小毬

文字数 2,201文字

 5月27日

 目が覚める。

 頭痛がかなり緩和されて気持ちがいいので、掛け布団を蹴っ飛ばし、PCのデスクへと戻る。

 あと少しで計画が完成する。後は、現実と理想に齟齬が生じてないかすり合わせをして、神原
から客観的な意見をもらう。

 「おはよう。垂れた涎、落ちた髪の毛、フケ、皮脂、駆が全部洗ってね」

 「わーってるよ、うっせえな」

 シャワーでも浴びてればよかった。しかし昨夜は、身体を洗う余裕するすら微塵もなかった。

 「神原さんの言う通りですよ。ていうか、風邪でもないのに平気で学校を休める精神がどうか
してます」

 「はいはい、針本は相変わらず口うるせえな。真面目でいい子だな、悪い意味で。…針
本!?」

 俺たちの空気に紛れ込むように存在していた針本小毬が、俺の驚嘆を過剰に笑う。

 「いくら何でも、驚き過ぎじゃないですか?」

 「いや、もうお前、ここに用はねえだろ」

 針本の顔を直視できない。どうやら俺は、本当にこいつのことを、…本当にアレらしい。脳
が、そんな感情を侮蔑する。

 「いやいや」と神原が必要以上ににやけ顔で笑う。

 「依頼人のアフターケアは大事でしょ? 暴力を受けたり心の傷が未だに修復してなかった
り。特に彼女は未成年だから慎重にならないと。『青バラ』なんかよりもチョーデリケートなん
だから。駆って本当にデリカシーないよね?」

 「そうですよ。私だってご挨拶くらいはしておきたいものです。それに比べて、駆くんは本当に

デリカシーのデの字もないんですから。身勝手、自己中、エゴの塊。もっと他人のために尽くし
てあげた方がいいですよ?」

 「アフターケアなんて必要ないくらい健康体じゃねえか」

 久々にやって来たと思えば、妙に懐かしさを感じるノリで神原に同調する針本。嬉しいような
殺したくなるような。

 イライラと腹の底を沸騰させていると、思いつめた顔で、針本が俺を凝視していることに気付
いた。

 「今、忙しいですよね」

 「ああ?」

 ああ、俺は忙しい。親父に返済する2億をどのように稼ぎ、そこからどうやって精神的立場を逆
転させるかまでの計画書を超綿密に作成している。学校を休んでまで計画書に集中していたい。
1分1秒も失いたくない。特に、今は頭痛が晴れてブラックコーヒーを飲んでからベストコンデ
ィションで思考が巡るだろうから、一抹の雑念も入れたくない。

 「別に、ちょっとくらいならいいぜ」

 俺のバカ野郎!

 喜ぶ童顔に、「やっぱ無理」なんて言葉を掛けられず、大急ぎでシャワーを浴び、着替えを済
ませ、そのまま2人で階段を降りた。


△△△△△△△


 海浜公園まで歩いたところで、空いたベンチに腰掛ける。

 「家、遠くなったのか?」

 「まあ、はい」

 古村健次郎の援助で住んでいたマンションの一室は、援助していた本人が殺人・誘拐の罪で逮
捕されたため、もちろん封鎖された。

 「電車で1時間。親戚の方には迷惑かけられないので、私もあの学校から転校します」

 「そうか…、ああ?」

 頷きながら、話の内容に疑問を感じた。

 こいつ今、『私も』って言ったか?

 「駆くん。行くんですよね? 海外に」

 神原が喋ったのだろうか。

 「駆くんが起きる以前に神原さんから聞きました。神原さんの師匠だった人のもとで働くっ
て。アメリカの方が稼げるって…」

やっぱりな。余計なことしやがって。

「だったらなんだよ」

せっかくこいつから離れられると思ったのによ。こいつも神原も、めんどくせえ。

「覚えてますか?」

「何をだよ?」

「青島で古村さんに連れていかれたときの、私の言葉」

「…覚えてねえな」

覚えている。脳裏に深く刻まれている。こいつが、俺のことを…その、アレだということ。

「だから、これ」

針本小毬は、小さなカバンから、立方体のケースを取り出した。その真っ黒なケースから、取り
出された銀色が、太陽の光に反射する。

青いバラの彫刻が施されたネックレスに、俺は目を見開いた。

「知ってますか? 青いバラの花言葉」

針本が笑った。

「『不可能』、だけじゃないんです。『夢かなう』『奇跡』『神の祝福』なんて意味もあるんで
すよ。だから私は、…私は、私の大好きな駆くんの夢が叶いますように、って、気持ちを込めて
買っちゃいました。あと、その…、私のせいで2億の借金をしたと聞いたので、せめてもの償い
を…」

 風の音と波の音だけが鳴り響く。そんな数瞬を過ごしたのちに、俺もカバンから、黒いケース
を取り出した。

 「はあ、なんでかな」

 呆れにも近い笑いが口を突いた。

 俺は、黒いケースの蓋を開け、針本が掲げているものと鏡写しのように同じものを取り出し
た。

 「お前と被るなんて、俺のセンスも落ちたもんだ」

 「えっ…」

 「くそ真面目なお前が、やりたいことやれればいいな、生きたいように生きれればいいなって
思って買ってきたんだよ。お前のことだから、自分のせいで俺が借金地獄に落ちた、なんて思っ
てそうで気の毒だったからな。あの父親に土下座をしたこの俺のプライドが呪いにならないよう
にな」

 目をそらしていると、涙声が聞こえた。

 「ありがとう…駆くん…。大好きです」

 控えめに触れた、針本小毬の手の感触を、いつまでも忘れることはないだろう。

 まったく同じものをお互いの首に掛け合った。

 「俺も、お前のことは好きだからな。俺が帰ってくるまで他の男に惚れんじゃねえぞ」

 小毬。

 本人に届くか届かないかの小さな声が、浜風に消えた。
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