第25話 孤独な兄――文月 恵吾 4

文字数 5,780文字

「片肺だけでもいいんです。どうにかなりませんか?」
 頬がひきつってうまくしゃべれなくなっていることに気がついた。頬から顎まで、水滴がつたう。涙も言葉も、同時にせきをきったように恵吾はしゃべりだした。
「弟にはもう生体間移植か脳死移植しかないんです。肺は、国内の臓器移植ネットワークに待機登録しても、順番がまわってくるまで三年はかかるんです。しかもそれは成人で、です。十五歳以下の子供のドナーはもっとずっと少ない。でも弟にはもうそんな時間は残されてないんです。俺は、弟が海外で肺移植を受ける費用を稼ぐために、ここにいるんです」
「弟が病気なの?」
「突発性肺線維症という病気なんです。弟が十才の時、母親が生体移植で片肺の三分の二を提供しました。でも大人の肺だったからあまりうまくつながらなかったようで、どんどん機能が落ちてきているんです。それで、海外での移植手術をめざして募金活動を……していました」
「していました? 目標金額に達してないの?」
 恵吾は泣きながら笑った。
「募金活動は中断されているんです。やらかしちゃったんですよ。俺と父親が」
 忘れもしない、恵吾にとってそれまでの人生最悪の日だった。
 その夜は二人とも疲れきっていた。父は毎日夜遅くまで仕事。恵吾は学校に行き夕方からは病室に顔を出した。休日はほとんど、ボランティアと一緒に募金活動であちこち人の集まる催し物会場に立っていた。
「なんかもう毎日めまぐるしくてくたくたで。でもおかげで手術の資金は順調に集まっていました。で、その日、魔がさしたっていうか」
「外食しよう」そう言い出したのは父親で、二人で駅前の繁華街まで出た。格安を売りにしたチェーンのファミリーレストランは、試験明けの学生でごったがえしていた。そこを避けて、静かな地元のイタリアンレストランに入って食事をした。
「その次の日ですよ。目が覚めたら携帯のメールも、アプリのメッセージもパンクです。俺たちが食事している所をこっそり撮影されて、ネットでばらまかれたんです。『この一家は次男の病気をネタにお金を集めて贅沢してる』って。見たこともないIDからすごい中傷のメッセージが送られてきて。それにまた共感のポイントがどんどんついて注目されていくんです」
 それは恵吾とその家族への悪意がすさまじい勢いで増殖していくのを、数字にしてまざまざと見せられているようだった。
「今思えば、俺たちがうかつだったんです。弟のことを知っている誰かに見られてたんですね。募金集めるために、地元であちこちの集まりに顔を出していたのが仇になったみたいです。あまりにもネット上の反感がすごくて、しばらく募金活動を自粛しようって、ボランティア団体の代表の人に提案されました。そっちの事務所のほうにも苦情や中傷の電話やメールがすごかったみたいです」
 真尋は割り箸をにぎりしめて言った。
「今まで同情的だった第三者が一気に敵にまわったんだね。そういうふうに人をひきずりおろすのが好きな連中ってどこにでもいるんだよ」
 そっけない口調だったが、それが彼女の精一杯のなぐさめのように思えた。
 恵吾は苦笑しながら新しい涙をこぼした。
「他人があれこれ言うことはもうどうしようもないんです。止めることもできないし。俺が一番つらかったのは、それで家族がバラバラになっちゃったことで。母はもう半狂乱で俺と父を責めるんです。なんでせめてもっと安い店にしておかなかったのか、とか。コンビニで弁当買えば、とか。でももうそんなこといわれても、あとの祭りじゃないですか」
 その後の家は冷凍庫のようだった。家族がみな必死で頑張っていることはお互いにわかってるはずなのに、顔合わせると相手を責める言葉しか出てこない。そんな両親の間で恵吾はどうしていいかわからなかった。ただ凍え死なないように手足を縮こめてひたすらやり過ごすしかなかった。
「決定的だったのは、十六歳の誕生日のことです。そんな場合じゃないってわかってたけど、でも少し両親がはお祝いしてくれるかなって期待してました。そんな僕へ母が用意してくれたプレゼントは、クロスマッチテスト。つまり弟の次の生体移植のドナーになれるか病院で検査を受けてくれってことです。俺から健康な肺を切り取って、弟に移植させてくれって話です。なんか、それが……その時の俺には素直に受け入れられませんでした。俺は冷酷かもしれません。兄として失格なのかもしれません。でも何もなければ、弟のために協力したと思うんです。でもその時は、なんだか、母親から『あの日のことを償え』って脅されてるみたいで、怖くなったんです。だから、息苦しい家から逃げるようにここへ来ました。両親に『プラチナベビーズと戦ったら二千万円もらえるんだ』って話したら、止めもしませんでした」
