第8話

文字数 2,019文字

 メレンゲの浮かぶかぼちゃのスープを口へ運んで、私は小さく息をついた。早朝に起きだし、例の秘密部屋を再び探索しようという目論見はもろくも崩れ去ってしまった。なぜなら朝寝坊をしたからだ。この時ほど、誰かに起こしてもらわなければ起きられない自分の体質を恨めしく思ったことはない。ちなみに、起こしてもらったところで起きられるともかぎらないのだが。
 しかし、機会はもう二度と訪れない……というわけでもない。早ければ今日の夜にでも決行できるだろう。スプーンの先でメレンゲを崩しながら、私は斜め向かいにいる父の顔を盗み見た。若いころは歌舞伎役者が横に並びたがらなかったという美貌も今は色褪せ、眉間には深い皺が川の字に刻まれている。もみあげの白髪も増えたようだ。
 笛の音が響いてきたのをきっかけに私は口を開いた。
「お祭りはもう始まってるんですか?」
「猿田彦の道行きだよ」父は珈琲を口へ運んで言った。「ああして村中触れ回るんだ。茉莉花、後で坑道を見せてあげよう。トロッコに乗ってみたいと言っていただろう」
「それはもう十年も前の話です」私はスプーンを置いて言った。「お父様、少し目が赤いようだけれど、昨日は遅くまで起きていらしたの?」
「ああ」父は乾いた唇の端にかすかな笑みを浮かべた。「なかなか寝つけなくてね。柄にもなく感慨にふけってしまった」
「お部屋でお酒でも飲んでらしたの?」
「十時くらいまで書斎にいたよ。お祖父さんがそのころはひどく珍しかった写真を撮らせていてね……建築中の精錬所やなんか。それも後で見せてあげよう」
「十時までって、それは確か?」
「ああ。どうかしたかい?」
 まさか本当に時間が争点になってくるとは思わなかった。自分の慧眼を褒めてあげたい。父の言葉を信じるなら、十時以降書斎は無人だったことになる。
 私の推理はこうだ。「犯人」は内倉の中を確かめようとしたところ、反対に碧海によって閉じこめられてしまった。本来なら、そこに秘密の抜け道があることは知られたくなかっただろう。しかし、自分の顔を見られるのはもっと避けたい。結局、彼は陽炎のようにそこから消え失せてしまったのだ。
 その通路自体は洋館を建てた当時からあったものだろう。内倉には大切なものを収める可能性があるし、遊び心も手伝ってそんな地下道を作らせたに違いない。そして、ここが肝心なところだが、その通路の先がどこへつながっているかというと……最も可能性が高いのは作らせた本人の部屋。つまり、元は曽祖父の松五郎が使っていた父の書斎だ。
 しかし、その時間に父は書斎にいなかった……となると、犯人は何も父でなくともよいことになる。そもそも、内倉をあんなふうに改装したのは誰だろう? かなり贅を凝らした内装だからただの酔狂でもなさそうだ。曽祖父、祖父、父、兄……祖父の弟……。
 そんなふうに推理を巡らせていると、目の前に座った母が薄笑いを浮かべて言った。
「茉莉花さんも遅くまで起きてらっしゃったの? いけませんよ。嫁入り前の娘がそんな時間まで」
 隣にいる兄の咳払いが聞こえたが、母はそれを無視して続けた。
「やっぱり、貴方には見張りをつけた方がよさそうね」
「見張り?」
「ええ」と微笑み、母は横に座った自分の従兄弟を見つめた。
 胡散臭い口髭を生やし、黒髪をぴったりとなでつけた狭霧は、色の悪い唇に左右非対称な笑みを浮かべている。彼の唇は上下ともやたらに分厚く、それが痩せ細った体といかにも不釣り合いだ。
「それなら、今日のお祭りは私がお供しましょう。村には粗野な男が大勢いるようですし」
「結構です」私は即座に拒否した。「やえと碧海がいますから」
「ああ、例の自称画家ですか」
 そういう貴方も自称従兄弟でしょう。私は肚の中でそう毒づいた。義母が怪しげな旅館を自宅で営んでいた時分、全ての采配をこの男が握っていたという噂もある。お公家様の血を引く者が、果たしてそんな手腕を発揮できるものだろうか? 十五銀行が倒産するまでそれに気づかなかった粗忽者だというのに……。
 私はくっきりとした笑みを浮かべて言った。
「彼は貴方のいう乱暴な殿方たちとの付き合い方をよく知ってますから。要は、彼らの規則を破らなければいいんです」
「規則」狭霧は紅茶を口へ運んだ。「一体、どんなものです?」
「私たちと同じでしょう。他人の邪魔をしないこと。ただそれだけです」
「なるほど」と狭霧は笑った。「それは一理ありますね」
 私はスープをまた一口飲んだ。軽く煎ったかぼちゃの種が口の中に残る。それを噛み砕いて独特の甘さを味わいながら、私は母に向けてゆっくりと言った。
「人にはそれぞれの行動規範がありますから」
「良識に適ったものならいいんですけれど」
 母は私を見つめ返して恬淡にそう答えた。
 猿田彦の道行きを告げる笛の音は、聞こえたかと思えば途切れ、消えたかと思うとまた響きだす。遠い笛の音に耳をすませるように、私はそっとまぶたを閉じた。
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