第23話 孤独な兄――文月 恵吾 2

文字数 4,519文字

「なんだか僕、今日すごく気分がいいよ。きっともっと歩けると思う」
 創は無邪気に言う。普段投与されている薬の効き目がきれてきているのは確実だ。
「お兄ちゃん、もうおんぶしなくていいよ」
 道路を歩きはじめた創は楽しそうで、恵吾が驚くほど饒舌だった。
「いつもさ、頭が痛くって体全体に重たいものを乗せてるみたいだったんだ。今日はなんでかな。頭も痛くなくなってきたし、羽が生えたみたいに体が軽いんだ。今なら歩くどころか僕、走れそうだ。きっと勉強したらすごくはかどるだろうし。すごいぞ。なんでもできそうだ」
 創はのびのびと腕をふりまわして、歩道を跳ねた。交通標識や信号の支柱につかまって、くるくるまわる。
 じゅっ。創がたわむれに触ったガードレールの塗装が、音をたてて溶けた。恵吾はそれをみて愕然とした。
「創君。今、君、何をした?」
「何? これのこと?」
 恵吾の前を、ぴょんぴょんと片足で跳んでいる。
「いや、そうじゃなくて。手のほう」
 創はやっと立ち止まった。
 自分の手の平をまじまじと見る。右手に灰色のかたまりがあった。溶けたキャラメルみたいににちゃにちゃとしたものを、創はあわてて丸めて地面に捨てた。アスファルトに落ちたキスチョコのような形のものは、一瞬めらっと炎をあげ、白い煙を残して冷えて固まった。
「何これ?」
 たずねたのは創のほうだ。
「創君、今能力使っちゃった?」
「能力?」
 恵吾は絶望的な気持ちで空をあおいだ。告げねばならぬ時がもう来てしまった。
「創君、君はね、物を熱くしたり、火をつけたりできるみたいなんだ」
 創は、じっと汚れた右手をながめている。
「それって、お兄ちゃんもできるの?」
 恵吾は創に追いついて、顔をのぞき込むようにかがんだ。
「君だけだよ。君は特別なんだ。あのね、それは神様が創君だけにくれた、才能とか個性みたいなものなんだ。だから、お兄ちゃんにはその力の使い方がわからない。でも、創君はきっとうまく使いこなせるはずだ。みんなの役に立つように」
「みんなの役に立つように?」
「そう。それがとっても大事なんだ。そうすれば創君はみんなに、大事にされて生きていけるから」
 創は困った顔になってうつむいた。
「急にそんなこと言われても。僕、どうしたらいいのかわかんないよ」
「そうだね。一緒にゆっくり考えていこう」
 恵吾は笑いかけた。創が少し安心した様子で微笑み返してくるのを見ると、やはり側にいるのが自分でよかったのだと、少し嬉しくなった。
 そうだ。やっぱりこうあるべきなんだと恵吾は思った。人と触れて、話をして、自分の生き方を考える。それが創には必要だったのだ。犠牲を出すことばかり恐れて、半分眠らせたまま、思考を止めたまま成長させるなんてそのほうがずっと危険だ。
「とにかく、早く監視施設に行こう。お店に寄ってちゃんとした靴を手に入れてね」
 創はさっきよりも少し落ち着きを取り戻して静かにうなずいた。
 二人は寄り添うように、大型ショッピングセンターへ向かって歩いて行った。誰もいないミナトタウンは想像以上に不気味だった。電飾も空調もいつもどおりに働きながら、人影だけが消えていた。雑踏のない館内に軽快な店内放送の音楽がやたら大きく響く。
「二階歳事コーナーでは、到来する梅雨を楽しく演出するアイデア商品を取りそろえております」
「三階の衣料フロアでは、輝く季節を先取りして夏物をご奉仕価格でご用意しております」
 BGMに乗せて独特の口調で女性のアナウンスが繰り返される。
「すごおい。透明人間の街みたいだね」
