両者の信頼の証

文字数 1,164文字

 最悪の気分だった。

 『不可視のトゲ』を纏ってからはずっと誰かを傷つけるのが怖くて。その中で初めて、私に触
れても無傷の人がいて、本当に嬉しい気持ちだったのに。

 あんな乱暴な人だったことが、ショックでたまらなかった。

 私と、私の大好きな健次郎さんの苦しみを『空想』と呼んで笑った。思い出すだけでも、ぞっ
とする。

 あんなに他人に怒ったのは、初めてだった。

 誰かに申し訳ないと思いながら生きていた中で、あんなに自然と怒りがこみあげて、全力で、
しかも、初めて男の人に自分から暴力を振るった。3回も頬を張った。

 後ろめたさは全くなかった。

 全部、あの人が悪い。

 自己中。自分勝手。デリカシーの欠如。乱暴者。ナルシスト。転びそうになった私を拾い上げ
たのも、自分を良く見せるための演出。助けられたんじゃない、ダシに使われた。

 「どうだった?」

 『エージェント神原』に帰り着いた私たち。神原さんに青バラを探し、青バラが見つかったこ
とだけを淡々と報告する足利駆。私に乱暴したことを平気で割愛する根性に腹が立つ。

 「じゃあ俺、買い物行くから。今日は肉じゃがな」

 「おっ、楽しみ~。駆の料理で一番好きかも」

 しんとした室内で唯一楽しそうに振舞う神原さん。

 「俺と神原の分だけな」

 そんな事、言われなくても分かってる。事務所を出て行く足利駆の背中を思いきり蹴飛ばした
い。

 「聞きたかったのは青バラだけじゃなかったんだけどな」

 笑いながらソファに背中から倒れ込む神原さんが、私をチラと見る。「ひっ」と怖くて声が漏
れてしまった。

しかし気にすることなく、もう一度、私に問うた。

 「で、どうだった? 『令和の怪盗』こと足利駆は」

 足利駆の名前を聞くだけで、冷酷で意地の悪いあの人の顔が瞬時に出てくるのが、たまらなく
ストレスだった。

 「き、らいです」

 大の大人に対してもっと言葉を選びたかったのに、気持ちが先回りして稚拙な回答しか出てこ
なかった。

 こんな回答で相手はがっかりするだろうか。しかし、それは杞憂だった。

 「よく言えました」

 とクスッと笑いながら不意に立ち上がる神原さん。急に壁際の棚の方に向かってどうしたんだ
ろう。

 再びこちらを振り返ると、大きなカエルのぬいぐるみを正面に抱えて子供のように笑う。

 「ここの事務所、契約が成立した時はクライアントさんと握手するのが決まりなんだ。俺はこ
れを『両者の信頼の証』と呼んでいる」

 レモンのような色をしたカエルの右手がこちらに伸びる。『トゲ』のある私への配慮に、心が
少し癒された。

 そこから、この人への警戒が解けて、自分の身の上話や健次郎さんとの馴れ初めを打ち明け
た。

 いい気持ちのまま、今日は眠れそうだった。

 「お前まだいたのかよ。お前の飯は無いって言っただろ」

 タイミング悪く帰ってきたこの男さえいなければ。
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