第33話 蠅の王――如月遥馬 1

文字数 4,767文字

 九年前
 小学三年の社会科見学の区内めぐりの日、遥馬はバスの窓際に座り、何の気なしに流れていく街を見ていた。
 幹線道路の脇に開店前のパチンコ屋が見えた。ビルの半分を覆うネオンサインはまだ灯っていない。いつでも開店祝いのように造花の花輪をずらりと立てた店の入り口には、煙草をくわえて灰色にくすんだ男たちが並んでいるのが見えた。
 その列の中に、遥馬はもう長いこと素面では会ったことのない父親の姿をみつけた。無精髭をそのままに片手に缶コーヒーを持ち、くしゃくしゃになった雑誌を脇に挟んでいた。自分の父親が毎日早朝から通っているのは、会社ではなくここだったのだと、遥馬はその日初めて知った。
 母親はパートをかけもちして、いつも金のことで苦労していた。いつしかその母に優しい友人ができて、よく訪ねてくるようになった。いつも真珠の首飾りをしてゆったりしたツーピースを着た、五十代ほどの上品な婦人だった。
 タッパーにつめたおかずを何品も持ってきてくれて、母が仕事で遅い日は姉と遥馬と深夜まで留守番してくれることもあった。遥馬はその人が、本当の祖母だったらいいのに、と何度も思った。心身ともに疲れきっていた母は、その人に話を聞いてもらえるだけでほっとしているように見えた。
「あなたたちのことが心配だわ。どうにかしたいの。このままでは絶対によくないわ」
 その人は何度もそう言って、母親の仕事が休みの日はどこかに連れ出した。遥馬は父親と離婚する準備でもしているのだろう、と考えていた。
 遥馬が中学生になった時、母親が満を持してきりだしてきた話は父との離婚話などではなく、とある宗教団体の施設に行って布教奉仕活動をしたい、という話だった。遥馬と姉の理央は衝撃で言葉を失った。例の女性に時間をかけてすっかり洗脳されていたのだ。まともな話し合いにはならなかった。
「もう二人とも大きくなったから、普段の生活は大丈夫でしょ。私はこの負の運命を変えるために、徳を積んで、お姉ちゃんと遥馬をまっすぐに育てたいの。そのために修行を頑張りたいの。今、動かなければならない時なの」
 親子三人でさんざん言い争って、気がつくと部屋の隅で眠っていた。目を覚ますと、「生活費」と書いた封筒を一つ残して、母親は消えていた。
 ひどく巧妙にやられた、と中学生の遥馬は思った。家賃も光熱費も毎月支払われ、ぎりぎりの生活費も置いていく。一週間に一度ほど顔を見せる。それで世間的に子供を遺棄したことにはならないのだ。生活保護も児童養護施設への保護も認められなかった。遥馬の住んでいた行政区では、例に漏れずそういうものは定員いっぱいになっていて、さしあたって生活できている人間を受け入れる隙間などなかった。
 一度だけ、遥馬は母親が壇上に立つという宗教団体の講演会にもぐりこんだことがある。体験者として自分の半生を語る母親は、今まで見たこともないくらいいきいきとしていた。使命感に満ちた顔で、今まで夫のギャンブル依存症に苦しんできたこと。それでも見捨てなかったこと。二人の子供達を必死で育ててきたことを涙ながらに話した。
「でも、私はただやみくもに頑張っているつもりになっていただけで、大宇宙の真理を理解していなかったのです。私がそれを理解することができたのは、ここにいらっしゃる、先輩導師のおかげなのです!」と、高いところに並んだ真珠の首飾りをした例の女性を仰ぎ見た。
「私はやっと苦しみから解放されました。現実の全ての問題が解決したわけではありません。でも、今は全てを真理にゆだね、安心して修行に邁進することができます」
 会場中から熱烈な拍手がわきおこった。母はまるで悲劇に立ち向かうヒロインになったように、うっとりと喝采に酔いしれていた。こんなやりがいを、非日常感を、極貧の主婦が味わうことなどできないだろう。母親からこの宗教をとりあげたところで、代用となる生きがいを用意することは到底無理だ。遥馬は母親を連れ戻すことをあきらめた。
