チャンス

文字数 5,617文字

 5月25日 13時 

 平日だというのに、高校生が堂々と学校をさぼり、僕の家にやって来た。

 「上がっていくかい」

 為す術なし、と言うのが顔を見ればわかる。手ぶらだし、小毬とお別れの挨拶でもしに来たの
だろう。

 「ああ、お邪魔します」

 あれだけ自信に満ちていた少年が、萎れていく花のように項垂れている。愉快だった。こいつ
は、僕が通っていた高校のクラスメートに性格が似ていて好きじゃなかった。僕のことを童貞だ
からという理由だけでからかってきた。頭の悪いあいつ。

 そいつに恋をする女たちもそうだ。顔だけはかわいいが、性の経験が堆積した汚い女、男を知
り尽くしている汚れた女。

 でも、最後に勝つのは僕だ。『令和の怪盗』なんて身の丈に合わない称号をもらったこいつ
も、高校にいたバカなあいつらも、落ちぶれていくんだ。

 神は見ている。だから僕のように才能があっても劣悪な環境にいる人間が、いずれは報われ
る。そうやって世の中は成り立っている。

 12年前に父親が勤めている企業の社外秘を漏洩した時も、その父親の顔に似てきた僕を、母
親が冷たく扱い始めた日々も、無駄ではなかった。

 家では何度も暴力を受けた。箸の持ち方、趣味趣向、好きな食べ物、得意教科。父親と似通っ
た傾向だからと、母親に矯正された。

カエルの子はカエル。この言葉を何度聞かされたか。

犯罪者の子は犯罪者になる可能性が高い、なんてワイドショーの受け売りみたいな文句で、父親
と僕が得意とする理系の知識を封印するように僕を偏差値の低い高校に通わせ、大学は私立の文
系大学へ行かせた。学費はすべて、新事業を立ち上げ、成功した父親の資産を援助してもらっ
た。

大学3年の秋から就職活動を始めた。テレビのコマーシャルで登場するような大手企業に就職す
るように母親から厳しく言われたが、それらはすべて不採用となり、中堅はおろか、面接を受け
た僕もよく分かっていない中小企業に就職した。

それを伝えた時の母親の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。

 『せっかく似せてこないように頑張ってあげたのに、使えないわね』

 母親の人生に散々振り回された僕の心は、限界だった。

 そうならずに済んだのは、他でもない、針本小毬の存在。

 母親のせいで女性恐怖症になった僕が、唯一愛せる女の子。

綺麗な処女の身体をどうにかして守りたい。

彼女と運命の出会いを果たしたのは、彼女が小学5年生だったころ。本社とは遠くの営業所に配
属された僕は、現状を憂いながら夕闇の下を歩いている時だった。

頬に叩かれたような痣がある女の子。しかし、綺麗な顔をしていた。中学の頃、母親に読まされ
た小説の表紙を飾るヒロインのような可愛らしい顔。これだけかわいい顔なら、中学か高校にで
も上がれば、きっと普通に男性経験をしてしまう。僕を童貞だと笑ったあいつらみたいな不純な
人間になってしまう。

この子の純心は僕が守らなくてはいけない。

 夕闇の微弱な光に当てられた少女を目にした瞬間、運命的に直感した。

 彼女の母親の事情を知った僕は、やはり運命を感じた。母親という生き物を畏怖する者同士
で、この子とは強く繋がれると感じた。小鞠ちゃんは僕のヒロインだ。失いたくない。瞬時に計
画を立てた。

 母親に暴力を振るわれる彼女。特別支援学校の教師や職員とも特別親しいわけでもない彼女。
日常的に身体的接触があるのは、母親だけ。

 彼女にトラウマを抱えさせ、僕以外の人間を完全に信用できなくするための計画。

 それが『ロゼ』だった。

 ありもしない伝説を、現代の現実世界で実現しているように言い聞かせる。そしてその災いを
実際に見せる。

十代の彼女は、すべてを信じた。信じざるを得なかった。

父親とコンタクトを取り、自分がどれだけ苦しい思いをしたかを伝え、彼が保有するAR技術を
利用し、実行に移した。

まずはカメラで自身を撮影。撮影した僕の上半身に、紫色の毒々しい水玉模様をした仮想物体を
作り出す。

3日間、僕は家を出なかった。彼女に会うことなく、3日間が経過。毒に説得力を持たせるた
め、食事、睡眠をほとんど摂らずに3日を過ごした。

単なる不摂生で再会した僕、紫色をした仮想の毒に苦しむ演技をする僕を、彼女は信じ込んだ。

純粋でかわいらしい彼女。最高の拾いものだった。彼女に再会した夜は、たくさん食事を摂っ
た。たくさん寝た。翌朝には11歳の彼女を思い、自慰行為を5回連続で行った。今までのクソ
みたいな人生に、初めて愉悦を感じた。

