第40話

文字数 4,948文字

 理江さんの結婚から十日が過ぎた。
 菜美は予定通りに、典子の手伝いをしながら『遠山食堂』で暮らしている。
 言葉はきついが、優しい性分をした典子だった。このままずっと遠山町で暮らしても良いかと、菜美は本気で考えてしまうのだ。理江さんが結婚して遠山市に行ってしまった今、自分が典子の話し相手になれたら良いなと願ってもいる。
 それに、栄太とのお喋りが楽しくてならない。
 栄太は閉店後にやって来て店の掃除をする習慣だった。別れた後の気まずさもようやく消え始めて、閉店作業の後は典子と三人でお茶を飲む日もあった。

 そんなある日のことだ。
 昼の営業が終わる直前に栄太と山野が突然にやってきた。
 ホールでテーブルを拭いていた菜美に、栄太は良く通る声で声をかけてきた。
「やあ、お嬢さん。お疲れ様です」
 栄太の隣で山野が微笑んだ。
「今日は、菜美さん。今日は私もお邪魔しますよ」
 菜美は意外な訪問者に腰が抜けそうになっている。典子の怒った顔が見えるようだ。
 栄太はいつもの飄々とした顔と声で山野を誘った。
「では、厨房から一番近い席に座りましょうか。ご覧ください。典ちゃんが真正面に居ますよ」
 父親の顔を見たとたん、やはり典子は顔を赤くして怒鳴るように言うのだった。
「急にきて、えらい迷惑やんか。もう六十にもなってんのに、常識ってもんが全然ないんやね。とんだ営業妨害やわ。どうせ、あんたらのことや。この店の進退がどうのこうのって、しつこう言いに来たんやろ」
 しかし、栄太は屈託がない。
「典ちゃん、お疲れ様です。僕らはお腹が空いたから来たのですよ。今日のランチメニューは何でしょうか」
 典子の返事は冷たかった。
「ラストオーダーはな、三十分前に終わってんねん。もうお冷しかないで」
「困りましたね」と栄太は肩をすくめる。
「お昼がまだやったら、自分でなんか作って食べたらええねん。自分とこのコンビニでお握りとかお弁当売ってるくせしてな、もう栄太君は」
 ずけずけと話す典子の横で菜美はうつむいてしまった。
 典子の気持ちも分かるが、これでは栄太が可哀想すぎるのではないのか。
「でやな、栄太君。なんでこのひと、わざわざ連れてきたんよ」
 栄太は眉をひそめた。
「山野さんは典ちゃんのお父さんなのだし、皆にとって目上の方なのですよ。『わざわざ連れてきた』なんて言葉を使ってはいけません」
「私なら構わないよ」と山野は大らかに笑う。
「いや、だめですよ。典ちゃんはね」
 栄太の言葉を典子が遮った。
「ええねん。本人が構わないって言うてるやんか」
 山野は穏やかな笑みを浮かべた。
「ぎりぎりだが、とりあえずは営業時間内だからね。立ち入り禁止の身である私も、客として堂々と店の中に入ってきたのだよ」
 典子は山野を無視して菜美に話しかけた。
「まあ、お客さんが少なうて幸いやったわ。うちのヒステリー、見られんで助かったわ」
 いきなり典子が自分に話を振ってきたから、菜美は慌てふためいた。とにかく、何か言わなければならない。
「ヒステリーって、そんなあ。私、典子さんがヒステリーとは言いたくないですし」
 一生懸命に話をする菜美に山野と栄太が笑いだした。
「お嬢さん。無理して話さなくても大丈夫だ」 
 そう言った後で、栄太は典子に尤もらしく頷いてみせた。
「典ちゃんの言う通りだ。僕らの訪問よりも典ちゃんの怒った顔こそ、お店には営業妨害になるのさ」
 典子は「ふん」と横を向いた。
「あとは頼んだで」
 菜美に言い捨てると、典子は厨房の奥に入ってしまった。
 その後姿を見送りながら、山野は寂しそうに微笑んだ。
「口の悪さは直らないな。小さい頃から言いたい放題だったが」
 栄太は妙に優しい声を出すのだった。
「僕はもう慣れてしまいました。大人しい典ちゃんはつまらないと、今では思っています」
 菜美は黙った。典子について話すとき、栄太の眼差しが柔らかくなる。いつもそうなのだ。
 そんな菜美に山野が尋ねた。
「菜美さん。『遠山食堂』のこれからについて、典子はどのように話しているのですか」
 菜美は首を横に振った。
