第1話 ロミオ・マスト・ダイ――春待 太一

文字数 14,028文字

 五月十六日 午後四時五十分

「太一さん」
 ききなれた声に振りかえった。春待太一(はるまち たいち)はベージュのブレザーを脱いだところだった。
 更衣室を兼ねた待機室には、番号を印字した縦長のロッカーがずらりとならび、あいだに背もたれのないベンチが置かれている。
「先週クラスマッチで、バスケ部ばっかりの選抜チーム負かしたんですって? もう北高まで噂届いてますよ。さすがですね」
 にやりと笑いながら、更衣室の入り口から入ってきたのは、一年後輩の如月遥馬(きさらぎ はるま)。濃いグレーに銀ボタンの詰襟を着ている。
「北高まで伝わってるのか。変なことばっかり耳が早いんだな」
 あきれ顔の太一に、遥馬は切れ長の目をすがめて笑う。
「自分の影響力をご存知ないんですかね」
「高校だけじゃないですよ。中学部もですよ」
 遥馬の背後から、ひょこっと顔を出したのは、まだ十代前半の少年。睦月澄人(むつき すみと)。遥馬と同じ詰襟に制帽姿だ。
「女子が騒いでましたよ。僕、その人の直属の部下なんだって、話したくって仕方なかったですよ」
「バカ。一般人に洩らすなよ」
「わかってますよ」
 太一は二人の後輩、否、部下がこづきあうのを微笑ましくながめた。
 春待太一、南高校の三年生だ。彼には、もう一つの顔がある。プラチナベビーズ監視組織の学徒隊、特殊武装班班長を勤めていた。
 プラチナベビーズ。十数年前、この国に新種のウィルス性感染症が発見された。優れた医療技術により、すぐに抗体がみつかり大規模な感染はくいとめられたのだったが――やがて新たな問題が持ちあがった。妊娠初期にこのウィルスに罹患した妊婦の多くが奇胎を起こして流産していた。その中でほんの一握り、無事に生まれてきた子供たちがいる。人として生存する機能、それだけでなく、未知なる遺伝子を兼ね備えて。彼ら希少遺伝子の保有者は極秘にプラチナベビーズと名づけられた。
 難しいことは太一にはよくわからなったが、とにかくプラチナベビーズとは超能力者のようなものだと理解していた。彼らが一般人に危害を加えないか。能力を悪用していないか。それをひそかに監視するのが組織の役割だ。
「俺なんかたいしたことないよ。南高なんてゆるい学校だしな。エリートの北高とは違うよ。そっちの特進科で頑張ってるお前たちのほうが、よっぽどすごい」
 太一は二人をねぎらうように笑いかけた。
「あ、でも僕は帰国子女枠ですからね。本当にすごいのは遥馬さんですよ」
 そういう澄人は濁音の発音が苦手で、いつも鼻から抜けるような独特の言い方になる。まだ中学二年生で、声も甲高い。二人と話すために何度も顎を左右に上げている。
 遥馬は詰襟とワイシャツを脱いで、下着用のTシャツの上からショルダーホルスターを装着していた。もともと太りにくい体質なのだろう。贅肉の無いタイトな体つきだ。視線鋭い切れ長の目は、研ぎ澄まされたナイフを連想させる。遥馬は澄人の言葉には答えず、太一にちらりと、もの言いたげな視線を送るだけだ。
 太一もロッカー上部の鍵つきケースから小型拳銃を取り出して、左わきの下にしまうと上から、何もなかったように上着を着た。そして、あらためて澄人を上から下までながめた。
「お前、靴下はいてないのか」
 とたんに饒舌だった澄人が気まずそうにうつむいた。少しの逡巡ののちに、わざとらしく明るい口調でうちあけた。
「あ、ええと。……今日は上履きの中にガム入れられちゃいました」
「髪の毛も切られてるだろ?」
「ああ……やっぱ、わかりますか」
 澄人は制帽をとった頭を、恥ずかしそうに片手でかきまわした。
 太一は澄人の頭を手の平で包むようにぽんぽんと叩いた。
「一人で抱えこまないで、何かあったら遥馬に助けてもらえよ」
「はい。でも僕。大丈夫なんで。これは僕の問題なんで。……僕は、こうやって太一さんや遥馬さんに心配してもらえるだけで充分なんです」
 澄人はちょっと眉根を寄せながら、むりやり口角をあげて笑う。
(まるで兄弟。家族みたいだ)
 太一は心のどこかが、携帯のバイブレーションのように震えてうずき出すのを感じた。