 二人の姉弟に危機が訪れたのは行政区の赤字対策として「就学児援助の縮小」が行われ、その対象として遥馬たちの援助金がうちきられてしまったときだった。今まで払わずに済んだ学用品費や教材費、修学旅行費の積み立てが二人の生活に重くのしかかってきた。
 ある日遥馬は担任に茶封筒を渡された。先月の教材費の引き落としができなかったという通知だった。しかたなく姉の理央にそれを差し出す。二千三百四十円。理央はそこに書かれた金額を見て、深くため息をついた。一つ年上の姉は、この家の生活費をきりつめ管理していた。遥馬はそれに黙ってしたがってきた。
 中学校への通学路の途中にはコンビニエンスストアがあった。同じ制服を着た連中が寄り道するのを何度も目にした。
「全六種類、ご当地唐揚げ」
「ひんやり本格デザート」
「ドーナツはじめました」
「ほっこり肉まんあんまん」
 歩道に立てられたのぼりには、いつもおそろしく魅力的なコピーがはためいていた。
 ふらりと気まぐれに立ち寄って、そういったものを思いっきり買いこんでみたい、と思っていた。それは遥馬にとって、スーパーの特売や百円ショップで姉の指示のもと、厳しい予算内で食材の買い出しをするのとは全く違うぜいたくだった。十六歳になってアルバイトできるようになったら、自分だってそういう豪遊をしてやるんだ、と遥馬は心に決めていた。
 教材費や学用品費を捻出するため、二人に間食する余裕はなくなっていた。遥馬は給食のおかわりに立つ。もはや給食は彼の生命線だった。
「あのさあ、給食費滞納してる人が一番食べるって、どうなの?」
 ある時、背中から投げつけられた言葉だ。遥馬はかたまった。手にはクリームシチューをすくうレードルを持っていた。ついさっきまで肉片を探して容器をかき混ぜていたところだ。
 遥馬の手は震えた。
(どうしてだろう。どうしてこの世界はこんなに不公平なんだろう)
 自分が何をしたというのだろう。ただ残って、捨てられてしまうだけの残飯をお腹いっぱい詰めこんだところで、それをひどく卑しいことのようにとがめられなくてはいけないのか。
(俺たちは生きてちゃいけないのか)
 からん。レードルをシチューの入った大きな容器に落とした。手に持っていたアルミの容器が床に落ちる騒がしい音がした。
 誰かが自分の名前を呼んだ気がした。でもその時はどうでもよくなっていた。
 あの時、何かが切れてしまったのだ。今までじっと我慢して運命を受け入れていた遥馬の中で、とうとう何かが決壊を起こしてしまった。
 遥馬は、そのまま教室を出た。ポケットには朝、理央が持たせてくれた教材費の茶封筒があった。封をとめていたセロハンテープをはずす。学校の門を出て一番近くのコンビニエンスストアに入った。
 黄色いカゴをとる。遥馬は我知らず微笑んでいた。ポテトチップ、スナック、チョコレート。安い駄菓子ではなく、箱に入った新製品を買う。美味しいと話題になっていた高級アイス。ケーキ。シュークリーム。欲しかったものをどんどんカゴの中に入れていく。
 腹が減ってるんだ。食わせろ。食わせろ。
 レジ横のホットスナックのケースに入ったやたら色づきのいい唐揚げ、アメリカンドッグ、コロッケ。
 店から出るのもそうそうに、袋を破き、歩きながら食べはじめた。すれ違う人が嫌な顔をしても平気だった。遥馬は食べながら大声で笑った。俺は満たされてる。こんな簡単なことで、満たされている。
 嗤った。姉の理央が必死で捻出した教材費は一瞬で消えてしまう。ざまあみろ。努力なんて。忍耐なんて。快楽の前に何の価値があるんだ。俺は腹が減ったんだ。減ったんだよ! 誰にも責められずに、食べたいものが食いたかったんだよ! ずっと。