無垢な彼女に、女の身体を知らない僕がプロポーズをしたのは、『ロゼの眼』の準備ができた
時。

彼女の母親が蒸発したのをいいことに彼女の世話を欠かさず行っていた僕は、彼女を新しい家の
地下へ連れて行った。再会した父親の資金援助で建てた一軒家だ。

『ロゼの眼』が設置された部屋。電気は付かないが、夕日が十分に当たるので、問題ない。むし
ろその方が、彼女の裸体が神秘的に映り、僕をますます興奮させる。

『ロゼの眼』と称した、真っ黒なディスプレイを搭載したカメラ。黒と灰色の瞳孔と説明したカ
メラのレンズ。一糸まとわぬ彼女は信じて、その身をゆだねる。

そして、彼女の裸を手に入れた。僕を裏切るようなことがあれば、世間にこれを公表してしまえ
る。すなわち、抑止力。彼女本人にとっては、この世のどんな兵器よりも恐ろしい事だろう。

僕が事故で死んでも、父親の金で雇った使用人がネットへの拡散を計画してくれる。ただ、あく
までこれは最終手段だ。僕の最愛の妻となる少女の裸をやすやすと公表したくはない。使用人に
も動画ファイルを決して開くなと釘刺している。だから使用人の業務端末には閲覧履歴やその他
の怪しい動作が行われていないか毎日目を通している。

それだけでも大変だったのに、あの少年。足利駆が小毬に接触したせいで僕の計画が狂いかけ
た。

そもそも高校へ入学させたことが間違いだったが、小毬は頑として普通の学校生活を送りたいと
言っていたから断れなかった。通信教育を提案したかったが、真実を隠しておきたかった。

そこで僕は、咄嗟の判断で『青バラ』と、それに認められるというシステムを作り、『青バラ』
を手に入れるという表向きの目的を作り、6月に行われる儀式までの数日間を乗り切ろうとし
た。

連休最終日にカミングアウトをしたのは賭けだったが、足利駆は小毬に好意を抱いていたのを
薄々感じていたので、結果的に抑止力も使って精神の核を破壊することに成功。

小毬が笑顔を失ったのは残念だったが、運命を受け入れることになった彼女の哀愁漂うところ
も、かわいい。僕を拒めない彼女の顔が、余計に性欲をそそる。6月1日までのカウントダウン
が待てない。

儀式では、初めてのキスと、初めての性交渉を行う。僕が作った設定。

礼を言うよ、足利駆。

君のおかげで、針本小毬のことをさらに支配したくなった。

 それなのに、なんだ。

 さっきまで消沈していたガキの顔が、鋭気に満ちていた。

 「俺も手に入れたぜ。地獄に叩き落せる最高のカードを」

 そう言って、ゲスのように笑う足利駆の手に掲げられたスマホ。その画面に映るもの。

 「しっかし、お前の親父さん、すげえな! こんなありもしない事実を現実のように作り上げ
られるんだもん。CGによる合成じゃないんだぜ。あ、言わなくても分かるか。これ以上は釈迦
に説法だな」

 「おい…、消せ…」

 気持ちの整理を待つことなく、突発的に自分の口から言葉が出た。

 「AR技術を極めたらこんなこともできるんだな。ほら、よく見て聴けよ。お前の父ちゃんと
母ちゃんが…」

 「やめろよ!!!!」

 聞こえる喘ぎ声は、両親のものを完全に再現している。近年では視覚のみならず、聴覚や味覚
などにも仮想現実を持ち込む研究が進められているというが、父親は、僕に共有することなく、
こんなものを隠し持っていたのか。

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 「いいじゃん、別に。これは仮想現実なんだから。一部の人間は分かってくれるんじゃない
か? まあ、一部の人間っつっても、ウン十億の世界人口のうちのほんの一部だから…これ広ま
ったら結構ヤバいな」

 「うるさい!!」

 足利駆は、悪魔のように笑っていた。目を合わせたくないほどに、薄汚れた笑顔だった。

 「なんだよ。せっかくお前の父ちゃんが頑張ったのに。母ちゃんの姿と声は、アダルトサイト
から熟女系のを拾ってきて、あとはお前の幼少期に撮ったホームビデオの顔と声の情報から、今
風の画質と年齢に編集。顔と体を自然にドッキングし、声もそっくりそのまま母ちゃんが喋って
るみたいにプログラミングした。しっかし、だれが見聞きしたところで仮想現実なんて思いもし
ないな、これは。さすがは時の人となった稲村健太郎様。でも、芝居の方は全然だから、再現率
を上げるために自慰行為をさせながら、俺が用意したセリフを読んでもらった。いいじゃんか。
憎かったんだろ? 情報漏洩の罪で捕まったくせに家族に謝罪することなく消えた親父が。その
せいで、虐待じみた教育を施した母親が」

 「くっ…!」

 違う。

 「チャンスだぜ、復讐するチャンスだ。古村健次郎、あんたに地獄のような人生を歩ませてき
た両親に天罰を与える絶好の機会」

 違う違う違う。

 「お前に何が分かる!!!」

 違う!

