第15話 能力未知――葉月 一草 1

文字数 5,287文字

 五月十七日 午後零時四十五分
 南高校の食堂は今まさに昼休みに入ったばかり。あとこちで空席の争奪戦がくり広げられていた。
 葉月一草(はづき いっそう)は、食堂の空いていたテーブルに、手に持っていた教科書を投げた。
 二人がけのテーブルに、ばさっ、と音楽の教科書と楽譜のファイルが広がる。いましもその席を取ろうとしていた女子生徒の二人連れが、きっ、と一草をにらみつけた。
「悪いね」
 悪びれずに言って、一草はさっと近寄って椅子を引いた。
「お前、またそういう強引な……」
 ひきあげていく女生徒たちに申し訳なさそうな視線を送り、拝むように片手をあげて謝ったのは親友の文月恵吾(ふみづき けいご)だ。思慮深そうな目に少し困ったような下がり眉が、穏和な性格を思わせる。
「大丈夫。あの子たちだって、大して怒ってないって」
「俺がフォローしたからだろ」
「周りを気にしすぎなんだよ、恵吾は」
 笑いながら上着を脱いだ。ここは熱気に満ちている。
 一草はズボンのポケットから二枚の食券を取り出した。
「ほら、見ろよ」
「お、幻の中華丼」
 実際には「幻の」というほど幻でもない。仕入れの都合なのか、人員的な問題なのかはわからないが、この食堂の中華丼は毎月第二火曜日にしかありつけない。それを「幻の中華丼」とありがたがって、生徒たちは限りある食券を奪い合う。
「朝一で買っておきました」
 得意そうに言う一草に、すげえな、と恵吾は目を細めた。
 二人が中華丼の乗ったトレイを置くと、それでもう二人がけのテーブルはいっぱいになった。邪魔になった教科書を椅子の背もたれと背中の間にはさむ。
 一草はレンゲでご飯をすくった。湯気のあがるあんが小海老とサヤエンドウを内包して、とろりと光っている。成長期の食欲がしばらく二人を沈黙にさせた。
 はふ、はふ、と口の中から熱を逃がす息を吐きながら、一草は前のめりになって食事に集中していた。どんぶりを持ち上げて最後のひとすくいを喉に通すと、氷水の入ったコップを一気に氷だけにした。
 ふう、と一息ついて椅子の背にもたれた。正面にいる恵吾と目が合う。恵吾はどんぶりを持ったまま、良い姿勢で一草を見ていた。
(こいつ時々、俺のことをじっと見てるんだよな)
 一草の前にある黄色のトレーには、空になったメラミン樹脂のどんぶりと氷の残ったコップ、そして購買で買ったデニッシュパンが乗っている。一草はデニッシュに手をのばした。小豆の練りこんである甘いパンだ。こちらはデザートよろしくゆっくり味わう。
 やがて恵吾も食べ終えて、紙パックのミルクティにストローを差して飲み始めた。
「そういえばさー。昨日の夕方、発砲事件があったって噂、知ってる?」
「発砲事件?」
 恵吾が急に表情を険しくした。
「ほら、島の西南の方に三つつながったビルがあるじゃん。あそこの渡り廊下、うーんと三階だから空中廊下って言うんだっけ? あそこから銃声がしたっていう話で。しかもその空中廊下、昨日の夜から天井が壊れてるらしいんだよ」
「俺はそんな話、聞いてないけど」
「それがかえって不思議じゃね、って。なんでニュースとかになんねぇのかな?」
「それ、本当か? 誰の話だよ」
「いや、なんか女子が騒いでて。うちの三年生にガタイよくて、すげーモテる先輩いただろ。あの人が昨日の夜、大怪我して本土の病院に入院したっていうのと、なんか関係があるのかなって」
 恵吾はけげんそうに目を細めた。
「それって……春待さんのことか? 春待太一さん」
 今度は一草がいぶかしむ番だった。
「春待さんって……お前、知り合いなの?」
 ぴくりと恵吾の眉が動く。
「いや……たまたま名前知ってるだけだよ。あの人が入院したのは知ってるけど、なんで発砲事件を結びつけるのかなって……」
 一草はしばらく黙った。
「何だよ?」
 ききかえす恵吾は、少し焦っているように見えた。
 一草はふっと笑った。
「いや、恵吾はいろいろ考えるんだなって思って。いつもいろいろ抱えこんでて苦労性だよな。そういえば、弟君、難しい病気なんだったよな。そういう環境で育つと、いろんなことを深く考えるようになるんだな。俺は一人っ子だから、そういうのわかんないんだ」
