最底辺

文字数 1,773文字

 10月

 「瀬川君! お疲れ様!」

 「かっこよかったよ」

 部外者どもの嬌声が、15時の陸上競技場に響く。新人戦の個人種目で、俺と同じ陸上部1
年、瀬川秀人は俺の同級生含め、多数の女子どもに祝福されていた。

 別に、それが悔しかったわけじゃない。純粋に、俺よりタイムが速いからだ。この男は。

 後輩のくせに。

 俺の方が努力しているのに。

 俺の方が練習量を多くこなしているのに。

 俺の方が。俺の方が。

 …だめだ。そんなことを思っては、いつまで経っても俺は雑魚のままだ。まずは思考から強者
にしなければ。目先の勝負にこだわるな。

 「最後に勝つのは、俺だ…」

 涙が、零れ落ちた。

 違う。

 毅然としろ。感情をコントロールしろ。

 瀬川にこだわるな。あんなの以上の相手にも俺は勝たなきゃいけないんだ。

 気配を感じる。大泉か、妹の海莉だろうか。

 「お疲れ」

 俺の予想に反して現れたのは、風見風香。涙で濡れた顔を慌ててそらす。

 「いいのかよ。クラスのやつもいるんだろ?」

 涙声にならないよう、慎重に声を出す。

 「関係ないよ」

 「はあ?」

 違和感が耳を通った。

 視線を合わせる。

 「全然、関係ないんだから。あんたのこと、認めないやつがバカなんだから」

 風見風香が、ぼろぼろと大粒の涙を落とし、見っともなく泣いていた。

 それから数日後、俺たちはどちらが正式に言ったわけでもなく、気付けば交際していた。

 交際してから、俺の思考はわずかに変化した。それが必ずしも良い方向へ変化したかと言われ
れば定かではないが、俺はそれを受け入れようとしていた。

 夕方、手を繋いで歩く帰路。

 あいつの部屋で合わせた唇。

 誕生日にもらったキーホルダー。

 数えるとキリのない、当たり前な風見の姿、所作、表情、言葉。

 風見風香の存在が、凝り固まった俺の常識を簡単に崩していく。

 失っていく競争心。養われていく楽観視。

 進化しているのか、あるいは退化しているのか分からない状態だったが、確実に言えるのは、
風見と一緒にいることで俺の生活は『いい感じ』なった。勉強も部活も、少しずつではあるが良
くなっていく。親兄弟の嫌味も、あの時は減っていたような気がする。

 それなのに。

 俺は、裏切られた。

 それは、3年の5月。

 「ごめん、他に好きな人が出来たから」

 ある日をさかいに断られ続けた。家に行くのも、一緒に家に帰るのも、一緒に学校で昼飯を食
べることも。夜に電話をすることも。

 「誰かに影響されたわけじゃなくて、私の意思で好きになった人がいたから」

 声が出なかった。

 下を向いたきり、何も喋れなくて、「じゃあ、今度は友達として」という風見の声で俺が顔を
あげると、後ろ姿だけが目に映った。見慣れないヘアピンを髪に挟んだ風見は、逃げるようにそ
の場を後にした。

 瀬川の家にまで行き、掴みかかった。玄関から出た瞬間に、部屋着の胸倉を掴んで顔を引き寄
せた。

 「お前だろ…、お前がなんかしたんだろ!?」

 「え、何のことですか?」

 困ったような表情で、いや、困ったような表情を作って、瀬川秀人は、俺の機嫌を取るよう
に、いや、嘲るように笑った。こういうところも器用なんだな。

 「ちょっと、あなた何してるの!? 秀人が何かしたの!?」

 瀬川の母親が止めに入ったところで、俺は掴んだ胸倉を突き放した。自分の子に責任を求める
言葉を発している母親だが、腹の底では俺を悪者扱いしているに違いない。表情でよく分かっ
た。

 「いいな、お前は」

 親からも好かれて、俺の大事なものも簡単に奪い取って、俺が欲しいものも簡単に手に入れ
て。

 大会の1週間前。

 俺は、陸上部を辞めた。

 いい感じだった俺の生活は、以前に元通り。

いや違う。最底辺へと叩き落された。

あまりの落ちぶれようからか、周りの誰もが俺を非難することなんてなかった。大泉がしつこく
来てくれただけで…。

それでも立ち上がれなかった俺は、なんとなく、通りかかった家電量販店で、何に使うでもない
乾電池を盗み取った。

 「ちょっと君~。堂々と盗まないの。手つきは完璧だった。もしかしてこれが初犯じゃな
い?」

 「いや、今日が初めてだよ」

 「へえ…」

 現行犯をふざけた顔して値踏みする不真面目な従業員。『神原』と書かれたネームプレート。

 俺が盗みを働き始めたのは、風見と縁を切ってから、1カ月と経たなかった。
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