 叫んだ。腹の底から声が出た。

 確かに、地獄のような人生で、最低な両親だった。それでも、俺にAR技術の一部を譲った父
さんと、俺の飯も平等に、いや、それ以上に与えてくれた母さんは、全てが最低ではない。

 身体が崩れ落ちる。

 鼻の奥がツンと痛み、視界が白んだ。

 鼻水が、涎が、涙が止まらない。

 「ふ、ふざけるな…。あぁぁぁぁ…」

 中途半端に最低だった両親を、完全に憎むことなんてできない。

 小毬が俺の元からいなくなるのに、俺は何をしているんだ。

 真っ白なスニーカーが、ぼやけた視界に現れた。

 「俺は覚悟できてる。好きな女が痛い目に遭っても、一生をかけて、いや違うな。永遠の時間
をかけて幸せにする。まだ続けるってんなら受けて立つ」

 「この!!!」

 台所まで全力で走り出し、包丁を取り出した。

 「足利駆! ここで…、死ねぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 刃先が腹に突き刺さる直前、視界から身体が消えた。

 腕を掴まれ、関節に激痛を伴うような姿勢で、床に抑えつけられた。

 「んだよ…、クソっ!!」

 包丁を取り上げられ、足利駆は部屋の隅にそれを投げた。

 「針本はどこだ?」

 「…」

 「おい!!」

 「ひいっ!?」

 情けない声を出してしまった。屈辱だ。

 「どこだよ?」

 「と、隣の部屋だ」

 「…そうか」

 と、足利駆が背を向けると同時に、僕は再び包丁を拾い上げようと目を向けたが、ピタリと止
まり、俺の方を向いた。

 「この様子だと、どうせ軟禁でもしてんだろ? お前も来い。鍵を持って一緒に」

 察しが良すぎるだろ。頭の悪そうな見た目のくせに。

 鉄格子の奥で生気を失った小毬の眼の色が、あからさまに変わった。

 「駆…くん?」

 「よお」

 足利駆を見て、目に光を取り戻した。僕を見る目と、明らかに違う。

その光景に胸が締め付けられる。

 頭の中が真っ白になる。

 空白。

 空白。

 空白。

 その上に、真っ黒な憎悪が塗りつぶされる感覚。

 「おら、開けろよ」

 足利駆の偉そうな態度に従わざるを得ない俺は、檻を開錠した。

 「駆く…」

 ガキの方へ歩み寄ろうとする女を力づくで僕の方へ引き寄せた。

 「なんなんだよお前は! 誰のおかげでここまで生きて行けたと思っているんだ!? あ
あ!? 僕がいなかったら、蒸発した母親のせいで、よく分からない親戚の家で肩身の狭い思い
をしながら生きていく羽目になってたんだぞ!? 感謝しろよ! 感謝を態度で示せよ! 僕が
いなかったらあんな贅沢なマンションにも住めてないし、僕がいなかったらまともに勉強だって
出来なかった! ちょっと顔が良いからって調子に乗るなよ!! お前なんか!! 僕に閉じ込
められたこと、僕に裸の写真を広められる恐怖を、日下部葵を殺したショックを悪夢として見続
ければいいんだ!!」

 近くにいる足利駆に、いつ殴られてもいい。その覚悟で、僕を裏切った愚かな女に溜め込んで
いた文句を吐き出した。せめて、僕の言葉でこの女の心を傷つけてやりたいと願いながら。

 叶わなかった。

 頬に、痛みが走った。

 「分かんないくせに!!」

 いつも弱そうにしている女が、怒声を吐いた。

 「私が…、駆くんが、どんな思いで苦しんだかも分かんないくせに…」

 なんだとこの女。

 もういい、こっちだって手を出してやる!

 再び頬を張られた。

 「私がどんな思いであなたのことを信じてきたか想像できる!? それなのに、あなたは、ア
オイ先生を殺して、駆くんたちに酷いことを言って、私を傷つけた!」

 頬を張られた。

 「私の処女が欲しいから!? ふざけんな!!」

 頬を張られた。

 「ぼ、僕がいなかったら快適な暮らしができなかったのは事実じゃないか! 高校だって、行
けなかったかもしれないし!」

 涙が、目の表面に浮かび上がるのをこらえながら、僕は反論した。

 「それは感謝します。でも、それをこの状況で強要するのは、正直ダサいです。今まで恋人がで
きなかったのも納得できます。…気持ち悪い」

 針本小毬が発する言葉が、無慈悲に突き刺さる。

 僕が作り話として生み出したはずの『不可視のトゲ』は、存在していた。

 再び、涙が出てきた。

 そっちだって、そっちだって、分かんないくせに。

 内なる心境が声となって出ることはなく、ただ女の前で情けなく、涙を流すことしかできなか
った。

 そして、悪魔的なタイミングで、サイレンの音が聞こえ始めた。

 次第に大きくなる音で、それが仮想でも幻覚でもなく、現実のものだと思わせる。

 ドアが乱暴に開く音。何人もの靴が床をドタドタと叩く音が、無情に鳴り響いた。


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