「それは言えません。典子さんは自分の考えをそっと私に教えてくれました」
 山野は溜め息をついた。
「どうして分かって貰えないのだろう。この店を土産物屋にする計画は悪くはないと思うのだが。なにより、私は皆のためを思って考えたのだ。菜美さんは『遠山食堂』が閉店になっても平気なのか」
 黙り込む菜美の代わりに、栄太が山野に答えた。
「典ちゃんは自分の考えを自分自身の言葉で相手に伝えるひとです。そして、自分はどう行動すればよいのかと、今回もよく考えていますね。お嬢さんはそれを分かっているから、こうして沈黙しているのでしょう」
「そうなんよ。私が間違い言うたら大変やと思うし」
 栄太は重々しく頷いた。
「山野さん。典ちゃんは自分の力で生きていこうとしています。僕らが推奨する美味しいゼリーも作る気はないようですね。それでも、お店が大変なことはよく分かっていて、それが典ちゃんの葛藤なのでしょう」
 山野は渋い顔をした。
「しかし、典子ひとりで何が出来るというのだ。自分を過信している典子にこの店を任せるのは危険だな。私に譲る姿勢を見せないのなら『遠山食堂』は売りに出すしかないよ」
 菜美は思わず立ち上がった。
「何ですって」と山野に向かって声を張り上げる。
「このお店、簡単に売らないでください。典子さんはおばさんとの思い出を失いたくないだけ。理江さんだってそう思っているはず」
 感情的になった菜美に山野は戸惑ったようだ。言い訳するように話すのだった。
「いや、私も霧子の想い出は大切にしたい。それだから、何とかしてこの店を残したいと思っている。それでもだよ、菜美さん。典子みたいに感情的になりやすい者に、潰れかけている店を任せるわけにはいかないのだ。私や栄太君とて、土産物屋になった『遠山商店』が絶対に成功するとは思っていない」
「そう、分かります」と菜美は言い切った。
「山野さんは自分の利益になることしか考えていない。おじさんも山野さんの悪影響を受けてるんやわ」
 山野は苦笑して「困ったな」と栄太を見るのだった。
「いやはや、山野さんと僕は、お嬢さんには冷血漢に見えているのだな」
 菜美は急いで否定した。
「そこまで言うてへんよ。ただ、典子さんがいろいろ悩んでんのを分かってほしいだけ」
 山野は黙った。
 突然、栄太がお腹をさすり始めた。
「どうしたん、おじさん。お腹が痛いんやろか」
「そうではありません」と栄太は爽やかに微笑んだ。
「ただ、お腹が空いて話が出来なくなりました。とりあえず、ジュースを飲みましょうか」
 栄太は厨房の冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを持ってきた。
「お嬢さん。ここは『遠山商店』となって、弁当と土産物を売ることになる予定です。その店頭でこのような紙パックのジュースやコーヒーを低価格で提供することは、十分に可能だと僕は考えました。何なら、ホールの一部を開放しても良いのです。学校帰りの学生たちが来てくれるかもしれないね。高校時代の僕がそうだった。授業が終わる頃にはお腹ペコペコでしたからね。おばさんが作ってくれる葱と蒲鉾が入ったうどんを食べ、そのあとはコーヒーと菓子パンだった。そうして仲間と秘密基地で遊んでいたのだ」
「分かる、それ」と菜美は目を輝かせた。
「私も高校の帰りにそんなことしてたもん。値段が安くて親切なおばさんがいてるお店が、しぜんと皆のたまり場になってたわ」
 山野は冷静な目で窓の外を眺めた。
「成功するかどうか分からない。しかし、中学校や高校が近いこの場所でなら、やってみる価値はあると思うのだよ。今も学生たちが固まって下校してきているよ。あの子達に手ごろな価格の飲み物と菓子を『遠山商店』で買ってもらおうか。この店でデートもする子も出てきそうだな」
 山野の言葉に頷きながらも、栄太は情けない声を出した。
「そうして僕のコンビニは過疎化していくのだ」
 山野は笑った。
「大丈夫だよ。『遠山商店』で扱う商品にコンビニほどの種類はないのだ。コンビニにあるようなコーヒーマシーンも高価だから購入する気はない。私としては、店の奥に自販機コーナーを設けれれば良いと思っている」
