきをきったように涙があふれだした。
真尋の心に何が去来したのだろう。身につけた赤いワンピースは、すそのほうに土埃と血痕の茶色いシミがついていた。その胸に、縦長の滴が雨を書きこむように落ちていく。真尋はぬぐいもせず、目を見開いたまま涙をこぼしていた。それはまるで自分が泣いていることに、自分で驚いているようだった。
手を洗い少し落ち着いた真尋は、リビングの椅子に腰掛けてここに至る顛末を話しだした。それは一草にとって残酷な知らせだった。
「恵吾君の遺志に応えないと、私は死ねない。だから恥をしのんで助けてもらいにきた。かっこよく死ぬことなんできなかったよ」
自分をあざけるように笑った。
ぼう然とする一草の前に、焼け焦げて変形した恵吾のタブレットが差しだされた。それは真尋が遺品として持ってきたものだった。それをにぎりしめて一草は声をあげて泣いた。
やがて真尋は類にすがるように言った。
「創君は『青鬼』になろうとしている。お願い。あの子を武装斑に殺させないで。みんなのために自分が犠牲になろうとしている子が、危険な怪物なわけがないじゃない。あの子、本当はみんなと一緒に生きたがっているんだと思う」
真尋は泣きそうな顔で微笑む。
「……私は、創君にまたカエルの傘を買ってあげたい。あの子にまた自販機のアイスクリームを食べさせてあげたい。素直に『生きたい』って言わせてあげたい。たとえ怪物だったとしても、生まれてきた以上生きる権利はあるよね。誰もそれを奪うことはできないよね。類、あんただったら、なんとかしてくれるでしょ。あんた筋金入りの平和主義者でしょ。この戦いを止める方法を教えてよ」
類はテーブルの上に両手の指を組み合わせて額を乗せていた。難しい顔で思案にくれている。
「事態は急変したな。一刻も早く遥馬に連絡をとって創との交戦を止めなければならない。いや、もう遅いかもしれない」
『つまり、そちらの要求は?』
相変わらず、感情のうかがえない氷のような態度だ。それでも組んだ足先が微妙に揺れているのが、画面越しに見えた。遥馬は少し苛立ってるようだった。その背後にいつも立っていた澄人という中学生の姿がない。監視者の内部でなにかあったのだろうか、と一草はいぶかしんだ。
「遥馬、君の要求どおり本土にいる父に連絡して七億六千万円を用意してもらおうと思う。そのためにこの島の周辺に出ている妨害電波を一時的に消して、本土と通話できる状態にしてほしい。それと、父が金策に走るのに二十四時間の猶予をもらいたい。明日の昼過ぎまで創の制圧を待ってくれないか」
遥馬はゆっくり首を振った。
『もう事態は動いてしまった。ミナトタウン駐輪場付近で異常な熱波と水蒸気爆発が観測された。これは創の能力だろう。それ以降、監視者の文月恵吾と連絡がとれない。この爆発に巻き込まれたと考えるのが常道だ。とうとうこの島でプラチナベビーズの能力による死傷者が出てしまった。春待太一に続く二人目だ。もはや一刻の猶予もならない。類、君は理想的な平和主義者だが、そろそろ覚悟を決めてもらう』
「遥馬。応戦すれば、監視者サイドにも今後、恵吾と同じような犠牲者が出る。君は賢いリーダーだ。これ以上部下が犠牲にならないですむ道を選択してくれると僕は信じている」
『俺は安いおだてにはのらない』
遥馬はあざけるように酷薄に笑った。
『そもそも俺は、本当に霜月耕三が七億六千万円を用意できるとも思っていない』
類は初めて表情を厳しくした。
「父は用意する。父は僕に人権を与えるために、このとんでもない実験を実現させた人間だ。一からスポンサーを集め、政府要人を説得し、ここまでこぎつけた人だ。あの人にとって七億六千万なんて僕の命にくらべたら、はした金なんだ。必ずなんとかしてくれる」
遥馬が少し目を見開いた。
『愚かだな。お前の生涯賃金が生活費をさっぴいて七億六千万円を上回るとはとても思えない。そんなつまらない投資をされるお方なのか、お前の父親は』
「お前に何がわかる!」
類は激昂して叫んだ。
『わからない。だから俺達はわかりあえない』
遥馬はあくまで冷静だ。その黒瞳が、すっと細くなった。
『いや、考え直した。いいだろう。創の制圧に猶予をやる。だがこちらからも条件をつけさせてもらう。創が監視者もしくは監視施設に直接攻撃を加えてきた時は、すみやかに応戦する。あとでモニタリングオペレーターに命じて、本土と携帯電話回線、およびインターネットがつながるようにさせよう。ただし余計な情報を流せばこの実験は即終了だ。よく考えろよ。では明日の午後二時、もう一度連絡をくれ』
「遥馬……」
思わず驚きの声をあげた類を、遥馬は突き刺すような視線で嗤った。
『お前が、「お父さん、僕の命とお金どっちが大切なんですか」って絶望して泣き叫ぶところを見たくなった。たまには余興もいいだろう』
そこで通信は切れた。
「類、本当にお金のあてがあるのか?」
パソコンの画面が暗くなるのと同時に、一草は類に問いかけた。
「いや、あれは一時的な時間稼ぎのつもりだったんだ。ごめん、僕も少し頭に血がのぼった」
類がハンカチで額の汗をぬぐいながら申し訳なさそうに言った。
「ま、でも創の制圧を待ってくれるんだから、結果オーライか」
「そうなるね」
「で、これからどうする気なんだ?」
類は大仰にため息をついた。
「立場が一方的すぎる。なにか、こちらに交渉できる材料があればいいんだが」