 創は、きょろきょろしてあちこちの売り場を飛び歩いた。
 病院を出て、何もかも初めてのことばかりだろう。本当は思う存分遊ばせてやりたい。それは情緒的にも創の成長に欠かせないもののはずだ。しかし、寄り道しているうちに、彼が完全に覚醒し、その能力はまた暴走を始めるかもしれないのだ。迷いながら、恵吾は監視者としての勤めをとった。
「創君、三階だ。靴を探したらすぐに行こうね。寄り道はできないから」
 気持ちを引き締めるようにすこし厳しく言った。が――
「僕、こういうところ、テレビでしか見たことないんだ」
 創はマイペースに雨傘とレインコートが並べられている二階の催事場のあたりで、一つ一つに手を触れている。カエルの目玉が飛び出すかたちでついた傘が気に入ってしまったようで、それを片手でさしたまま手放さない。
「創君、それ売り物だから戻して」
「ううん。閉じ方がわかんないんだ」
 仕方なく閉じてやった。未練ありげに創が恵吾の制服の裾を引く。
「その傘、いつか僕にも買えるのかな」
「え?」
「僕もいつか、病院から出て、自由になってお買い物とかできるのかな」
 恵吾は返す言葉を失って、創を見る。
「僕、いつか雨の中を傘さして歩いたりするのかな」
 恵吾は閉じた傘を見た。ハンドルに巻き付けられたセロファンに千九百八十円と値札がついている。
「ううん。なんでもないよ。言ってみただけ」
 創が恵吾を気遣うように笑うのを見ると、恵吾は傘を売り場に戻せなくなっていた。ひろげると傘布の部分が大きなカエルの顔になる傘だ。これが十歳の子供の欲しがるものだろうか。創の好みはひどく幼い。まだ幼児くらいの狭い世界だけで生きてきたのだ。
「これ、買ってあげるよ」
 言ってしまっていた。
(ああ、自分は甘い。監視者なんて本当に向いてない)
 自分に愛想をつかしそうになりながら、創に緑色の傘を手渡していた。
「いいの?」
 ぱあっと創の目が輝いた。今日も翡翠色が薄茶色に溶け込む綺麗な虹彩をしていた。
「うん。今はお店の人がいないから、タブレットで決済はできないかな。あとでお兄ちゃんがちゃんと払っておくから」
「ありがとう。今、さしていい?」
「本当は屋内はダメだけど、今は誰もいないからいいよ」
 恵吾は笑いながら言った。そして、催事場の一角に目をとめる。
「靴もおそろいにしちゃおうか」
 床の上に並べられた色とりどりの長靴の中で、つま先にカエルの顔がついた長靴を指さすと創は満面の笑みでうなずいた。病院の白いスリッパは、アスファルトを歩いてすでに底がすりきれかかっていた。試着用らしい近くのスツールに座らせ、スリッパを脱がせた。同じ長靴の入った箱をいくつか開け、足に合うサイズを探してやった。
「ほら」
 サイズはぴったり、とはいかずに少し大きそうだったが、創は嬉しそうに長靴に傘をさして歩き出した。売り場の間を歩きながら、何かでたらめに歌っている。
「さあ、靴も手に入れたし、監視施設へ急ごうね」
「お兄ちゃん、あれ、何?」
 創が、今度は売り場から通路をはさんで向こう側の休憩所にあるアイスクリームの自動販売機を指さす。やれやれ、と恵吾はため息をついた。
「創君、お腹すいてるの?」
「喉、渇いちゃった」
 寄り道はしない、とさっき言ったはずだ。しかし、先ほどから緊張の連続で恵吾の喉もカラカラだった。
「これで最後だよ。もう寄り道しないからね」
 自販機はタブレットの自動決済に対応していた。恵吾が自分用にソーダ味を買うと、創も同じ物を欲しがった。
 休憩所の中心には、ガジュマルを模した南国風の人工観葉植物が置かれていた。その前の椅子に二人で腰掛けて食べた。買い物に来た兄弟の日常みたいだ、と恵吾は思った。