 恵吾は疲れきったように笑った。相変わらず店内には軽快な音楽が流れている。三拍子のワルツだ。二人の間の重い空気をうわすべりするように、ただただむなしく流れていく。
 真尋は決心したように目に力をこめて恵吾を見た。
「さっきの質問に答えるね。私には人間の肺は作れない。私は君たちが期待するほど万能じゃないの」
 恵吾はそれを聞いて、支えを失ったように背もたれにがっくりもたれた。
「……ですよね。いくらなんでもそんな都合のいい話――もしそうだったら、この国の移植医療はもっと飛躍的に進歩してるはずですしね」
「文月君、あのね、私今のところ、内蔵とか脳とか複雑な臓器は作れないの。今まで成功させたのは、手足と皮膚だけ。正直いうとね、皮膚だって本当は細かい階層にわかれていてそれぞれの働きがあって決してつくりが単純てわけではないのよ。ただ私の能力でつくったものは、生体組織の断面の神経をつなぐことが簡単にできたから、感覚や筋力を要する部位で利用できるように研究されてきたんだと思う。名医と言われる外科のお医者さんでも、移植で細い血管や神経を傷つけずにつなぐのは難しかった。でも私のつくるものはそこを補えたから。まあ、単純にトゥエルブ・ファクトリーズは軍事会社だからバイオアーマー開発のほうを進めたかったっていうのもあるんだろうけど。
 それに私ね、手で実際に触ってみたものしかつくることができないの。皮膚も手足も本物の生体の見本に触ったの。表皮、真皮、皮下組織、その下の脂肪、筋肉組織、血管、神経束。そこまでして何度も試作して、ちゃんと実用できるものが作れるようになったの。君たちが現場を見たら引いちゃうくらい、それは血まみれでグロテスクな歩みだったよ。でも、その成果で女の子と男の子、大怪我した子を一人ずつ助けることができた。その子たちはここでまた実験に利用されてしまうけど……」
 真尋は心もちうつむいた顔に哀しげないろを見せてそう言い、はっと我に返った。
「ええと、ごめん。つまり、私が肺を作れるかどうかは本当はまだわからない……。でも作れるようになるためには、実際に人間の肺に触れなくちゃならないし、また長い試作期間が必要になると思う。仮にできたとして、それが医療現場で実用化されるまでの道のりを考えると、ぶっちゃけ、ドナーを待つのとどっちが早いか私にもわからない」
 真尋はそこできゅっと顔をひきしめ、強気そうな眉をあげた。
「残酷なようだけど、でもだからこそ私は、君は正しい判断をしたと思う。二千万。それを寄付金に上乗せして弟の命を救えるなら、そっちのほうが話が早いし、確実だ。君はそのために危険をかえりみずにここに来た。それは勇敢で立派な兄の姿だと思う。何も逃げてなんていない。文月君、胸を張ってよ」
 恵吾は苦笑した。この人の慰め方はいつもこんな感じだ。優しいというよりも凛々しい。いつも何かに立ち向かっているような、力強い女の子だ。
(彼女から見たら、自分は優柔不断で頼りない男かもしれないな)
 そんなことを考えた。
「さ、とりあえず腹ごしらえしよう。もうおあずけは限界だよ」
 にこっと笑って、またわりばしを取り上げた。恵吾もうながされるままに、パソコンデスクの上に飾ってある液晶画面の写真パネルをどけて、弁当を置いた。

 夜も館内の照明は明るいままだった。シャッターなどが降りる気配もない。それらは手動だということだろう。店内放送だけは時間で設定されているのか、夜八時四十五分になると自動的に閉店のお知らせとショパンの「別れの曲」を流した。
 お腹がふくれると、真尋はしばらくぼうっとしてそのままソファに横たわっていた。逃亡中の彼女も疲れているのだろうと恵吾は思った。「明日の朝まで休戦協定ね」と恵吾に言うと一人で寝る支度を始める。新品の歯ブラシと洗顔料をもって、トイレに行ってくる、と通路を歩いて行った。ずいぶん用意周到だな、と舌をまいたが、恵吾はその後ろ姿が見えなくなると、すぐにタブレットを監視施設につないだ。
「文月恵吾です。今、ミナトタウンの二階専門店街のHALUっていうインテリアショップの中にいます。移動中に宇都木創が疲れて眠ってしまったので、今夜はここで夜明かしの予定です」
 相手は遥馬だ。
『了解した。水分、食料の補給はできているか?』
「ここにはなんでもあるんで問題ありません」
『他に報告事項は?』
「もう伝わってると思うんですけど、病院で宇都木創担当の監視者で小児科医の中島文香が事故死。それから、ミナトタウンで小規模の火災……というか創君が飾り物の植木を一つ燃やしてしまいました」