 後から来た二人の装備が終わるのを待って、太一は立ち上がり、きっぱりと告げた。
「いつもどおり、学徒隊一班よるモニター監視業務は午後五時から午後十時まで。武装レベルは引き続き1をキープ」
 了解、という二つの声が重なる。先ほどのうちとけた空気は、一瞬でぴん、とはりつめた緊張感にかわる。こんなふうに自在に空気を引き締めることのできる才能。それが自分を自然とリーダーに押しあげていることに、太一は気づいていた。
 三人は時計を確認して待機室を後にした。

「銃が装備できるんですか。そんなに危険なんですか。でも、そういうのって法律で……」
 書類を見て太一は尋ねた。当時は中学生だった。養護施設の面会室で、目の前にたくさんの資料を並べられた。
 監視組織のスカウトにやってきたというスーツ姿の男は、慣れた口調で説明した。
「そうです。ただし、条件があります。学徒隊から特殊武装班に選抜された十六歳以上の監視者であること。そして合計三十五時間以上の射撃訓練を受けること。これを満たせば銃を携帯できることになっています。ハーバーガーデン内のみの特例として、政府の許可をとってあります。ここは特別な実験演習用の施設だと考えてください。この人工島につくられた都市は、警察の管轄でも海上保安庁の管轄でもない。プラチナベビーズを人間と認めるかどうか審査するための、特殊な実験場なのです」
「実験ですか……」
「難しいことはありません。ただし、極秘の実験ですから守秘義務は徹底していただきます。指示に従ってプラチナベビーズの日常生活を監視してください」
「この契約はいつまで――いつまで監視を行うのですか? この実験はいつ終わるんですか?」
「プラチナベビーズたちが、人間らしい生活、行動をして、我々と変わらないことが証明されれば、彼らには晴れて人権が与えられ、監視はそこで終了となります。反対に、我々の生存を脅かす存在になるようであれば……」
 男は次の言葉を言う前に、太一の顔を凝視した。反応を試すように。
「その時は、特殊武装班が処分をする、ということです」
 太一は唾を飲みこんだ。否、飲もうとしたが、喉がただ、ごろっと鳴っただけで口の中はカラカラだった。
 人を殺すかもしれない、ということだった。誰かと殺し合いになるかもしれない、ということだった。すうっと足元の床が下がっていくような感覚とともに、自分の顔から血の気がひいていくのがわかった。これが恐怖感というものか。
 だが、すぐに思いなおした。法に守られた世界で生きていたって、毎日何人も事件や事故で死んでいるのだ。今も世界のどこかで、戦争だか内戦だか理不尽な殺戮は行われている。ここも同じ。ただそれだけのことじゃないか。
 そして、太一はつとめてもう一つの資料のほうに自分の目を向けさせた。ハーバーガーデンの中にある南高校。明るいベージュのブレザーという軽快な制服。校舎の航空写真には、屋上にテニスコートが映っていた。
「男なら、テニスとゴルフはたしなみとして覚えておいたほうがいい。ただの趣味じゃないぞ。それで人脈が広がるんだ」
 生前、父は太一にそういいきかせていた。
 カムフラージュとはいえ、ここに通わせてもらえるのだ。かつて失われた生活が、そこで自分を待っているような気がした。
 さらにその下に置かれた複写式の契約書類。そこに印字された契約金の金額を見た。見たこともない桁数に、心臓がドクリと脈打つ。うきたつような期待感。これだけの金が稼げれば、別の施設にいる妹を呼び寄せて一緒に自立した生活が送れるだろう。太一が契約書類にサインをするのに時間はかからなかった。後見人となっていた伯母も特に反対はしなかった。
 太一が両親を失ったのは、七歳の夏休みだった。山梨にある祖父母の家でお盆を過ごした帰りのことだった。仕事帰りの父親が車で迎えに来てくれた。乗り込む太一と妹は、すでに寝巻きを着せられていた。
 中央道を走る間、太一は、ワンボックスカーの広い後部座席に寝転がって、窓から夜空を眺めていた。どこまでもどこまでも、車窓にはりついたようについてくる月を、不思議な気持ちでながめていた。そしてそのまま、寝入っていたらしい。
