第29話 孤独な兄――文月 恵吾 8

文字数 4,077文字

 創をつかまえたのは、出入り口の自動ドアを出て右手にある駐輪場の前だった。長靴を履いてまだ走り慣れていない創は、思ったより簡単につかまった。
 十台ほどの自転車がが白線の囲いの中に整然と並んでいた。白線の外にランタンを模した街灯が等間隔で並び、桜草を植えたごく低い植え込みが細長く続いて公道との境を作っていた。
 恵吾が腕をつかむと、創は初めて抵抗した。後から追いついた真尋がその肩をつかんで、荒い息を吐きながら揺さぶった。
「ダメよ。君は、正義の味方のほうになるの。私と戦うのよ」
「僕は……」
「君は――君はね、もうすでに人を殺してるの。だからそんなことしたら、すぐに君が殺されちゃうの」
「真尋さん!」
 創は突然抵抗をやめた。脅えた瞳で真尋の目を見つめ返す。
「僕……もう人を殺してるの?」
「誤解だよ。創君、違うからね」
 恵吾は必死で否定した。
「文香先生のこと?」
 真尋は創に真剣な顔をして向き合っていた。
「違うわよ。君はね、生まれた時に事故を起こしてるの。君のお母さんと、産婦人科の先生と、あと助産師さんを巻き込んでるの。悪気がなくても君の能力は、とんでもなく危険なの。自分が世間にどう思われてるのか、ちゃんと自覚して」
 現実を見ろ、と真尋は言いたいのだろう。それでもその宣告は恵吾には最悪のタイミングに思えた。
「……僕のお母さん、僕のせいで死んじゃったの?」
 真尋は大きくうなずいた。
「だから、その罪をすすがなくちゃいけない。君が生きていくために。みんなのために戦っているところを見せなくちゃいけない。君に悪気がないってことを信じてもらわなくちゃいけない」
 ひざまずいた真尋にがくがく揺さぶられる創の顔から、少しずつ表情が消えていった。人が絶望するときは、こんなふうに何も感情が枯れてなくなってしまうのかもしれない、と恵吾は胸をえぐられるような痛みとともに思った。
「……お兄ちゃんも、それを知ってたの?」
 空洞のような目が、責めるでもなくただ真尋の背中越しに恵吾の姿を映している。森の奥の湖水のような虹彩は、気味が悪いほど静まりかえっていた。
「……君のせいじゃないんだ。不幸な事故だ。誰も、生まれてくる境遇を選ぶことはできないんだ。君はたまたま重いものを背負わされただけ。君の罪じゃない」
 恵吾は苦渋とともに絞り出した。
「なあんだ」
 創は無表情に言った。
「なあんだ。僕ははじめっから、悪い子だったんだね。じゃあ、悪者を演じる必要なんてないんだ」
「創君!」
 熱の塊をぶつけられたような圧迫感に一瞬たじろいた。周囲の温度が上がっている。間に合わせではいていたガーデン用のサンダルの底が解けて、駐輪場のコンクリートにねちゃっと変な音を立てた。
「創君は、悪い子じゃないよ。君はそのままでいいんだ」
 真尋のスカートの裾も、風もないのにひらひらと舞い上がっていた。顔が赤い。彼女も熱いのだろう。
「そのままでいいわけない。創君はみんなの役に立つ人間にならなくちゃ」
「真尋さん!」
 真尋は創の肩をつかんだまま、恵吾を振り返った。
「そうでしょ。人は社会の中で自分の有益性を示さなくちゃ生きていけない。文月君だって、そのために自分を殺して頑張ってきたんでしょ。弟のために、家族のために、役に立つ良いお兄さんでなきゃ、生きて行けなかったんでしょ。みんな、そうなんだよ。周囲に自分を認めてもらうために歯を食いしばって頑張ってるんだよ。それが人として生きていくってことじゃないか。創君、君も人間になるんだ」
「僕は――」
 めらり、とカエルの傘の布が溶けて蒸発した。
「あっつ」
 とうとう真尋が創の肩から手を離した。
「僕は、サソリ座の赤いお星様になる。いつまでも燃え続けるお星様になる」
 骨だけの傘をさして、創は祈るようにおごそかに言った。
 音を立てて駐輪場にある街灯のガラスが割れた。背の低い植え込みに建てられた小さな木の柵の一つが炎を上げた。ぱちぱちと音がして、ペンキの焦げる嫌な匂いを放つ。
 見れば公道のアスファルトは所々、濡れたように溶けてひびわれていた。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたらいちばん幸(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくを許してくださると思う」
 創が空を見上げて詠唱した。まるでその言葉にすがるように。
「ばいばい、お兄ちゃん。僕もじゃんけんパフェやりたかったな」
 今にも泣きそうな笑顔を残して、創はくるりと向きを変え道を渡った。ミナトタウン前の二車線の道路には一台の車も見えない。創が通ると、赤信号の丸いカバーがバチっと音をたてて割れ落ちた。
 骨だけの傘を持った少年が、角を曲がって姿を消す。彼の周りは、陽炎のようにめらめらと空気が揺らいでいた。とっさに追いかけようとした真尋の後ろで、自転車の列が大きな音をたてて崩れた。塩化ビニールのサドルが焼け落ち、ゴムの部品が異臭を放つ。
