第46話 放送禁止とか自粛とか

文字数 3,744文字

発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方」「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲に指定された事でそれ以降原則として民放では放送されなくなる。この制度自体は1988年に効力を失ったが、影響を受け続けることになる。

1998年泉谷しげるが歌ったカバーバージョンが『ニュースJAPAN』(フジテレビ)で流れたことで久々に民放の電波に乗り、更に2000年には桑田佳祐が自身の番組『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』(フジテレビ)でこの曲を歌ったことにより大きな反響を得る。この際、テロップで「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」との説明が付されていた が、以降多くの歌手がテレビでも歌うきっかけとなった。

一方、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、美輪本人による歌唱はもとより、様々な歌手によるカバーも放送されていた。デビュー60年を迎えた2012年には美輪が『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場、本曲をほぼフルコーラスで披露した(楽曲はやや短くアレンジされた)。発売から半世紀も経っていたが、SNS上でも若年層を中心に大きな反響を呼んだ。(Wikipediaより)

三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌。

作詞作曲を開始した切っ掛けは、興行主の手違いで行うことになった筑豊嘉穂劇場のコンサートである。当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したという。

初めて発表したのは1964年、リサイタルにて歌唱。1965年NETテレビ木島則夫モーニングショー』の「今週の歌」で発表したところ、非常に大きな反響を呼び、異例のアンコール放送となった。同性愛者であることを公にしてから低迷していた美輪が、この歌がきっかけで再び脚光を浴びることになった。白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度成長期にエンジニアへと成長した凜々しい青年を演じた美輪の姿は、多くの視聴者の胸を打った。(Wikipediaより)

美輪さんのは通して聴いたことはなかった。桑田さんのCDを流していて、歌詞をしっかり知りました。
複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている。(Wikipediaより)

1964年12月東京芸術座が公演した『橋のない川』で、音楽を手がけた尾上和彦が、被差別部落の京都市伏見区竹田地区にある部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、教えてもらった民謡を編曲して使ったものである。

尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である。唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げた。

それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった。後藤は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける。

後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いており、後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し、赤い鳥を新結成するに至る。赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った。

フォークシンガーたちに広まる前に歌唱していた合唱団「麦」では、唄が被差別部落のものであると紹介していたが、フォーク界に広まるにつれて「竹田」の正しい読み方や唄の出所はわからなくなっていった。赤い鳥も当初は唄の由来や意味も理解しておらず、題名の地名も大分県竹田市のことだと思っていた。(Wikipediaより)

フォーク・クルセダーズの作詞を担当することになる松山猛が、京都での中学時代に、松山の中学との喧嘩に明け暮れていた京都朝鮮中高級学校の学生たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。松山はトランペットの練習を九条大橋でよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、メロディ歌詞を教わり、松山は彼から、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたものと、朝日辞典を渡された。

後年、松山はフォーク・クルセダーズのメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の「臨津江」とは全く成り立ちが異なる。教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた。それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。1966年のことだった。

デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として1968年2月21日に東芝音楽工業から発売される予定だったのが、このアマチュア時代から歌い継いできた「イムジン河」だった。東芝の高嶋弘之ディレクターによれば、「帰って来たヨッパライ」でデビューするようフォークルを説得していた頃には既に「第二弾は『イムジン河』で行ける。『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」と考えていたという。つまり、「ヨッパライ」は「イムジン河」の前座だったということになる。少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があった。ところが発売前に数回ラジオにかけた後、「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日であり発売予定日の前日の1968年2月20日突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定(すでに13万枚が出荷され、うち3万枚が未回収に終わる)結果的に放送自粛的な雰囲気が広がる。こうした風潮の中、京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオでかけ続けた。(Wikipediaより)

中学1年の合唱コンクールで歌った。歌の好きな生徒がリクエストして決まった。先生も困っだろう。歌詞は故郷を想うものに変えられたが。ほとんどの生徒は深い意味は知らずに歌っていたと思う。

1968年にビクターレコードと契約して、4月始め毎日放送のスタジオを借りて「くそくらえ節」をA面に「山谷ブルース」をB面で吹き込み「山谷出身の歌手」ということで、5月15日から大々的に売り出す予定だった。ところが、レコード発売直前になって、レコード倫理規定委員会から「思想的偏向性(国家権力や政治家を徹底的に風刺した歌詞となっている)」があるということ、「くそくらえ節」と言うタイトルではまずいと言うことで「ほんじゃまあおじゃまします」とタイトルに改名されたものの、歌詞に問題あり(歌詞の中の政治家を批判する内容が、近く行われる参議院選挙に影響が出る)と言うことで、その歌詞も見直し、見本盤までは制作はされたが、発売中止になった。

結局、B面に収録されていた「山谷ブルース」をA面にして(B面は「友よ」)、デビュー曲として発売(Wikipediaより)


中学3年のとき、同級生の男子が文化祭でひとりでギターを弾きながらこの曲を歌った。もっと長いですが……先生はよく歌わせたな、50年以上も前の話。
歌詞の内容は、山谷の住人である日雇労働者が、独白する内容となっており、これは岡林本人が山谷で日雇い労働者として働いていた時に経験した内容が元になっている。(Wikipediaより)
好きな作者さんの作品に山谷が出てくる。『山谷』『昭和』『あしたのジョー』

歌詞の中で『立ちん坊』という言葉があるが、ここでは山谷の日雇い労働者はいい職にありつこうと、毎朝暗いうちから仕事が貰えるまで立って待ち続けていたという。そういう情景を描いている。それが『立ちん坊』だ。


吉幾三さんのカバー
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登場人物紹介

作者

英幸《えいこう》

亜紀 英幸の義母

英輔 英幸の父

美登利

瑤子 亜紀の従妹

幸子 英幸のママ 英輔の前妻

香《こう》

三島 英輔の会社の部下

圭 英幸の友人

葉月

夏生

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