 体が揺さぶられるような衝撃が走って、座席から床へ投げ出された。周囲は胸を圧迫する音に包まれていた。クラクションが鳴りっぱなしになっている。鼓膜だけではなく、頬骨までが共鳴して震えているようなむずがゆい感覚になり、太一は、目をしょぼつかせながら起きあがった。
 こすった目を薄く開いて、最初に目に入ってきたのは、運転席に膨らんだ灰色の大きな風船だった。そして、その上に、ぐったりともたれている父親の頭と左肩が見えた。フロントガラスは霜が降りたように真っ白になっていて、車の外は何も見えなかった。
 二列目の座席にいる母が、身をよじり手をのばして、床に座り込んでいる太一の腕をつかんだ。痛くて悲鳴をあげた。母も何か叫んでいた。
 音という音はクラクションの中にのまれて、かえって無音であるかのようだった。
 母の膝の上に引き寄せられて、半分開いたパワーウィンドウの隙間から車外へ押し出された。まず両手、次に頭。頭が通ったとわかると、母はすごい勢いで体と足を外へ送る。太一は逆立ちするように道路に両手をついて体を支え、両足が車窓から出ると同時に、地面に横倒しになった。
 車外に出ると、クラクションの音は一層大きくなって、頭蓋骨の中でわんわん響いた。
 母の声が聞こえた気がして顔を上げた。今度は、二歳の妹が押し出されてくるところだった。チャイルドシートで眠っていたのを、叩き起こされたのだろう。背中をつっぱってぐずり泣いている。
 太一はあわてて、立ち上がって妹を受け止めた。よろめきながらも、妹を横抱きにしてなんとか支える。
「はやく逃げなさい」
 唇の動きを読んだ。
「ママは? ママとパパは?」
「ママは、あとで消防の人に助けてもらうから」
「ママは?」
「ママは?」
「ママは?」
 太一はそれ以外の言葉を忘れてしまったようだった。
 母は窓から片手を伸ばした。太一は妹を抱いたまま、すがるようにその手に身を寄せた。いつも自分を抱きしめてくれた手だった。次の瞬間、力いっぱい胸ぐらを突きとばされた。太一は呆然としたまま、妹を抱えて道路に転がっていた。
 鼻腔を押し広げるようなガソリンの匂い。
 太一は側道に転がりこんだ。そこで初めて自分の家の車がひしゃげているのを見た。左前側が側壁のガードレールにめり込んで斜めに潰れていた。バンパーは失敗した折り紙みたいに丸められている。一台だけではない。その向こう側には、大型トラックが横倒しになっていた。そこへ突っ込んで、長さが半分くらいに縮んでしまった軽自動車が見えた。パニック映画のワンシーンみたいだ、と思った。
 クラクションが鳴っていた。
 どこかで叫び声があがった。でもどこか遠くのことのように、うまく聞きとれない。自分にしがみついて泣く妹の熱い息が胸に染みる。
 ふああっと車の底のほうを青い火がなめた。見る間に火はオレンジ色に吹きあがり、周囲が明るくなる。
 クラクションが鳴っていた。
 ふくれあがる熱気に顔と瞳の表面をなぶられても、太一は顔を覆わなかった。窓の中に母親がいた。一生懸命自分に何か話していた。苦しげに泣いて泣いて、それでも笑っていた。
 クラクションが鳴っていた。
 誰かが、太一を妹ごと後ろから抱きすくめて両目を覆った。それでも両耳からは、あの音が浸食し続ける。
 あとになって、父親は意識不明のまま、母親は足を挟まれていて脱出できずに焼死したと聞かされた。火傷による損傷が酷いからといって、最後まで両親の遺体には会わせてもらえなかった。
 母親の記憶は、あの車窓の中の笑顔で途切れている。

 監視者のモニタールームは、壁に内蔵されたモニターの大きさに合わせた細長い部屋だった。壁には三枚の巨大な液晶モニターが横に並び、向き合うように作りつけのテーブルと椅子があった。
「おっ、もう交代の時間か」
 太一がノックすると、座っていた三人の学生が立ち上がり、テーブルに出してあったタブレットを持ちあげた。
「太一さん、お疲れ様です」
「いってらっしゃい。授業中居眠りするなよ」
 太一は、交代してひきあげる学生たちに声をかける。南高校の定時制過程や通信教育過程の生徒たちだ。
「いやもう、この業務が一番の拷問っすよ。ぼーっと画面見てるだけで、つまんないし。まだ、訓練のほうが面白いっす。特殊武装班より、ヒューミント班のほうがよかったのかなぁ」