 一草は立ち上がって、通り過ぎざまに恵吾の肩をぽんぽんと叩いた。俺も飲み物買ってくる、と言い残して自動販売機のほうへ歩きだした。
 数歩歩いてふりかえると、恵吾は何かをじっと見ていた。何もない空間を、恵吾は時々とりつかれたように見ていることがある。自分が体のどこかに触れたあとにそうしていることが多い。恵吾だけではない。自分が触れた人間は、ほんの少しの間だが、ぼうっとして考えこむことが多いのだ。
 一草は自分の手のひらを眺めてみる。なんのへんてつもない、しわの多い手のひらだ。
「五限、現国? 漢字テストだっけ?」
「やっべ。なんもしてね」
「ごちそうさんでーす」
 一草と恵吾は昼食のトレーを返却口に置いた。二人が食堂の出口に向かって歩き始めた時、突然食堂のあちこちで電子音が鳴り、視界にいる全ての生徒達の動きが止まった。その場にいる生徒全員のタブレットが同時にアラートを鳴らしたのだった。
 周囲に動揺が走るより速く、恵吾は自分のタブレットをとりだしていた。
「避難勧告だ。津波警報だって」
「え? 今かよ?」
 一草もあわてて、脱いでわきに抱えていたブレザーのポケットを探る。
「いや、ハーバーガーデンへの到達予想時刻は十四時前後らしい。北マリアナ諸島沖でマグニチュード7を超える地震があったって」
「まじか」
 周囲がざわざわし始める。見えないとわかっていながら、みな海岸が近い南側の窓をきょろきょろとみつめていた。
 食堂のドアが開き、男性教師が息をきらしながら入ってきた。一度大きくせきこんでから、声をはりあげる。
「みんな、あわてなくていい。このあとクラス単位で避難が始まるから、一度教室に戻れ」
 昼休みも終盤で食事の済んでいる生徒がほとんどだった。生徒たちは緊張の面持ちで、それぞれ自分の教室に移動を始めた。
 教師は唾を飛ばして話し続ける。
「これから各クラス、担任の指示で本土へ避難する。本土の避難場所に全員で移動してから保護者への引き渡しを行う。すでに学校のメール連絡に登録してある保護者に一斉連絡が入ってるから、心配するな」
 生徒達の保護者は本土に通勤している人間がほとんどだから、そのほうが引き渡しに便利なのだろう。
 一草と恵吾も移動をはじめた生徒の列に入った。食堂から吹きさらしの渡り廊下をへて、校舎に入ったところで一草は恵吾から離れた。
「一草?」
「俺、やっぱ便所に寄ってく。先行って先生に言っといて」
「わかった」
 二人はそこで別れた。

 恵吾は少し進んでふりかえった。自分と別れた一草が一階の男子トイレに入るのを見た。一草の背中が見えなくなると、生徒がひしめく廊下から誰もいない資料室にさっと身を隠し、タブレットを叩いて監視者の専用回線につないだ。
「文月です」
「文月恵吾か」
 聞き慣れない声だった。いつもやりとりしている班長や管理官の声ではなかった。一瞬、電話をかける相手を間違えたかと動揺する。
「すみません……ヒューミント班の本部では? あの、班長を。もしくは浅井管理官を」
「俺は学徒隊特殊武装班班長、如月遥馬だ。オペレーターにヒューミント班本部からこっちにつながせている」
「如月班長? ……あ、春待班長の代理ということですね」
 恵吾の頭に、いつも太一の横にいた細身の男子高校生の姿が浮かんだ。少し長めの前髪から透かす眼は、自分によく似ていると思った。この世の中にはどんなに努力や誠意を尽くしてもいかんともしがたいことがある、ということを十代ですでに知っている目だった。
「俺が暫定的に班長に任命された」
「あの、ヒューミント班の職員は?」
 遥馬はさえぎるように言った。
「急で申し訳ないが、例の計画を実行する。学徒隊だけの極秘の話としてきいているはずだ。今からお前に重要な選択をしてもらう。現在、各班の管理官は、春待太一元班長に契約金を支払うかどうかの会議中だ。我々は、このあと彼らトゥエルブ・ファクトリーズの中間管理職をこの島から一掃する。彼らは会社の利益を優先するあまり、俺たちエージェントへの支払いを拒む傾向がある。俺たちはもう彼らを信用していない。君はどうする? ここでの監視活動をあきらめるなら、他の生徒たちに紛れて本土へ逃げてくれ。橋梁の監視にあたる隊員には知らせておく。しかし、君がプラチナベビーズと交戦を行い、契約金を手に入れたいと望むなら、今後は俺の下で働いてもらうことになる。さあ、選んでくれ」
