第39話 項羽と劉邦 中国三大悪女、呂后 虞美人

文字数 4,337文字

『宮廷の諍い女』第35話 で曹貴人と富察(フチャ)貴人に遭遇した甄嬛(しんけい)は、2人を呼びとめ、世にもおぞましい人豚の物語を聞かせる。すっかりおびえた富察貴人は、甄嬛に報復されると思い込み、錯乱してしまう。
寵愛された(せき)夫人が、あまりおごり高ぶったため、呂后は皇太后になると、戚夫人の手足を切り、目をえぐり耳を削いだ。そして喉を潰して厠に!

美女の末路がそれほど悲惨とは残念ですね。

悲惨ではあるけれど、戚夫人は呂后を侮辱した。自業自得でしょう。女の恨みというのは深いですね。

6つの国々を次々と滅ぼし、前221年に秦王の政は中国大陸を統一します。政は始皇帝となり、前210年に病没。始皇帝の死後、秦の権力は宦官の趙高らに奪われ、過酷な刑罰と重税や、滅ぼされた6国の人たちにより恨みが蓄積します。やがて各地で反乱が頻発する中で、台頭してきたのが項羽と劉邦の二人です。(DAIAMOND onlineより)
劉邦(りゅうほう)は始皇帝の後、中国を統一し「前漢」を起こした人物です。呂雉(りょち)は劉邦が頭角を現すはるか前の貧しかった頃から連れ添った妻でした。

呂雉(息子-劉盈(りゅうえい))と側室(せき)夫人(息子-劉如意)は、まだ劉邦が健在である頃から、互いの息子同士の壮絶な世継ぎ争いをしていました。
この世継ぎ争いに呂雉の息子の劉盈が勝利し、紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となって権力を握った呂雉による戚夫人母子への報復が始まるのです。
呂雉は如意を毒殺した後、戚夫人を「人豚」にして(なぶ)り殺すのです。

両手両足を切り、目耳喉を潰し、厠に投げ落として、それを人豚と呼ばせた。

尚、呂雉は「中国三大悪女」として唐代の武則天、清代の西太后と共に名前が挙げられる一人です。

「四面楚歌って知ってる?」

 美容師さんが客に聞かれたらしい。

「八方塞がりのことでしょ?」

と私に聞いた。

 

項羽の陣営を幾重にも囲んだ劉邦の軍から夜、楚の歌が聞こえてきます。項羽は敵に投降した楚の兵が多いことを知って驚きました。有名な四面楚歌の場面です。
項羽のそばには常に最愛の女性、虞姫(ぐき)と、愛馬の(すい)がおりました。項羽は詩を詠じます。


 力は山を抜き気は世を(おお)ふ。時利あらず騅逝かず。騅逝かず奈何(いかに)すべき 虞や虞や(なんじ)を奈何せん。


 自分には山を動かすような力、世界を覆うような気魄があるが、時運なく、騅も立ちすくんでしまった。騅が走らなければ、どうしたらいいのか。虞や虞や、おまえをどうしたらいいのだろう――。

「美人(これ)に和す」。司馬遷の短い言葉が、胸に迫ります。「項王(=項羽)、(なみだ)数行下る。左右皆泣き、()く仰ぎ視るもの()し」。

項羽は覚悟していました。敗れた自分は散ればいい。だが虞姫はどうなる? 項羽は虞姫ひとりを心から愛していたのだと思います。(NIKKEI STYLE キャリアより)

鴻門之会(こうもんのかい)で、項羽側が宴に招いた劉邦を討ち取る絶好のチャンスがあったが、項羽は敢えてそうしなかった。宴の席で討ち取る等、卑怯者の所業であるという項羽の考えは、常に正々堂々と相手にも自分と同じ条件を用意してやった上で倒すという彼独自の美学に基づくものであったが、劉邦を生き長らえさせたことは、後の項羽にとって命取りとなった。 しかし、こうした項羽の生き方は、カッコいい男の生き様として中国民衆の心をとらえて離さず、今日でも項羽のファンは非常に多い。

個々の戦の能力という意味で、項羽は飛び抜けた存在だった。劉邦は項羽を倒した勝因について、次のように述べた。「帷幄(ちょうあく)のなかに(はかりごと)をめぐらし、千里の外に勝利を決するという点では、わしは張良(ちょうりょう)にかなわない。内政の充実、民生の安定、軍糧の調達、補給路の確保ということでは、わしは蕭何(しょうか)にはかなわない。100万もの大軍を自在に指揮して、勝利をおさめるという点では、わしは韓信(かんしん)にはかなわない。この3人はいずれも傑物といっていい。わしは、その傑物を使いこなすことができた。これこそわしが天下を取った理由だ。項羽には、范増という傑物がいたが、かれはこの一人すら使いこなせなかった。これが、わしの餌食になった理由だ」(PRESIDENT Onlineより)


劉邦の大風歌 漢建国記

紀元前202年、項羽を制し天下統一を成し遂げた劉邦は、漢王朝を建国し初代皇帝(高祖)に即位した。
しかし世は真の平和を得たわけではなく、漢の周辺では相変わらず戦が続いていた。

高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。2代目恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の妻呂皇后であった。

呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意 戚夫人の子供を毒殺、更にその母の戚夫人を人間豚と呼ばれるほどの残虐な刑で殺害、恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。

呂后の恐怖の専制政治が始まる。

三国志の劉備や朱元璋が憧れた男、劉邦?

