第4話

文字数 4,043文字

 「撮影が終わったら、理江ちゃんは休憩にくると思いますよ。三時のおやつにね。理江ちゃんと一緒にお茶をしますか」
 霧子の申し出に菜美は顔を輝かせる。今日は雨で会えないと諦めていた。それが、なんと三時のおやつを理江さんと食べることになった。
 しかし、菜美は思い出した。いつだったかに、理江さんはブログでこう呟いていた。
 『理江は恥ずかしがりです。知らない方とはお話できなくて。そんな自分が理江は悲しくて堪らないの』
 菜美は霧子に聞いてみる。
 「光栄ですけど、理江さんは私がいたら困りませんか。撮影のあとでお疲れかと思います」
 理江さんは菜美に気を遣ってしまい、ゆっくりと休めないだろう。
 「いえいえ。遠くから来てくれたってね、きっと喜んでくれますよ」
 にこにこと話す霧子に、菜美は勇気づけられた。
 「理江さんと一緒に写真撮らせてほしいんです」
 遠山町を訪問すると決めたときから、菜美は理江さんとのツーショットを望んでいたのだ。
霧子は頷いた。
 「せっかくだからねえ。一緒に写りたいですよね。私からも頼んでおきますよ。理江ちゃんはちょっと恥ずかしがりなんで」
 霧子の意見に従っていれば大丈夫だろうと菜美は思った。霧子は理江さんにスタジオを貸していて、さっきから『理江ちゃん』と親しく呼んでもいる。きっと仲が良くて、理江さんの気性も分かっているのだ。
 「じゃ、甘えます。実は私、すっごく嬉しいです。今から胸がドキドキ」
 菜美が真顔で胸を押さえて言うから、霧子は面白そうに笑った。
 「さて、私は厨房に戻りますね。典ちゃんにおやつを余分に作らせますよ。栄太君、テーブルきれいに拭いといてな」
 「そうだ。僕も三時のおやつに参加しよう」
 栄太が不機嫌に叫んだ。
 「おばさん。典ちゃんに僕のおやつも頼んで下さい」
 「分かった。皆で仲良く食べたらええわ」
 厨房に戻っていく霧子を見送りながら、栄太は傍らの菜美に告げた。
 「僕とお嬢さんにはわずか三時間しか与えられていない。正確には、あと一時間と四十分だ。僕は二人の時間を大切にしたいんだ」
 「えらいことや。あと一時間と四十分しかないんや」
 菜美はため息をついた。
 「せっかく理江さんに会えたのにな。サインと記念撮影したら、すぐに帰らなあかん。ゆっくり話も出来へんな。バスに間に合わんわ」
 栄太が悲しそうに呟いた。
 「いやはや、このお嬢さんは僕に無関心過ぎる。理江さんとブログのことしか考えていないのだろう」
 「あ、ごめん」と菜美はげらげら笑いながら謝った。
 「お嬢さん。今の僕達は恋人未満状態です。一時間四十分後、そのとき奇跡は起こりますかね」
 栄太は悲しそうにテーブルのセッティングを始めた。