「あっちはあっちで神経まいるだろ。監視対象者と日常生活一緒に過ごすなんて」
「演技力いりますよねえ」
「ま、どっちもどっちってとこだな」
 太一はおおらかな笑顔で応じる。自分が自信たっぷりに微笑むと、なぜか男女問わず、みなが黙る。神様が与えてくれたこの素質は遺憾なく使わせてもらおう、と太一はいつも思っていた。
 壁に取り付けられたモニターは九分割されて、それぞれの窓に島の各所に設置された監視カメラからの映像を映し出している。監視対象となっている五人のプラチナベビーズたちの自宅周辺。そして、現在の居場所の周辺。重要拠点であるこの監視施設と研究所内。人工島の中心であるランドマークツインタワーの周辺。本土とこの人工島「ハーバーガーデン」を繋ぐ二本の橋梁の入り口部分。
 始めこそ、他人の生活をのぞき見るような体験に興味がわいたが、今は慣れてしまって退屈で仕方がない。実際のところ、そうそう珍しい事件など起こるはずもない。
 太一は気取られぬように、そのうちの一つに注目していた。研究者用の宿舎棟の一室だ。狭い部屋の中で、入院患者のような白い検査着を着た少女が、ベッドのふちに座っていた。部屋の窓際には小さめの鳥かごがあって、白い文鳥が一羽、せわしなく動いていた。
 ショートカットの髪を揺らして顔を上げ、少女は壁時計を見る。やがて、監視カメラをちらり、と見てベッドに座りなおした。
 太一は遥馬と澄人の様子を盗み見た。幸い二人は、別の画面に見入っていたらしい。太一はそっとポケットに手を滑りこませ、自分のタブレットに触れた。
「ノイズがひどいですね。……モニターBの2の1、2の2」
 遥馬が自分のタブレットを胸ポケットから出す。
「妨害電波かもしれません。モニタリングオペレーターに問い合わせてみます」
「監視を妨害するような人間がこの島にいるとは思えないがな」
 頻繁に砂嵐の混じる画面を見て、澄人も首をかしげる。
「たしか、この前もありましたね。その時も、Bの2の1が中心だったと思います」
「モニター自体がイカれてるのかもな。予備のモニターに映してみよう。それで前回もなおっただろ」
 太一は安心させるように行って、テーブルに置かれた予備用モニターの電源を入れた。画像データ用のコードを壁に作りつけられたプラグにつなぎ、もう一つ、細いコードを内ポケットから取り出して自分のタブレットにつなぐ。
「セキュリティの設定をする。しばらく楽にしててくれ」
 やがて、予備用のモニターには何事もなかったように元通り九分割された画像が映しだされた。ノイズの取り除かれた画面では、先ほどの少女がベッドのふちに腰掛けて雑誌を読んでいた。

 「お疲れ様でーす。休憩ありがとうございまーす」
 相変わらず違和感のあるイントネーションを響かせて、澄人がモニタールームのドアを開けた。三十分の休憩を経て、帰ってきたところだ。
 モニター監視業務の間は、交代で休憩をまわし夕食をとる。モニタールームのある監視用施設は、プラチナベビーズの能力の解明や利用を試みる研究棟と、そこで働く研究者用の宿舎棟と橋廊でつながっていた。研究棟まで歩けば、カフェテリアや売店がある。
 この島の住人に支給されている小型のタブレットには、島内共通の決済システムが搭載されていて、財布を持って歩く必要はなかった。
「宿題、終わったか?」
 太一はモニターから目をそらさずにたずねる。
「終わるわけないですよ、三十分で」
「北高中学部もしんどいな」
「他人事だと思ってー」
 澄人がすねたそぶりで、モニター前の席につく。
「太一さん、先行って下さい」
 遥馬が声をかけた。
「じゃ、遠慮なく」
 太一は立ちあがった。
「後は頼む」
 笑顔で言い残して、扉を閉める。廊下へ出ると、太一は研究者用の宿舎棟へ向かって駆けだした。白衣を着た研究者や、モップを入れたバケツをひく掃除係の女性とすれちがった。
 監視施設、研究棟、研究者用の宿泊棟、三つの建物は上空から見て放射状に設置されていて、その中心点で三つをつないでいるのが橋廊の真ん中にあるガラス屋根の空中廊下だった。
