第16話 エルガー チェロ協奏曲
文字数 1,286文字
エルガーのチェロ協奏曲ジャクリーヌ・ディプレの演奏。
たまたま『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』という映画のビデオを借りて観た。内容も衝撃だったが、第1楽章に魅了された。すぐに買った彼女のライブ盤には観客の咳まで入っていて、他の演奏だと違和感が……
コロナで中止になってしまったが、コンサートに行くつもりだった。プログラムにエルガーのチェロ協奏曲が。滅多にお目にかかれない。
残りの人生で生演奏を聴く機会があるだろうか?
中居くんのドラマ『砂の器』の途中に流れた。第1楽章。
2楽章は賑やかだ。
社長と夫人は就寝前に、レコードを聴く。社長の不明瞭な言葉でのリクエストをあのひとは理解し、レコードをかける。曲が始まると腕を上げ、指揮者の真似。振り下ろすと曲は始まる。老夫妻は笑う。本当の娘のようだ。あのひとは洗い物をしに行く。英輔さんが手伝う。エルガーのチェロ協奏曲……
無知な私は高尚なクラシック音楽に眠気を誘われソファで眠った。体力も気力もあのひとにかなわない。
私は車に乗り窓を開けた。曲をかけた。あのひとが昔かけたレコードの曲。英幸君は勿論知っていた。
話し込みそうになり彼は笑った。
彼は片手を上げた。気をつけて……奥様に埋め合わせを……
あのひとが腕を振り上げ指揮の真似をしたように見えた。あなたには雑音ね……ヒヒっと笑い声がした。名状しがたいその微笑み……
あの人が好きだったジャクリーヌ・デュ・プレ。悲劇のチェリスト。天才の悲劇。難病の……
ジャクリーヌは28歳のころ指先の感覚が薄くなっていることに気づく。
多発性硬化症(MS)の発症だった。
予想外の速さで症状は悪化し、演奏中チェロの弓を落とすようになり聴覚まで消えていき事実上引退する。
体中に震えがきて食事も喉を通らない。誰も手をつけられない。
病気の進行はジャクリーヌの脳幹を侵し人格を破壊し言語能力を奪っていく。字を書くことは困難になり、記憶力が衰え、家族が訪問したことを忘れ、誰も会いに来てくれないと狂気のように怒り狂った。
彼女の感情の暴力はいちばん身近にいる家族に向けられた。特に母親に凶器のような残忍な怒りが浴びせられた。
MSは筋肉のコントロールに影響し、自分で頭を支えることも言葉を発することもできなくなる。
そんななか、夫ダニエルはパリで別の家庭を持つようになり、ジャクリーヌはひとり自分の世界に閉じこもるように。彼女は闘病生活を続けたが、1987年10月19日に42歳の若さで世を去った。
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