 腹がはちきれそうになっても、食べることをやめられなかった。
 満たすんだ。自分を満たすんだ。もう充分我慢した。一瞬だけでもいい。幸せにしてやるんだ。
 ひたすら歩いて、たどり着いたところは自宅のアパートだった。みすぼらしい波形トタンのさび付いた屋根と傷みの進んだ外付け階段を見たとたん、うすっぺらな胴体の奥でごぽっと下水バルブのような音がした。遥馬はそこで立ち止まり、まるでポンプで組み上げたように全て嘔吐してしまった。吐瀉物の飛沫で汚れた自分のスニーカーを見ながら、鼻水とよだれを垂らし、なんども苦しくえづき続けた。
 必死で捻出した教材費のなれの果てが、足下で酸っぱい悪臭を放っている。遥馬は笑った。笑いながら泣いていた。

「どうして教材費払わなかったの。今、そのお金持ってる?」
 学校から帰ってきた理央に問い詰められた。学校で何か言われたのだろう。
 理央は母親似のおっとりした顔立ちだった。とび色の瞳が印象的だ。弟の遥馬の目から見ても、そこそこ美人だと思っていた。茶色の髪は背中の中程までのロングにしていた。美容室で手入れをする金は無く、ロングなら遥馬が切り揃えてやることができたからだった。
 遥馬は畳に寝転がって、駅で拾った漫画雑誌を読んでいた。畳はもうところどころすり切れていた。い草の間からのぞく茶色の芯材は、木の線維を圧縮したもので、ぺりぺりと薄く剥がすことができた。遥馬は勉強や読書の合間に、これをポテトチップの欠片のようにぺろりと薄く剥がして、口に入れてくちゃくちゃ噛んでいた。口の中で何か噛んでいれば、空腹をごまかせた。
 遥馬は理央の詰問にわざと面倒臭そうに答えた。
「教材費なんかもう必要ねえんだよ。俺はもう学校に行かないんだから」
「遥馬、あのね……」
「もういい」
 遥馬の成績は良かった。学年順位で一桁台から落ちたことはない。勉強は唯一、遥馬がクラスメイトを見返せるものだったし、実際のところ勉学から気を散らすような遊びさえ彼らにはなかったのだ。
『あんたには頑張ってほしいの』
 理央は今までまるで母親の名代にでもなったかように、遥馬に言い聞かせてきた。
「学校に行かなくったって、偉くなった人間はいっぱいいるだろ」
 強がりだ。自分たちの生きている国がまだまだ学歴社会なのは遥馬もわかっているつもりだった。ただこうして、何もわかっていない世間知らずのフリをしてあきらめて見せる以外に、さまになりそうなポーズを思いつかないのだ。
「勉強なんて、頑張っても頑張らなくても一緒なんだよ。母さんは正気に戻らない。この状況は変わらない。あとは、俺たちが年をごまかしてどっかで働くしかないんだよ」
 他人の保険証の写しを買えることは、すでに遥馬が学校の図書室のパソコンを使って調べていた。あとは実行する金ときっかけだけだ。
 弟に言い負かされた理央は、いきどおって頬を赤くした。
「うっさいな。私はこの状況に負けたくない。今だけ、そう今だけだよ、遥馬。これを乗り越えたら、なんとかなるかもしれないじゃない。遥馬はちゃんと学校に行きなさい。教材費、どうしたのかまだきいてないわよ」
「食ったんだよ」
「はあ?」
 遥馬は雑誌を床に投げつけた。
「腹減るんだよ! 夕食にカップラーメン一個や、百円ショップのレトルト一袋じゃ、俺は足りないんだよ! タマネギとツナ缶一個炒めただけだって無理なんだよ。数時間で腹減るんだよ。 こんな俺は情けないか? 卑しいか? 勝手に言ってればいいだろ」
 怒ると余計に腹が減った気がした。
 姉の理央は言葉もなく台所と和室の境目に立ちちつくしていた。その悲しい顔を見ると、遥馬は余計にやりきれなくなった。
 もう限界だ。この後のことなんて、どうなってもいいじゃないか。
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