第2話 国追われた王子――睦月 澄人 1

文字数 4,889文字

 五月十六日 午後七時
 澄人は、呆然と研究棟の廊下にへたりこんでいた。今さっき太一が飛び降りた窓から、湿っぽい夜風が吹きこんでくる。
 遥馬は落ち着いて対処していた。窓から頭を出して状況を確認すると、タブレットで司令室に指示を出し、すぐに非常用シャッターのロックを解除させた。手動でシャッターを持ちあげ、するりとくぐりぬけて階段を下っていった。
「今は動揺してるだろ、そこで待機してろ」と澄人に言い残して。「管理官になにか訊かれても、俺が報告をあげるまで何も答えるな」と、念を押して。
 そして澄人は何もできないまま、床にへたりこんでいる。窓から下をのぞく勇気も出ないままだ。
(太一さんは自分の信念を貫いたのだ。自分たちとは違う道を選択したのだ)
 それはわかっていた。
 いや、本当はわかりたくなかった。
 だから今も考えること放棄して、駄々っ子のようにここに座りこんでいる。
「おい、何があった?」
 研究棟の研究者たちがおずおずと部屋の扉を開けて、廊下に出てきた。
「なんでもないです」
 機械的にそう答えた。
「なんでもないわけないだろ。銃声がしたんだから」
 研究者の一人が、澄人に近づいてきた。背後から、サンダルでリノリウムの床を踏む、にちゃにちゃした足音が聞こえる。
「なんでもないです。あとできちんと報告しますので」
 あーあ、これだから下っ端はダメだな、と聞こえよがしにつぶやくのがきこえて澄人は心の中で叫んだ。
(なにがあったって? 『愛』だよ、くそったれ! あんたたち科学者にだって、まだ解明できてないシロモノだよ)

 睦月澄人。北高校中学部二年生。彼が、春待太一、如月遥馬と接点を持ったのは、一年前の春だった。
 その日、学校で帰りの支度をしようと、学校指定の黒いスポーツバッグをロッカーから出すと「日本から出て行け」と修正液で書いてあった。
 その鞄を持って廊下を歩いていくと、通り過ぎる生徒たちが声をひそめてあざ笑う。その気配は、澄人の丸めた背中に突き刺さった。早く慣れてしまおう、と澄人はいつも思うのに、そう考えれば考えるほど神経は傷つきやすいほうへと研ぎ澄まされていくのだ。
 北高校の中学部に転入した時は、帰国子女ということにしてもらった。その時から「睦月澄人」という偽名を使っている。しかし、どこからか噂は伝わった。とあるアジアの小国。近年、国際社会から非難を浴び続けている一党独裁政権の続く民主主義の遅れた国。あそこから亡命してきた党幹部の子供だと。
 良い成績をとったり、教師に褒められたりしたあとは、何かを思い知らせるかのように放課後、暴力を受けた。どうして自分はこんなにも感情を抑えるのが苦手なのか、と澄人はいつも悔しかった。泣いて。こらえきれない悲鳴をあげて。それが呼び水になって、一層制裁者を残酷にさせる。髪を切り取らられる。鉢植えの受け皿に溜まった緑色の水を飲まされる。サンドバックのように腹を蹴られる。
(僕がそんなに悪いのだろうか)
 あの国の人間だからいけないのだろうか。それとも日本人でないからいけないのだろうか。国籍とか、血筋とか。本当にそんなことにこだわる意味があるのだろうか、と澄人は思う。
 問題の本質はそこではないのだ。
(みんな誰でもいいんだ。自分でさえなければ)
 めいった気持ちで寮まで歩いた。校庭の桜はすでに葉ばかりになっていた。寮までの道はハナミズキの並木が植えられていて、十字架の形をした白い花弁が枝先で揺れていた。根元には、さりげなくオダマキが咲いている。ハーバーガーデンの名前どおり、庭園のような美しい植栽だった。
 澄人はうなだれたまま、路上に散った白い花びらを踏んで歩いていった。
 人工島ハーバーガーデン内には北高校、南高校、二つの私立高校がある。その両方にプラチナベビーズが在学していて、それぞれ監視者が配置されていた。両校の中間地点には学生用の寮があり、監視者の学生のほとんどがこの寮で生活している。この寮の内部には、訓練用の施設や地下射撃場が設けられていた。