 栄太が山野に訊いた。
「しかし、僕はコーヒーマシンや自販機よりも、典ちゃんのアイデアに賛成したいと思っています」
「あの話も悪くはないが」と山野は言うのだが、顔がずいぶんと不機嫌になっている。
「栄太君。典子のやり方でも良いと思うのだが、私が出した条件は無視されているのだよ。それだけではない。この件で私が意見したから、典子は怒って栄太君にも話をしなくなったのだ」
 話が分からない菜美に栄太が説明をする。
「買い物客に飲み物の無料サービスをすると典ちゃんは言ったのだ。山野さんはそれに条件をつけたのだ」
 菜美は身を乗り出して話を聞いている。傍らで聞いていて興味をそそられたのだ。
「条件って、どんなことなん。知りたいわ」と積極的に質問までしてしまった。
 ためらう栄太の代わりに、山野が菜美に答えた。
「毎回ではないが、理江にもその役を担当させるつもりだ。理江はブログや動画で少し有名だからね。その理江がドリンクのサービスをするとなれば、ファンが集まって土産や弁当を買ってくれるよ」
 菜美は顔色を変えた。
「そんなん、理江さんには似合いません。気だるくて儚い雰囲気の美人なんですよ」
 山野は笑いながら菜美に訊くのだった。
「あの子のどこが気だるくて儚いのだろうね。子どもの頃からお転婆だったよ」
 栄太が相槌を打った。
「そうだよ。いつも騒がしい子だった。ちなみに、これからの理江さんは本来の自分に戻ることになっている」
 菜美は思いだす。結婚披露宴のときに、典子がその話をしていた。
「理江さんは幸せな結婚をしたからね、もう儚い美女ではなくなったのだよ。可愛くてお料理上手な新妻がこれからの理江さんだ。典ちゃんから教えられた料理を自分ひとりやってみせて、その過程を動画にあげるみたいだよ」
 山野が言う。
「理江程度の美人はそこらじゅうに居るよ。何時までも儚い美女ではいられないのだ。結婚を機に、ゆっくりイメージを変えていこう。素顔でエプロンして手伝っていたが、料理を運んできたのが理江だと気が付いた客はいなかった。そういうことだ。あの子はもともと明るくて元気なのだよ」
 菜美は栄太の顔を見た。
「おじさんもそう思てんの」
 栄太はそっと頷いた。
「典ちゃんは嫌がっているが、理江さん自身がこの話に乗り気なのだ。『遠山食堂』を残すために自分も何かしたいのだろう」
 菜美はショックだった。哀愁に満ちた眼差しをした美しい理江さんは、もう消えてしまうというのか。
「あっ」
 菜美は気が付いた。お店を手伝えば、理江さんの身上は世間に知られてしまうだろう。
「そしたら、理江さんの私生活が分かってしもて大変かも知れんね。典子さんはそれが心配なんやないの」
 栄太がにっこりした。
「その心配はいらないでしょう。かつて働いていたお店をお手伝いという設定ですから。理江さんのプロフィールに『遠山食堂』での職歴を書くのも良いですね」
 山野は得意そうに言うのだった。
「私も『遠山商店』のオーナーということで、時々は店にでて、理江と一緒に土産物やお弁当を売るつもりだ。その延長で、理江と仲良くネットでも露出してみようか」
 栄太は興奮気味に訊くのだ。
「まさか、山野さん。理江さんのファンに動画でご挨拶されるのですか」
 山野は苦笑した。
「それができれば良いのだが、うっかりしたら理江の父親だと分かってしまいそうだよ。典子に何を言われるか分からない」
「うっかりしなくても、視聴者はすぐに気が付きますよ。山野さんと理江さんが父娘だと」
 山野は驚いて栄太に訊き返した。
「どうして、私たちが親子だと分かるのか」
「山野さんと理江さん、顔がそっくりですから」
「おお、なるほど」と山野は大笑いする。
 同じように大笑いしながら、栄太が菜美に話すのだった。
「お嬢さん。時々に山野さんはね、こうしてお茶目になられるのだよ」
 菜美は呆れて、山野と栄太の顔を交互に見るばかりだった。

 
 

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