 太一は空中廊下へ出た。ポケットからタブレットを取り出す。宿舎棟につながる強化ガラスの扉についた端末機にかざすと、ロックが解除される音が響いた。自動扉が開くのを待つのももどかしく、ふたたび駆けだす。宿舎棟の階段を三段抜かしで上っていった。
 息をきらせて、あるドアの前で立ち止まると、周囲に人が居ないのを素早く確認して、インターフォンのボタンを押した。待ちかねていたようにドアが開いた。そこには検査着を着たショートカットの少女が立っていた。太一は部屋に入ると、後手でドアを閉めた。
 二人は言葉もなく、ただ抱き合った。彼女の匂い、体温。それらを貪るように。そして太一は、腕の中から聞こえる小さな音に耳を澄ました。鼓動。呼吸音。髪の毛のこすれる音。
 ――ああ。
 彼女を抱きしめるたび、この世界にはまだこんなにも穏やかな音が存在していた、と太一は感動を覚える。この世界にはまだこんなに懐かしくて優しい音があった、と。
 出会いは二年前の春だった。太一はこの島にやって来たばかりだった。監視施設に向かって、研究棟の裏の道を歩いていた。
 かすかな羽音がして顔を上げた。小さな白い鳥が目に入った。野鳥ではみかけない種類の鳥に思えた。真っ白な羽に桜貝のようなくちばし。小鳥は、太一の頭の上をかろやかに羽ばたいた――と思った次の瞬間、突如バラバラになって落ちてきた。空中分解、まさにその言葉どおりだった。
 太一は思わず両手をひろげてその残骸を受けとめた。不気味に感じながら、手の上を見る。白菊の花弁を重ねたような翼が一対。つぶらな眼とくちばしが備わった頭部。繭玉のような胴体。そして、針金の細さのピンク色の足が一対。それらは、プラモデルの部品のように一つ一つ分かれていた。出血も、引きちぎられたような跡もない。ただ、朱色の断面を見せて綺麗に分かれているだけだ。
「驚かせてごめんね」
 頭上から声がして、太一は再び顔を上げた。研究棟の窓から、自分と同じくらいの年恰好の少女が顔をのぞかせていた。ショートカットの髪と黒目がちの瞳が印象的だった。
「これは……何だろう」
 太一の問いに、少女は薄く笑った。
「たぶん、私の心」
 太一は手の上の物体をふたたび、まじまじと見た。小鳥の部品は見る間に透き通っていく。ガラス細工の肉体に細かい毛細血管が透けて見えた。やがてその血管も周囲に溶けこんで、全体が半透明のピンク色に染まる。どろりとゲル状になって、指の間からこぼれていった。
「気持ち悪いでしょ。捨てていいんだよ。檻に閉じ込められた、哀れな化け物の心だよ」
 少女は少しふざけたような、芝居がかった口調で言った。
「これはもう、生き返らないのか?」
 太一の問いに、少女はふっとため息をつく。
「はじめっからまがいもの。複製して作っただけで、生命なんかないんだよ。だって私、神様じゃないもん」
「そう、神様じゃないんだ。それじゃあ……君は下界の人間とつきあうこともできるのかな?」
 太一は歯を見せた。
 少女はその笑顔に心を奪われた様子で、しばらくかたまっていた。やがて我に返ると、どこか痛むかのように頬を歪めて笑う。
「すぐに後悔するよ。私はいろいろ面倒臭い立場だから」
 そんなことを言われて何かを考えるより先に、太一はもう戻れない道を歩みはじめていた。半分開いたガラス窓のむこうに囚われて哀しげに笑う彼女の表情は、太一を一瞬で七歳の子供にした。なにかをあきらめたような、寂しげな笑顔。あれは母親が最後に見せたかおだ。息も出来ない。目をそらすこともできない。求めずにいるほうが、無理だったのだ。

 弥生真尋(やよい まひろ)。彼女のことは始めから知っていた。プラチナベビーズ、すなわち監視対象者だったからだ。太一は訓練の段階から飽きるほど写真を見せられていた。
『生体複製』。真尋の能力は研究者たちにそう名づけられていた。自分がプラチナベビーズであることを、早い段階で本人に告知されているケースだった。彼女の能力を移植医療へ応用する研究が日々行われ、それに協力するため、学校から帰ったあとは研究者用の宿泊棟で生活を送っているということだった。
 ずっと監視されていることもすでに感づいているのだろう、と太一は思っていた。