 澄人は寮の門扉で、自分のタブレットをかざし、認証音を聞いて中へ入った。鞄の落書きをどうやって落とすか、そのことで頭がいっぱいだった。
 寮は男子寮、女子寮に別れており、それぞれの建物は白いタイル張りの二階建てだった。澄人は二つの建物に続く庭をのろのろ歩いていく。
 寮の前庭には工事用の機材を積んだトラックが何台か停められていた。何かまた新しい装備の訓練場でも建設するのだろうか。男子寮の入り口を入ると、もうお爺さんと呼んでいい年齢の寮監が、澄人を呼び止めた。
「面会の人が来てるよ。いや、言葉が通じないからねぇ。たぶん、あんただと思うけど」
 澄人は入り口のロビーを見渡した。自動販売機数台とベンチが二つ置かれただけの空間だ。ベンチでは、高校生らしき数人の上級生が話をしていた。運動着に着替えていたから、これから訓練に入るのだろう。
「ここじゃなくてね。外で待ってるってさ」
 寮監があごでしゃくる先を見ると、窓ガラスの向こうに学生ではない人影が見えた。黒っぽい長袖Tシャツにジャンパーをはおって、うす汚れたカーゴパンツをはいていた。
 工事に来た現場作業員のように見えた。手首には、デパートで買い物したときのような紙袋をぶら下げて、腕を組んでこちらを見ている。澄人はその顔を見ると、あわてて空いているベンチに鞄を投げて走っていった。
「お兄さん!」
 喜びを隠しきれない声で叫ぶ。それは、ここではずっと封印していた母国語だった。作業員のような格好をした男が、くしゃっと顔をほころばせて、澄人の本当の名前を呼んだ。
 男は、手招きで澄人を人気のないトラックの陰に誘導した。外国語を聞かれるのを気遣ってのことだろう。
「ああ、よかった。ご無事だったんですね。一緒に漁船に乗れなかった時はもう、今生のお別れかと思いました。ええと、彼は? 彼も一緒ですか?」
 涙をこぼさないよう目を見開いて、澄人は一息にしゃべった。奇跡の再開をはたしたのは、母国で別れた親友の兄だった。
「弟は、死んだよ」
 耳元で氷水を浴びせるような声が囁いた。頬を紅潮させた澄人は、時が止まったように固まった。
「あいつはバカだったからな。最後までお前の暗殺に協力することを拒絶した」
 澄人は両手で口をおおった。
「……ショックかい? でも大丈夫。すぐに会わせてやるよ」
 そう言って男が紙袋から取りだしたものは、澄人が射撃訓練を見学した時でも見たことがない、銃身の太い重量感のある銃だった。
「君が相変わらず、人を疑わないバカでよかったよ」
 男は素早くフォアエンドを前後に動かした。ショットガン特有のポンプ音が聞こえた。澄人は、呆然と自分に向けられる銃口を見た。足はすくんで震えていた。眉間の間で、黒い穴がこちらを見ている。
(終わり。これで終わりだ)
 その時の澄人にとって死は、許しに似た甘やかな幻想をまとっていた。祈るように目を閉じた時――緊迫感ほとばしる声が割ってはいった。
「ここで何をしている」
 目を開けた時には、腕をつかまれてその人の背後におしこまれていた。澄人は自分をかばった長身の青年を見上げた。自分より三十センチ近く背が高い。先ほどロビーに居た高校生の一人だ。澄人はその人を遠くから見て知っていた。特殊武装班のリーダー、春待太一だった。大人顔負けのたくましい体躯の後ろから頭を出して、澄人はことのなりゆきを見守った。
 突然の一喝でショットガンをかまえた男がひるんだ隙に、横から別の高校生が、ひょいっとその銃身をつかんでいた。手のひらで銃口をふさぐように蓋をして、そのまま握りこんでいる。こちらの高校生は、研いだような痩躯だった。
 男は面食らって、銃口を握る彼の手と顔をかわるがわる見ている。
 チャラ……。
 銃身の中で何かがぶつかり合う音がした。
「あ、すいません。コイン落としちゃいました」
