第1話

文字数 2,898文字

 「あかん。もうすぐ雨やな」
 菜美は曇り空を見上げた。スマホをバッグから取り出して天気予報を調べてみる。
 「天気予報、当たらんでええよ。せめて、深夜まで待ってくれんかな」
 菜美はぼやいた。スマホの画面には傘のマークが並んでいる。荷物になるからと、菜美は傘を持ってこなかった。今日は広い田畑を歩き回って写真を撮る予定だったのだ。身軽でいようと考えて、最低限の荷物をバッグに入れている。
 「私、お金がないねん。家からここまでの電車賃が往復で五千円。雨が降ったら、傘代も要るやんか」
 しょぼくれて、菜美はスマホをバッグにいれた。
 「大雨になったら、もうあかん。目標達成できんのよ。手ぶらで大阪に帰らなあかん。今日は何かとあかん日やった」
 菜美は一月の寒さに震えた。このバス停には囲いや屋根がない。もちろん、ベンチもない。ここにあるのは、「遠山町」と書かれたポールひとつだけ。立っている地面も、靴を履いていても足の裏がひんやりしている。
 「お腹も空いて、みじめやし」
 バス停に近いコンビニに入り、熱い缶コーヒーと肉まんを二つ買った。
 レジで店員が話しかけてきた。
 「こんな寒い時期に観光ですか」
 「山里の写真撮りに来たんです。それが、雨が降りそうで。次のバスで遠山市駅に引き返します」
 店員は驚いた。
 「時刻表、見て下さいよ。次のバスは三時間後。食堂ならあるけど、ここに三時間もねえ。遠山町は何もない村です。私なら遠山市駅まで歩いて帰りますよ」
 菜美も驚いた。次のバスが来るまで三時間もあるのか。
 「そうなんや。しゃあない、歩こかな」
 「一時間ほどで着きますし」と店員は頷いている。
 菜美はがっくりした。この寒さのなかを一時間も歩かねばならないなんて。
 「どっちも嫌やわ」
 本当に困った。次のバスが来るまで、三時間をぼんやり過ごしても仕方がない。かと言って、雨のなかを一時間も歩いたら疲れるに違いない。いずれにしても、最後は風邪をひいて寝込んでしまうのだろう。
「まあな。三時間と一時間、どっちが長いか、小学生でも分かるわな」
 菜美は遠山市駅まで歩くことにした。何もしないで三時間もぼんやりするなんて、菜美には我慢できないことだ。菜美はじっとしているのが苦手だった。
 「まあ、ハイキングに来たと思て、今日は楽しんだらええわ。郊外を歩くの、五年ぶりやん」
 高校を卒業してから五年過ぎたが、在学中は『ハイキング同好会』に籍を置いていた。仕事が忙しくて、最近はハイキングをしていない。久しぶりに田舎道を歩いてみようか。
 そう思っても、今日はついてないと情けない。そこに寒さが加わり、菜美は泣きたくなっている。
 とりあえず、肉まんを食べようと思う。バス停に戻り、ポールにもたれて熱々の肉まんを冷えた両手でかかえ込んだ。
 「ひとり泣きながら、道端で肉まん食べるなんてなあ。貴重な経験やわ。滅多にないことやんか」
 誰からも見られていないという安心感から、菜美は肉まんにかぶり付いた。冷たい風に吹かれながら食べていると、肉まんの温かさが体と心に沁みてくる。
 「うん。今夜のブログは肉まんの話やね。タイトルは、『肉まんが私を寒さから救ってくれた!』でええんちゃうのん」
 食べた後のごみをレジ袋に入れながら、菜美はつくづく思うのだった。
 「しかし、この悲惨な思いも明日は笑い話やから。今日の計画が失敗したんは自分が悪いだけやもん。理江さんに会いたい一心で、よう考えんと飛び出してきたんやから」
 目の前にある田舎道を菜美は眺めた。田畑を縫うこの広い道を、美しい理江さんは朝夕に散歩する。
 ただ、理江さんは雨が苦手だから、晴れた日にだけ散歩を楽しんでいた。今日の理江さんは家から出ないだろう。片道四時間かけて来たというのに、理江さんには会えなさそうだ。
 「しゃあない。理江さんにサイン貰うんは、また今度やね。天気予報を信じんかったバチが当たってしもた」
 そう言って、菜美はがっかりしている自分を納得させた。
 「そこのお嬢さん」
 声をかけられ、横を向いた。四十歳ぐらいの男が立っている。
 「えっ。私のことですかね」
 お嬢さんと呼ばれると驚く。日頃はそんな風に呼ばれていない。また、自分には「お嬢さん」のイメージがないとも分かっていた。そんな自分だから、上品で美しい理江さんに憧れているのかもしれない。
 「そうです。お嬢さん、寒くて困っていますね」
 「別に困りませんよ。私、寒い冬が大好きなんです」
 菜美は素っ気なく答えた。
 「次のバスまで時間がありますから、そこにいたら風邪引きますよ」
 男の声が聞こえていないかのように、菜美は遠くにある山を眺めていた。
 「知らん男のひとが話してきたら、絶対に相手したらあかん」
 母や兄から、そう強く言われている。
 菜美は心のなかで男に返事した。
 「うん。寒うてたまらんわ。何とかならんの、この吹きっさらし」
 菜美が考えていることは男に伝わったようだ。可笑しそうに菜美を見ながら教えてくれた。
 「その坂道を少し上がったら、食堂がありますよ。バスが来るまで、そこでコーヒーでも飲んでいたら良いと思いました。あの店は暇ですから、僕も食べてからよく昼寝してますよ。店主は山野という名の優しいおばさんです。頼んだら枕ぐらいは貸してくれますよ」
 菜美は思い出した。男が言っているのは、コンビニの店員が話していた食堂のことだろう。
 「さて、雨も心配ですしね。僕も今から家に帰ります」
 男が菜美に微笑んだ。優しそうな笑顔だと菜美は思う。
 「すみません。私は失礼でした」
 菜美は思わず謝った。このひとは、親切な気持ちから声をかけてくれたのだ。何かと物騒な世の中ではあるが、つっけんどんな物言いをした自分が恥ずかしい。
 「いやいや、用心深いのが一番ですよ。親切を装って近寄る奴もいますからね」
 男は爽やかに笑った。
 「食堂へは、真っすぐに行って、その先の坂道から行けば良いです」
 菜美はうんうんと頷いた。
 「いやはや、今日の空は暗いな」
 男は空を見上げて呟き、近くの民家にふらりと入って行った。
 「それにしても」
 菜美は男の言葉を思い出している。
 「あのひとが言うた『いやはや』の意味が分からんわ」
 スマホでネット検索しようかと思うが、残り少ない電池がもったいなかった。充電する場所がない。
 とにかく、菜美の考えは変わった。
 「雨んなか歩くの、やっぱり嫌やわ」
 男から聞いた食堂へと菜美は歩きだした。三時間は長いが、のんびりさせて貰うつもりだ。
 「月見うどん食べてから、コーヒー。そのあとからホットミルクとトースト。これで三時間頑張んねん」
 しかし、肉まん二つを食べたばかり。あまりお腹は空いていない。月見うどんだけでも十分だ。食べすぎてお腹を壊したらどうしよう。
 菜美は良いことを思い付いた。
 「あのひと、言うてたやん。食べてから昼寝してるって」
 そうだ、月見うどんを食べて、そのあと寝てしまえば良いのだ。
 「うん、寝てしもたらこっちの勝ちやな。
 今は二時。そろそろ昼寝の時間やん」
 菜美は急に楽しくなってきた。
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