 太一と真尋は同じ南高校に通っていたから、放課後に空き教室や階段の最上階の踊り場で待ち合わせ、密会した。真尋のクラスメイトの中には、友達を装った監視者が複数配置されていた。彼女らに気づかれないよう細心の注意をはらわなければならなかった。
 太一は知り合ったばかりの頃、真尋の能力をじかに見せてもらったことがある。周囲が期待するほど私は万能ではないけれど、と前置きして真尋は説明してくれた。
「まず、私は手のひらで触れたものしか複製できない。研究所でいろいろ試してみているけど、今のところ内臓の備わった胴体や、脳のつまった頭部を作ることはできないの。だから、あの『小鳥』は部品同士の血管と神経が一瞬つながっただけで、心臓も脳も持たない空っぽの体なの。すぐに、生命は無くなってバラバラになってしまう」
 そう言っているうちに、彼女の両手の平にはピンク色の粘液が、じわじわと玉になってわきでてくる。その粘液を泥団子でもこねるように、まるめて転がしていく。両手の平でいつくしむように包みこんで、やがて粘土細工を作る動きで指先で広げると、それはすでに白い翼になっているのだった。
「こんな感じ」
「芸術家みたいだ」
 太一が感嘆の息をもらすと、真尋は困り果てたように視線をそらせた。
「気持ち悪いって言ってくれたほうがよかったのに」
「俺は迷惑なのかな」
 太一が寂しげに言うと、真尋はあわてて首を振った。
「だって……慣れてないんだよ。こんなの」
「こんなの?」
「……優しく、されるの」
 うつむきながらつむぐ語尾は不安に震えて、気づけば太一は彼女を抱きよせていた。
 太一の手引きで、監視カメラの死角を選んで逢引を重ねた。
 逢瀬の時間はいつも限られていた。半身をひきはがすようにして、真尋と別れたあとは、何かの禁断症状のように体が震えることがあった。
 太一はあとでその原因に思いあたった。自分は、もう一度あのクラクションの鳴る孤独の中へ突き落とされるのが、怖くて怖くてたまらないのだ。

 休憩時間は三十分しかない。太一は腕をゆるめた。その胸板に、子猫ように頭をこすりつけていた真尋が太一を仰ぎ見る。
「準備はできてる?」
 真尋はうなずいた。
「怖い?」
 引き返すなら今だと、含みを持たせて太一がたずねる。
「怖くない。最後には、太一と同じところにいけるって信じてる」
 太一は一度深くうなずいて、真尋の体を離した。
 二人はベッドに腰掛けた。太一はブレザーの内ポケットから小型の金属探知機を出した。裁縫の検針用の小さなものだ。さらに、折り畳みナイフを取り出して、広げて置く。
 金属探知機を真尋の左腕の内側にゆっくり添わせていくと、やがて電子音が鳴った。その場所を注意深く親指で押さえて、折りたたみナイフを手にした。
「いい?」
 真尋が歯を食いしばってうなずく。ナイフが浅く、真尋の腕の皮膚をえぐった。血のついた刃先に、髪の毛のような黒い糸がひっかかってくるのを、太一はそっと指でつまみあげて引っ張った。
 真尋は一度びくり、と体をこわばらせたが、あとはじっと痛みに耐えていた。ひっぱる糸の先に、一センチくらいの銀色のカプセルが現れる。逃亡防止の発信機だ。太一は、ほっと息を吐いた。そして、今度は自分の腕の、近い場所にナイフで傷をつける。真尋の傷から取り出したカプセルを、自分の腕の傷の中へ埋めこみ、皮膚につながった糸を切る。
 この発信機の周辺には随時微弱な電流が流れていて、体外に取り出されたことを感知するしくみになっていた。真尋は自分で、腕の傷に大きめの絆創膏を貼っていた。もう一枚を太一の傷に貼ってくれる。同じ場所につけた傷は、まるで同志の証のようだった。
「行こう」
 立ち上がる太一をみつめ、ベッドに座ったままの真尋が、感極まったように切ない声をあげた。
「太一――私、普通の女の子に生まれてこなくてごめんね」
 太一は軽快に笑った。
「真尋は真尋じゃないか」
 その心に、後悔の曇りなど一点もなかった。

 太一が休憩に出たあとのモニター室には、遥馬と澄人の二人が残されていた。
 太一が休憩に入って数分のことだった。モニターの前に座っていた遥馬が、なんの前ぶれもなく立ちあがった。すでに、詰襟の前のボタンを開けている。
「澄人、行くぞ」
「え? どこへですか。監視業務は?」