『現場で何があった?』
「小児科医は、爆発音によるパニックで階段を落下してきた医療用ワゴンに衝突してしまいました。壁に挟まれてほとんど即死だと思います。ミナトタウンでは創君に彼女の死が伝わってしまったので、すごく動揺したようです。まだ感情的になると能力をコントロールできないんだと思います」
『創本人と君にケガは無いか?』
 恵吾は少し迷い、答えた。
「ありません」
 自分をケガさせたという事実はまだ伏せておきたい。創を人類の敵にしたくはなかった。
『能力をコントロールできない、か。予測はしていたが。やはり彼は危険な存在だな。武装班を向かわせるか?』
「大丈夫です。創君を怖がらせないほうがいいと思います。俺が、責任持って監視施設まで送り届けます。あ、あの創君は決して人間に敵意はないです。それは本当です」
 ふん、とあきれたように息を吐いたのが、タブレットのスピーカーから聞こえた。
『情がわいたか?』
「そんなんじゃないです。事実です」
 だが恵吾の声はうわずっていた。
「あと……あの、質問してもいいですか?」
『何だ?』
「もし、弥生真尋が見つかったら、即制圧になるんですか」
『もちろんだ。彼女は人間に対して明確な敵意がある。あの後判明したが、弥生真尋は春待太一のタブレットを使用して武装班の銃器を持ち出している。戦闘の意志は明らかだ』
「遥馬さん、弥生真尋は、移植医療を飛躍的に進歩させる可能性を秘めています。彼女を傷つけずに保護してもらえませんか。彼女は将来たくさんの人の命を救う可能性があるんです。そのほうが戦うよりずっと人類のためになります」
『……お前の監視者への応募理由は、弟に海外で肺移植を受けさせるための手術代だったな』
「彼女の能力で、移植用の臓器をつくることができるようになれば、大金使って海外まで行かなくても、ドナーの死を待たなくても、移植が受けられるようになります。俺みたいな人間もいなくなります。遥馬さん、考えてみてください」
 恵吾はすがるように言いつのった。
『ではそれを――お前の弟は待っていてくれるのか? その可能性が実現される日まで、お前の弟の肺はもつのか?』
「それは……」
 遥馬の声は最初から結論が出ているかのように淡々としていた。
『お前の理想はわかる。でもここは現実にむきあおう。恵吾、くれぐれも仲間を裏切らないでくれ。一緒に契約金を手に入れよう』
 恵吾はおし黙ったまま、タブレットの通話を切った。
 理想と現実。ここで迷ってしまう自分はやはり意志が弱いのだろうか、と考えていた。
 真尋はその後、恵吾と創のいるインテリアショップには戻ってこなかった。さすがに別の場所で眠ることにしたのだろう。
 明るい照明の中で、恵吾は白いソファに寝転がっていた。膝を曲げないと体が入らない。肘掛けの部分に横向きに頭を乗せて、北欧調プリントのラグを毛布のようにかぶった。眠れないのは脇腹の火傷がちりちりと痛むせいばかりではない。これからのことを考えると気持ちはまとまらず、混乱するばかりだった。
 俺は人質。弥生真尋が本当に監視者と戦う気でいるなら、いつまでも一緒にいてはいけない。いざという時、武装班の足をひっぱってしまう。おりを見て逃げださなくては。恵吾は自分が人質になって監視者の仲間に迷惑をかけてしまうのも、創が真尋と一緒に「人類の敵」になってしまうのも避けたかった。しかし、どうにも違和感が残る。真尋は創の身の上に同情的で、恵吾の任務にも協力するというようなことを言っていた。
(敵対したくない。彼女は、弟の章吾や、彼の後ろにまだたくさん続く移植を待つ患者たちの希望になる能力を持っている。そしてたぶん、とても優しい人だ)
 恵吾は自分が泣きそうになっていることに気づいた。彼女の言葉は恵吾の中に強く響いていた。
 ――それは勇敢で立派な兄の姿だと思う。何も逃げてなんていない。文月君、胸を張ってよ。
(それは逃げないで戦えということか? 真尋さんと? 章吾の兄であるために? あの家族の一員でいるために?)
 それは結局、目の前の金のために本来の理想を売り渡すことなのではないだろうか。
 体は疲れているのに、もつれた思考は脳を休ませてはくれなかった。はりついたラップフィルムをはがそうとしているようにもどかしい。あっちとこっちが裏表にくっついて、どうにもできない。どこをつまんでどこをひっぱれば、きれいに一枚につながってくれるのだろう。恵吾は窮屈なソファの中で何度も体の向きを変え、姿勢をなおした。
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