 学生の監視者の間で、学徒隊特殊武装班の反乱の兆しは密かに伝わっていた。それがこの混乱に乗じて実行されるというのだ。
 恵吾の答えは決まっていた。
「弟の手術代を稼がせてください。金を持って帰らなきゃ、俺にはもう本土に帰れる場所なんてありません。如月さんの下で働かせてください」
「了解した。必ず力になる」
 最初から答えを知っていたような落ち着いた声だった。もしかしたら自分の家庭の事情はすでに遥馬に伝わっていたのかもしれない、と恵吾は思った。
 タブレットからの声は少し柔らかくなった。
「俺は北高校所属だが、二年生でお前とは同い年だ。如月さんじゃなくて遥馬でいい。恵吾、全て終わらせてお互いに人生を買い戻そう」
 了解です、とわずかに微笑んで、恵吾はふと疑問に思った。
「あの、では、今回の津波による避難勧告っていうのは?」
「昨日、監視施設から逃走した弥生真尋がまだみつからない。発信器を外して逃走している。今から一般市民を避難させて、大規模な捜索が行われることになるだろう」
「わかりました。現在、監視対象者の葉月一草が俺の側を離れました。このまま彼を尾行しますか?」
「いや、無理に彼につく必要はない。行動観察実験のほうは一時中断だ。プラチナベビーズである一草は島から出ることはできない。本人ももうすぐそれを知るだろう。体内の発信器も問題なく作動しているから、今後はお前が芝居をしてまで側で監視する必要はない。それより……やってもらいたいことがある。お前は、そこから病院に向かってほしい」

 一草はトイレの個室の中で、蓋をしたままの便器に腰掛けていた。手に持っていたブレザーを羽織り、胸ポケットから生徒手帳を取り出す。最後のページに、小指の爪ほどの金色のメモリーカードがセロハンテープで貼りつけてあった。
 十三歳になった日、父親がくれたものだった。若い頃ラグビーで鍛えたという父は、今もみっしりと肉厚の体型をしていたが、顔はいつも優しげだった。
「今から言うことを、何にも聞き返さずにただ覚えておきなさい」
 そう前置きする父の顔は一草が今まで見たことのないものだった。こわばり引きつって、いわれるまでもなく何かきけるような雰囲気ではなかった。
 父親が話したことは、一草にとって意味不明だった。
「ある日、この島から住人がみんな避難する日がやってくる。その時、お前は葉月一草とは別の人間になって、この島から出ていかなくてはならない。その時のための道具だ」
 そして手渡されたのが、このカードだ。タブレットに内蔵されているSIMカードだった。
 一草は慎重に生徒手帳からSIMカードを剥がしとり、口にくわえた。ブレザーの内ポケットから銀色の細い棒を出して透明のキャップを外す。極細のドライバーだった。タブレットを出して電源を切り、充電池を外す。内側の小さなネジをドライバーでまわした。
 全て父に言いきかされたとおりにやった。内部のSIMカードを取り替え、SIMロックを解除して再起動させる。
 一草はタブレットのプロフィール画面を開いた。タブレットの持ち主は「葉月一草」ではなく「新田一生」となっていた。「アラタ イッセイ」と読むらしいが、一草には「新しい一生」と読めた。
 自分のために用意された偽造SIMカード。別人の名前。「新しい一生」。一草の胸に、青ざめて思いつめた表情の父の顔が浮かぶ。
「このことを誰にも言うな。親友にも」
 そう念を押した顔だ。
 不安で乾く喉を潤すように、一度唾を飲みこんだ。とくに根拠があるわけではなかったが「葉月一草」の名前を捨ててしまったら、もう二度と両親には会えないような気がしていた。
 それでも。なにかあるのだ。そうしなければならない事情が。
(行こう)
 トイレのドアを開ける。もう恵吾とは行動できない。自分の顔を知っている生徒には極力会わないようにしなくてはならない。荷物を取りに戻るのも危険だろう。一ヶ月前に入学したばかりの一年生の列の最後尾について行こう、と一草は廊下を自分の教室とは反対の方向に進んでいった。
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