 ぱん、と空気を裂く破裂音とともに、ギアの歯車とシャフトの部分の針金が飛び、チェーンが蛇のようにアスファルトを這って飛び出してきた。電動機付き自転車の充電用リチウム電池が爆発したのだ。
 ぱん、ぱん。
 拳銃の音のように続く。
「真尋さん!」
 恵吾が叫び声をあげて、細い体を抱きしめた。駐輪場の側に背中を向けて爆発と熱線から真尋をかばった。
 恵吾の肩や背中を、小さな部品が鋭く叩いた。真尋が腕の中で身をよじってもがく。
「はなして! 創君が……」
「あなたは、死んじゃダメだ」
 次の瞬間、もこり、と足下が持ち上げられる気味の悪い感覚が襲った。
 どおん、と地面を揺るがす大爆発とともに駐輪場の下にあった四角い鉄の蓋が吹き飛んだ。地下にあった雨水の貯水槽から真っ白な水蒸気が吹き上がる。恵吾はごうごうと蒸気の吹き上がる音と、舞い上がった自転車の影が地面に映るのを、必死で真尋をかばいながらみつめていた。
 がしゃん。どしゃ。
 一瞬のちに、空から自転車と熱湯が降ってきた。ねじ曲がったホイールとちぎれた破片が二人の周辺に飛び散る。まるでシュールレアリズムの絵のような惨劇を、白い蒸気が覆っていた。
 恵吾は鼻と口の粘膜を熱い水蒸気に灼かれながら、なんとか細く息を吸った。
 血の匂いがした。
「が、はっ」
 あまりの痛みに声が出ない。腹から胸まで激痛に貫かれて身動きもできずに痙攣していた。
「文月君!!」
 真尋の悲痛な声がする。
 反射的に傷に手をあてようとすると体の前で何かがつかえた。おそるおそる下を見ると、恵吾のTシャツを破って自転車のハンドルが突き出ていた。服が血を吸ってみるみる重くなっていく。同時に足の力は抜けていった。
 真尋が狂ったような悲鳴を上げた。唐突に視界が反転した。恵吾の体は熱いコンクリートの上に横倒しに倒れていた。
「まひろ、さん」
 痛い。
 熱い。
 いや、それよりも、恵吾には伝えなければいけないことがあった。
 本当の望みを。あきらめかけて心の奥にしまっていた、本当の希望を。
(俺たちは、手を取りあえるはずだ)
 恵吾はがくがく震える手を真尋にさしだした。真尋は命綱でもあるかのように必死でその手を握った。
「待ってて、監視施設から救援を呼んであげる」
 あわててもう片方の手でワンピースのポケットをさぐる。
 恵吾は真尋の手を、自分の腹に開いた穴にぎゅっと押しつけた。苦しげに顔をゆがめながら、歯を食いしばって手を内部に進めようとする。
「何してるの! 傷が広がるでしょ」
 思わず手を引っ込めようとする真尋の手首を、恐ろしいほどの執念で握りしめていた。
「早く……触って……‥ください。肺も……心臓も」
 自分が生きているうちに。生体のうちに。赤い泡を吐きながら、恵吾が訴える。
 今こそ、真尋に作ってもらうのだ。自分の生体から、健康な肺を。他の臓器を。今世界中で苦しんでいるたくさんの章吾と、そして恵吾を救うために。
「……作って……ください。……あなたは、この世界を、変える人だ」
「文月君!」
 恵吾の荒い息が細くなり、目の焦点が合わなくなる。意識が遠のきかけている。
 がくん、と首がのけぞった。出血性のショックで激しい痙攣を起こし、体がいうことをきかない。それでも――大きく見張った恵吾の瞳は訴える。想像を絶する激痛と、その先にある想いを。
(真尋さん、作ってくれますよね。けっしてあきらめませんよね。俺たちは協力しあえますよね。共通の敵なんていなくても、ちゃんと手をとりあえますよね。あなたはたくさんの人を救える人だ。希望を作る人だ。その手を俺に――そして未来の患者たちに、さしのべてください)
 真尋は震えて泣いていた。

 赤いワンピースの少女は、死後硬直の始まった死体をみつめていた。
 恵吾の上半身には自転車のハンドルが背中から貫通している。突き出したゴムのグリップとギアレバーには赤い肉片がこびりついていた。
 真尋は自分の両手をながめた。さっきまで真っ赤に染まっていたはずなのに、今はもう黒っぽい茶色に乾き、ごわごわしていた。
 創の姿はとうに見失ってしまった。自転車の残骸が飛び散った駐輪場に、たった一人茫然と立ちつくす。ポケットのタブレットが鳴った。あのラブソングだ。女性の声が「別れたくない」と叫ぶ。かけてきたのは類だろうか。
 着信音を無視して、真尋は力なくつぶやいた。
「ごめんね。太一。類。私、計画遂行できない」
 そしてぎゅっと両手を拳にした。
「私……もう死ねなくなっちゃったよ」
 何が正しいのか。どうすればいいのかなんて、もうわからない。それでも一つだけ、間違えようのない目的が生まれていた。
 少女は決意をこめて虚空をにらむ。
(作るんだ。いつか必ず)
「生体複製」と名付けられたこの能力で。赤い血の通った、グロテスクで切実な――悲願という名の希望を。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み