「太一さんを止める」
 意味がわからずにいる澄人を尻目に、遥馬はモニタールームを出た。足は、迷わず宿舎棟へ向かう。太一のあとを追っているのだ。あわててついてきた澄人を、遥馬は一度だけ振り返った。
「お前、泣くなよ」

 はたして、四人が向き合ったのは空中廊下の中心だった。
 研究棟の入り口から出てきたのは、ワイシャツ姿にホルスターをむき出しにした太一。その背中に、検査着を着て頭から太一のブレザーをかぶった小柄な人影が隠れている。監視施設から走りこんできた遥馬が、二人の正面に立ちふさがった。その後ろで、澄人は驚愕でかたまっていた。
「太一さん。これはどういうことですか」
 問いつめる遥馬の声はあくまで冷静だった。太一は思わず苦笑した。
「この状況に説明が必要か?」
 どうして、どうして……とうわずった澄人の声が重なる。
 太一は、自分が少しも動揺していないことに少し驚いていた。自分も本心では、こうして監視組織への反逆が発覚することを望んでいたのかもしれない、と思った。誰かに止めてもらいたかったのかもしれない、と思った。
 しかし今はもう、ひきかえす道は無い。
「澄人、この人はな、監視対象の女にたらしこまれて、俺たちを裏切ったんだよ」
 遥馬の声が淡々と響いた。
「いつ気がついた」
「俺は人を信用しないたちなんですよ。前回のモニターのノイズの件、あとでモニタリングオペレーターに問い合わせました。あなたのタブレットが、遠隔で妨害電波を出す装置にアクセスしてノイズを発生させていたこと。そして、サーバーにアクセスして、監視画像を録画した映像とすりかえていたこともすでに調査済みです。そして、決定的な証拠をつかむまで、その調査報告をあなたに伏せておくよう、俺が頼んでおいたんですよ」
 太一は降参だ、というように肩をすくめた。そして、ゆっくりと右手に握っていた自動拳銃のスライドを引く。初弾の装填される音が響いた。
 太一は朗々と宣言した。
「今日が革命の日だ。俺は、プラチナベビーズを開放することにした。俺達はこの二年間、監視を続けてきた。そうして気がついた。この実験には終わりが無い。プラチナベビーズを人間として認めるための、明文化された条件は存在しない。ただ、あやふやな『人間らしさ』が求められているだけだ。その一方で、俺達は対抗勢力として武装させられている。毎日訓練をこなしながら、ひたすら戦う日を待っているんだ。いつかその日がやってきたとしても、俺は真尋を殺せない。彼女が人間かどうかについては、俺自身が証明だ。人と恋をする。これ以上確実な『人である証明』があるだろうか。プラチナベビーズに処分命令が出る前に、俺はこの状況を変えることにした」
 太一は天井へ向かって引き金を引いた。発砲音とともに鈍い破砕音が響いた。空中廊下の天窓を覆うガラスドームに蜘蛛の巣状のヒビが走る。
 遥馬は澄人を突き飛ばして、壁際に転がりこんだ。
 二弾目、三弾目が窓枠にあたり、高い金属音が空気を震わせる。行き場のない衝撃が、ガラスのヒビを鋭い断面に変えて、ロビーにはきらめく細片が降りそそいだ。
 遥馬と澄人を足止めして、太一は研究棟の廊下を進んだ。ふりかえると、遥馬が立ち上がって自分の拳銃をホルスターから引きだし、銃底で緊急ボタンのカバーを叩き割るのが見えた。
 非常サイレンが鳴り響く。太一はかわまず走り続けた。研究棟につながる廊下の入り口に非常用シャッターが降りてくる。
 遥馬がガラスの水溜りを跳んで、研究棟の廊下に滑りこんできた。その後ろから、澄人が必死でついてきている。
 少女を先に行かせ、太一は遥馬に目を合わせたまま、研究棟の廊下を後ろ向きに進んだ。遥馬はまばたきもせず二人を追ってくる。猫科の肉食獣が獲物を定めた時のような、お互い逃げ場の無い視線だった。
 少女をせきたてながら後ろ向きに進んでいた太一は、一度振り返り、研究棟の廊下の先を見た。
 行き止まり。右側にある階段のシャッターは、すでに降りていた。残る逃げ道は、突き当たりの窓しかない。
「おかしなことは考えないでください。ここは三階ですよ!」
 遥馬はもう目の前に迫っていた。感情を押し殺した声で問う。
「あなたは、たかが女のために、あなたを信頼している多くの仲間を裏切るんですか」