 コンビニで支払いでもする時のような調子で、その高校生はいってのけた。そして澄人のほうをふりかえった。
「君、訳してさしあげて。僕は今、あなたの銃の中へコインを落としました。今、引き金を引くと、銃が暴発します。装填されているのは、もちろん散弾ですよね。ひょっとしたら、殺傷能力をあげるために火薬を増量してますかね。ダブル? それとも、トリプル? 引き金をひけば僕の肘から下もふっ飛びますが、あなたは右肩と顔の半分は持っていかれますよ。試してみますか?」
 澄人が訳すまでもなかった。男は高校生に唾を吐きかけると、銃を手放してトラックの荷台から垂れていたカバーの紐を引いた。トラックの荷台から、足場用の鉄パイプが流れ落ちてくる。
「遥馬!」
 太一が澄人をかばいながら叫んだ。
「いってえ」
 とっさに遥馬は左腕で頭をガードしていた。
 遥馬が大した怪我をしていないのを確認した時には、作業員のような男の姿は三人の視界から消えていた。
「お前、あとで頭みてもらえよ」
「大丈夫ですって」
 左側頭部をさすりながら、面倒くさそうに遥馬は答える。
「ロビーから見ていたんだけど、君を人目につかない所にわざわざ連れこんだのがちょっと気になってね。それに、紙袋を二重にしていたのもね」
 太一は、気遣うように澄人に話しかける。
 遥馬は鉄パイプをかきわけ、男が残していった銃を拾いあげていた。
「これ、銃身と銃底を短くしたショットガンですよ。どうやって島内に持ちこんだんですかね」
 太一は人差し指と親指であごをはさみ、少し思案した。
「分解して工事用機材に混ぜてきたんだろうな。それよりお前、訓練前なのに小銭なんか持ってたのか」
「持ってませんよ。銃口にほうこんで音を聞かせたのは、とっさにちぎり取ったポロシャツのボタンです。あとは適当に、ハッタリですよ」
 遥馬は表情を変えずにいってのけた。ふ、と太一が苦笑をもらす。
「あきれるだろ? こいつ、こんな食えない奴なんだよ」
 太一は愉快そうに言って、澄人を見下ろした。澄人は黙ったまま、くるり、と二人に背を向けた。そのまま歩き出して、二人から遠ざかる。いくあてもないまま、ずんずん寮の庭を歩いていった。
「君、どうした?」
 太一の声が追いかけてきた。澄人はふりかえらなかった。
「おい、ちょっと」
 両肩をつかまれて、大声を上げた。
「僕に、僕に、関わらないでください! あなたがたは、何も知らないくせに! あのままなら……終われたのに。ほっといてくれれば、あれで終われたのに!」
 わめきながら、澄人自身も自分が何を言っているのか、わからなくなっていた。
 口の中に、急にいやな味の唾液がわきあがり、飲みこみきれなくなって、かがむ間もなく澄人は嘔吐した。ぞうきんを絞るように胃がキリキリとねじれて、何も出なくなるまで激しくえづき続けた。吐くものがなくなると、ようやく顔を起こして酸素を貪った。しかし、ひりつく喉はヒッ、ヒッ、と壊れた笛のように鳴るだけで、呼吸は少しも楽にならない。目の前が明暗にチカチカ瞬きはじめた。
 ふらり、とよろめきかかった澄人の腕を、両側から二人の力強い腕が支えてくれた。ずるずる仰向けにひっぱられる。
(……これじゃ、連行される宇宙人みたいだ)
 他人事のように考えながら、気がつくと、植えこみの木陰の中に寝かされていた。
「おーい。ゆっくり息吸えるか? し、ん、こ、きゅ、う、できる?」
 ぴたぴたと頬を叩かれて、澄人はなんとか顔を縦に振った。
「そりゃショックだよな。さっきの男、知り合いっぽかったしな」
 太一が澄人の制帽で、ぱたぱた顔をあおいでくれていた。
 見上げる空には、月桃の木の細かな葉が重なりあって揺れている。隙間からもれる陽が切ないほど美しく輝くのをながめながら、澄人は母国で命を絶たれた親友をしのんで、声もなく泣いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み