 「今、撮影が終わりました。いつも有り難うございます」
 木のドアが開き、理江さんが現れた。菜美を見て、恥ずかしそうに挨拶をする。
 「初めまして。私は理江です。おばさんから聞きました。わざわざ大阪から来てくれて有り難うございます」
 「初めまして。浜辺菜美です。急に来てすみません」
 挨拶を返しながら菜美は天にも昇る気分でいる。あの美しい理江さんが目の前に立っていて、囁くような甘い声で話しかけてくれたのだ。
 「さ、理江さん。早く座って下さい。僕らには時間がないんだ」
 栄太が理江さんを片付いたテーブルに案内した。
 「有り難う。栄太君はいつも優しいのね」
 椅子に座ると、理江さんは悲しそうに窓の向こうを見つめた。
 「景色が雨に霞んでよく見えないわ。道路にも雨水が流れています」
 ここでいったん黙り、理江さんはか細い肩を震わせた。
 「なんてお天気なのでしょう。ここに来るときに雨に濡れました。理江は寒くてたまりません」
 ブログの画像で見るより、理江さんはずっと艶やかで美しかった。抜けるように白い肌と長い黒髪。切れ長の瞳はどこか遠い世界を眺めているようだ。
 理江さんの神秘的な瞳に、菜美は吸い込まれそうになっている。栄太が苦笑した。
 「お嬢さん。しっかりしてください。理江さんに見とれていると転びますよ。とにかく、ここに座って」
 栄太と並んで座った菜美を理江さんは明るい目で見つめた。
 「おばさんが言った通り、元気そうで可愛い方。貴女と栄太君はお友達なんですってね」
 そう聞かれて菜美はまごついた。栄太との関係は菜美自身もよく分からないのだ。
 「ただの期間限定です。うん、三時間限定の彼氏かな」
 栄太は悲しそうに理江さんに訴える。
 「この三時間は友達ですが、水面下では恋愛成就に向かっていますよ」
 「そうだったの。お二人は恋のときめきで胸がいっぱいなのね。恋するひとは素敵だわ」
 理江さんはうっとりしている。
 「違います。そんなんじゃないです」
 菜美はきっぱり答えた。栄太が慌てて話を変える。
 「今日は何の撮影だったの、理江さん」
 「雨の日が続いて、長く散歩をしていません。ブログの更新が遅れています。そんなわけで、ここのスタジオを借りて動画を撮っていました。理江は少し歌えるので、恥かしいけどトライしてみたの」
 「何の曲ですか」と菜美は聞いた。
 「今はごめんなさい。それに、取り直すかもしれないの。この衣装がしっくりこないから」
 理江さんは濃紺のワンピースを示した。ふわふわした柔らかな生地が女らしい雰囲気を作り出している。
 「黒のイブニングのほうがやっぱり良かったわ。そのドレスは背中が見えてね、理江は恥ずかしかったから止めたの」
 理江さんは薄い紅色に頬を染めた。
 菜美の息は止まりそうだ。理江さんの女らしい仕草と美貌に圧倒されている。
 「理江さん、大丈夫なん。えらい雨やんか」
 典子がやって来た。
 「お客さん。理江さんの前で照れてないで、ほら、三時のおやつですよ。けど、お客さんはお腹いっぱいやろね。ほんまによう食べるひとやわ」
 典子が運んできた皿を覗いた菜美は戸惑った。それを見て、理江さんが笑い出す。 
 「理江のおやつはね、ふるさとの味がするものばかり。さあ、熱いうちに頂きましょう」
 竹輪の天ぷらをのせた皿が菜美の前にも置かれた。まるごとの竹輪が二本、皿の真ん中に並べて盛ってある。食べやすくするための切れ目も入っていない、愛想のない竹輪の天ぷらだった。大根おろしなどの薬味もついていない。
 「お嬢さん。ずいぶんと驚いていますね」
 栄太が吹きだした。
「理江さんは甘いものを食べないのですよ。これ、お嬢さんには意外な話でしたか」
 「違いますよ。びっくりしたのは他の理由なんです」
 理江さんのおやつをあれこれ言っているのではない。世の中にある「おやつ」と言うものは、すべてが甘いお菓子だと菜美は思い込んでいたのだ。
「ううん。私はお腹いっぱいやから、食べれるかなって心配になっただけ」と菜美は適当に言いつくろう。
 本当にお腹はいっぱいだった。
「無理なら持ち帰りにして貰えば良いよ。あんなに食べて、さすがにお腹いっぱいだろう」
 栄太が笑った。
 「うん。ちょっと無理。帰りの特急電車で食べるわ」
 菜美は熱いお茶を手にした。
 理江さんは華奢な手に持った竹輪を丸かじりしている。
 その横には薄い緑色の小鉢。その小鉢には、さっき菜美が食べたものと同じ小芋が入っている。
 栄太が長々と解説を始めた。
 「このあたりの竹輪やかまぼこは美味しい。歯応えもしっかりしている。ふにゃふにゃしていない。僕が子どもの頃は、カレーには竹輪だったよ。おやつにも生の竹輪を食べていた。だからかな、僕は今でも竹輪が大好きだ。今日は天ぷらだけど、機会があれば、遠山市の竹輪を生で食べてみて下さい」
 典子もうんうんと頷いて、栄太に続いて説明する。
 「理江さんも私らと同じでこの地方の出身。私ら皆、子どもの頃から竹輪やかまぼこが好きなんよ。煮物はもちろん、ちらしや丼にも入れてる」
 栄太は竹輪の皿を嬉しそうに抱えた。
 「僕も醤油やマヨネーズをかけませんよ。熱々なら文句無しだ」
 典子は菜美に頼んだ。
 「竹輪やかまぼこもブログで紹介して下さいよ」
 「はい、もちろんです」
 菜美は元気よく答えた。
 「典ちゃんも座りなよ」
 栄太に言われて、典子も席についた。四人はお喋りしながら、三時のおやつを楽しむ。菜美はとても幸せだ。
 「ご馳走さまです。竹輪の旨味がそのままの、実に堪らないお味でした」
 理江さんは竹輪を食べ終わり、指先についた油を拭いた。
 「熱いお茶も美味しいやろ。自家製のお茶やし、ええ写真をいっぱい頼むで」
 典子が菜美の肩を揺すってお願いする。栄太も菜美に頼んできた。
 「これを作った典ちゃんも写してあげてね。和気あいあいで三時のおやつを楽しんだって」
 菜美は不安になった。このおやつの記事に理江さんの写真は載せても良いのだろうか。プライベートの時間なら、勝手にしてはいけないと思う。菜美は理江さんに聞いてみた。
 「ここで理江さんにお会いしたこと、ブログに書いても大丈夫ですか」
 「だめじゃないけど」と理江さんは困惑してしまった。
 菜美は理江さんに謝った。
 「そうですよね、すみません。止めときます」
 理江さんは安堵したようだ。顔を明るくして、小芋の煮っころがしを食べ始めた。栄太が竹輪を頬張りながら菜美に言う。
 「ブログでは顔を見せているが、理江さんは大変な恥ずかしがり屋さんだ。顔を出すのは、理江さんにはある意味では苦痛なんだよ」
 菜美は気がついた。そう言えば、理江さんは正面からの顔を見せることはあまりなかった。マフラーを巻いたり、帽子を被ったりしている画像が多い。
 典子も真面目な顔をして菜美に言う。
 「理江さんがうちで撮影したりおやつ食べたりしてんの、お願いやから内緒にしといてな。ブログしてるけど、実はプライベートはあまり出さんひとやから」
 理江さんは小芋を食べ終わり、箸を置いた。顔がとても暗くなっていて、菜美は驚いた。
 「理江さん。今日の小芋はいかがでしたか」
 典子がそっと微笑んだ。
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