 太一は苦笑した。
「たかが女、なんて言うなよ。真尋だったからだ。誰でもいいわけじゃない」
 遥馬はくやしげに息を吐いた。
「っ――あんた、完全にその女に狂ってるんだな」
「そうかもしれない。でも、遥馬、お前は考えてみたことがあるか。俺達がいつもモニター越しに見ようとしていた『人間らしさ』とはなんだ。こんな『愚かしさ』こそ、その答えだったんじゃないのか」
 は、と遥馬は嘲笑した。否、笑おうと頬をひきつらせた。やりきれない、と歪んだ顔が叫んでいる。
「太一さん、もう終わりにしましょう。あなたがたに逃げ道はありません」
 たちきるように言って、遥馬は自分の拳銃のスライドを引いた。鋼のかみ合う冷たい音がした。
「遥馬、ここは研究棟だぞ。実験器具や危険な薬品、高価な機械だらけだ。ここで撃てるか? いくらお前でも、跳弾の軌道は計算できないだろう」
「ご心配なく。俺が装填しているのはフランジブル弾ですから」
「なるほど、さすが遥馬は勉強熱心だ。……これで詰んだか」
 太一は、力なく言って両手をあげた。遥馬は拳銃を構えたまま浅くうなずいた。澄人が濡れた目で、ほうっ、と肩をなでおろした。
 無抵抗を表すように、太一は自分の拳銃のマガジンキャッチを押し込み、弾倉を足元へ落とした――が、落ちる瞬間、なんの予備動作もなく足首だけで太一は弾倉を蹴り上げていた。
 黒い弾倉は床へ着く前に跳ね上がり、遥馬の顔面へ直進する。遥馬は反射的に腕で顔をかばった。
 遥馬が体勢を立て直したとき、太一はすでに少女の体を抱いて窓から跳んでいた。

 かすかなうめき声が聞こえた。
 それが自分のものだと太一が気づくのに、少し時間がかかった。肋骨を折っているのか、息を吸うだけで激痛が走る。
 目を開けると、遥馬の顔が見えた。自分たちのリーダーを、憐れむようにのぞきこんでいた。その顔のむこうに、自分がたった今落ちた三階の窓が見える。首をめぐらせて、タイル敷きのテラスの上に仰向けに倒れているのだと確認した。横から見えた自分の両足は、膝からありえない方向に曲がっていて、片方は目を覆いたくなるような開放骨折だった。
「――至急、救護を要請します」
 遥馬はタブレットで誰かと話しながら、すぐ近くに倒れている少女にかけよっていった。
 見なくてもわかる。ベージュのブレザーからは、すでに人体の形を失ったピンク色のゲル状の液体があふれ出ていることだろう。予想どおり、遥馬の舌打ちが聞こえてきた。
 遠くで、からん、と音がした。清掃用バケツの音だと瞬時に気づいた。
 太一が研究棟のほうへ首をねじ向けると、掃除婦の格好をした小柄な人影が、研究棟の非常階段を降りきったところだった。三角巾で顔を隠しながら、走り去っていく。あわてて後を追おうとする遥馬の足首を、太一は必死でつかんだ。仰向けのまま身をよじって遥馬の足首を握りしめる。
 手に力をこめると全身に激痛が走って、太一は感電したように声もなくのけぞった。それでも、足首は離さなかった。爪を立て、残された力を振りしぼって遥馬を止めていた。
「太一さん! もういいかげんにしてください」
「……追わないでくれ」
 遥馬は太一に馬乗りになる。
「あんた、騙されたんですよね、あの女に。そういってください」
 両手で襟首つかんでゆさぶられた。胸を刺す痛みに、気を失いそうになる。
「なんていうんですか。あんたが『二人で楽しく暮らせるように頑張ってる』って信じてる妹さんに、俺はなんて報告すればいいんですか」
「……お前に、まかせる」
「ふざけるな!」
 遥馬は激昂した。
 焦点の定まらない視線が、遠い空をさまよう。夕闇に染まる空は、どこか懐かしい色に見えた。空にはりつけられたような細い月が見える。
 薄れていく意識の中で、太一は思った。真尋は自由になっただろうか。つかの間にしろ、自分の命の使い道を自分で決めることができるようになっただろうか。
(ああ。これでやっと――あの音が鳴り止みそうだ)
 胸の中で、ずっとずっと鳴り響いていた、あの日のクラクションの音が。
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