【己の身を守るためにわが子を見殺しにする劉邦の卑劣】

最後の勝者となったのは劉邦である。彼は秦帝国との戦いでは振るわなかったものの、項羽との天下争奪戦においては、まさにその無頼漢としての本領を思う存分発揮して、権謀策略や汚い手の限りを尽くしてその天下取りを果たした。

項羽軍との戦争中、己の生き残りを図るために手段を選ばないという劉邦の冷酷さと卑劣さを語るエピソードが一つある。

劉邦軍は一度、項羽のつくった西楚国の首都である彭城(ぼうじよう)に攻め込んだことがある。項羽の率いる主力部隊の留守を狙った奇襲だったのだが、戻ってきた項羽軍が一挙に反撃すると、劉邦軍はたちまち雪崩を打って彭城から敗走した。

全軍敗退のなかで誰よりも早く逃げ出したのは、ほかならぬ総大将の劉邦である。彼は息子と娘の二人を引きつれて馬車の一台に乗って一目散に逃走していた。その後をすぐ、項羽軍の騎兵が追ってきたのである。

そのときのことである。馬車の乗せる「荷物」の量を減らして馬を少しでも速く走らせるために、劉邦はなんと、わが子二人をいきなり車から落としたのである。

それを不憫に思った馭者の夏侯嬰(かこうえい)が飛び降りて拾い上げると、劉邦はふたたび突き落とした。このようなことが三度も繰り返されたと、『史記』が記している。

夏侯嬰が劉邦を怒鳴りつけたので、劉邦は夏侯嬰を斬ろうとまでしたが、よくよく考えてみれば御者がいなくなっては逃走もできなくなるので、ようやく子供を捨てるのをやめにしたという。 この後、一行はなんとか逃げ切り、劉邦は再起することが出来た。 この一件を戦後に聞いた呂后は、劉邦に捨てようとした自分の子をかならず後継者にするように迫り確約させる一方で、夏侯嬰は後々まで、劉氏一門や呂后から絶大な信頼を得たという。


映画『鴻門の会』のラスト。


だが知る由もない。我が妻が息子たちを殺したことを。

さらに知る由もない。400年後、我が帝国が地上から消え失せることを。

「悪いやつほど天下を取れる」中国史の起源

この人はいったい、どういう人間性をもっているのだろうか。

劉邦のもとに集まってきた武人や策士たちも、じつは彼と同類の人間が多い。策士の一人である・陳平(ちんぺい)という者が親分の劉邦に対して、項羽軍と比較して「わが陣営の特徴」について語るときにこう述べたことがある。

「大王(劉邦)の場合、傲岸不遜なお振る舞いが多く、廉節の士は集まりませんが、気前よく爵位封邑(ほうゆう)をお与えになりますので、変わり者で利につられやすく恥知らずの連中が多く集まっております」

いってみれば、自分の生き残りのためにわが子の命を犠牲にするのに何の躊躇いも感じない劉邦という「人間失格」の無頼漢のもとに、「利につられやすく恥知らずの連中」が集まってできあがったのが、すなわち劉邦の率いる人間集団の性格である。

そして、結果的にはやはり、この「恥知らず」の人間集団が、あの豪快勇敢にして気位の高い英雄の項羽を打ち負かして天下を手に入れた。

歴史によくあるような無念にして理不尽な結末であるが、いわば「悪いやつほど天下を取れる」という中国史の法則がここから始まったのである。

このような法則が生きているなか、項羽のような貴族的英雄気質と高貴なる人間精神の持ち主は往々にして歴史の闇のなかに葬り去られて、劉邦のごとき卑劣にして狡猾な無頼たちが表舞台を占領して跳梁(ちょうりょう)することが多くなってくる。

その結果、中国史が下っていくにしたがって、項羽流の人間精神は徐々に死滅していき、劉邦のような「嫌なやつ」たちがますます繁殖していく勢いとなっているのである。(web Voiceより)


【長い伝統となる「恐怖の政治粛清」】

国家そのものを私物化した劉氏一族の独占的利権を守るために、劉邦は皇帝になった後に、もう一つ大きな仕事を成し遂げた。それはすなわち、かつての功臣たちに対する血塗れの大粛清である。

皇帝即位後の紀元前202年から前195年までの短いあいだに、彼は漢帝国の樹立に功績があった韓信、彭越(ほうえつ)英布(えいふ)などを、騙し討ちや噓の罪名を被らせるなどの汚い手段を使って、次々と殺していった。

そのなかで、三族まで処刑された韓信の場合もあれば、惨殺後の屍が塩辛にされた彭越の場合もあるという。

劉邦ならではの卑劣さと残虐性がここにも現れているのだが、天下取りの戦いにおいて彼のもとに集まってきた「恥知らず」の人間たちは、今度は一番恥知らずの親分である劉邦の謀略にしてやられたわけである。

こうして基盤を固め得た漢帝国は、その後もまさに劉邦流の「国家理念」と政治手法をもって天下を治め、前漢・後漢を合わせた四百年間にもわたって中国大陸を支配した。そのなかで、皇帝を中心とする家産制(かさんせい)国家と専制独裁の政治体制が完全に定着させられた。

漢代以後の歴代王朝も当然、国家の私物化と独裁政治の強化を図るのに余念がなく、そのために恐怖の政治粛清を断行することもしばしばあった。無頼漢皇帝劉邦の残した「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」という二つの遺産は、そのまま中国の長い歴史の悪しき伝統となったわけである。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

作者

英幸《えいこう》

亜紀 英幸の義母

英輔 英幸の父

美登利

瑤子 亜紀の従妹

幸子 英幸のママ 英輔の前妻

香《こう》

三島 英輔の会社の部下

圭 英幸の友人

葉月

夏生

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色