「僕、楽しい」
 口の周りを汚して創が言う。恵吾はその口元をティッシュでふいてやりながら、子育ての大変さが少しだけわかったような気がしていた。
「もうずうっと、このままがいいな」
 プラスチックのアイスの棒を持って創が口走る。
「創君」
「お兄ちゃんが、ずっと僕のお兄ちゃんならいいのにね」
 恵吾は急に胸が詰まるように感じた。
(俺は――俺は、章吾という本物の弟のためにいつか君と敵対しなくてはならないんだ)
 それをどこかでごまかしている罪悪感が、少しずつ恵吾をむしばんでいく。こんなふうに中途半端に創を甘やかしているのも、そんなうしろめたい気持ちを忘れたいから。全て自分の意志が弱いせいなのだろう。
 カラカラ。
 恵吾は物音に耳をすました。タイヤのまわる音がしていた。買い物カートにしてはうるさい気がする。ここへ来て、初めて自分たち以外の人間の存在を感じた。恵吾は創には何も告げずに、コの字型にへこんだ休憩所の角に立って広い通路のほうをうかがった。
 一般市民の避難は済んでいるはずだ。島に残っているのは監視者とプラチナベビーズだけだと考えるのが妥当だ。戦闘や制圧が始まったという報告は入っていない。
 音のする先には女がいた。顔は見えなかったが、背格好からまだ少女だろう。清掃員のようなブルーのつなぎを着ているが縦も横もサイズが大きすぎるようだ。とくに警戒する様子もなく、食料品売り場のほうから歩いてくる。カラカラ鳴っているのは、彼女がひいているカートの音だ。緑色のビニールカバーを張った清掃用のカートをひいている。
「誰?」
 先に気づいたのは彼女のほうだった。腰をおとして身構える少女に、恵吾は戦闘の意志はないと両手をあげて見せた。
「南高校二年の文月恵吾です。あなたも監視者ですか?」
「わかった」
 彼女はそう答えただけで自分からは名乗らなかった。前髪を短く切りそろえ、後ろはボーイッシュなほど短いベリーショートだ。個性的な髪型だったが、目が大きくてはっきりした顔立ちの少女にはよく似合ってコケティッシュな雰囲気を作っていた。
 恵吾は彼女の顔に見覚えがあった。
「じゃ、そこにいるのは?」
 彼女の視線が奧に腰掛けている創に移る。
「彼は、PBの宇都木創君です」
「うつきはじめ……」
 繰り返した少女の顔色がさっと変わった。
「こんなところで何してんの。さっさと病院に戻さなきゃ危険でしょ」
 恵吾は言いよどんだ。
「いや、病院が……病院の監視担当者が亡くなって……」
 相手の素性がはっきりしない状況で、どこまで説明すればいいのか途方にくれていると、少女のほうから近づいてきた。
「まさか、その子が殺したの?」
 ぺちゃっ、と濡れた音がした。創がアイスを落としたところだった。
「……僕?」
「この子、あの女医を殺しちゃったの?」
「……文香先生のこと?」
 恵吾はあわてて顔の前で両手をぶんぶん振った。
「待った待った。何か誤解だ。ちょっとお互いの情報を整理しよう。ところであなたの所属は? 今、何してるんですか?」
「君、監視者なんでしょ。私の顔見たらわかるんじゃないの?」
 挑戦的な言葉とともに少女はずんずん近づいてきた。
「弥生真尋」
 恵吾は叫んだ。やっと記憶と現実がマッチした。彼女は研究棟に囚われの身のはずだ。だから、一草を担当してきた恵吾は今まで監視対象としてあまり意識してこなかったのだ。
「残念だけど正解です」
「残念?」
「君は人質決定」
 真尋がつなぎのポケットから出した物は、黒光りする自動拳銃だった。
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