第26話

文字数 2,752文字

「私ね、おじさんに別れ話されるとは思ってなかった」
「すまない。このタイミングで話すとは、実は僕も思っていなかった」
 菜美にきつく言われて栄太は涙顔になった。
 その顔を見ていると、菜美は仕方がないと思うのだった。栄太はとても悩んでいたと分かる。
「お嬢さんの人生を預かる自信がなくなったからね。幸せにできないのだから、僕から自由にしてあげたかったよ。いつになったらお嬢さんを迎えられるのか、まったく見当がつかなかった。場合によっては、僕は借金を抱え込むかもしれないんだ」
 栄太は振り返って部屋を指さした。
「二つの部屋とミニキッチンとかは、お嬢さんのためのものだった。僕は真剣にお嬢さんを想っていたのだよ。この家の二階でお嬢さんと幸せに暮らしたかった」
 菜美はほろっとした。
 しかし、言うことは言っておこうと思うのだった。
「おじさんの考えは分かった。でも、正直言うて、私はおじさんにがっかりしたわ」
「えっ」
 栄太の顔が青くなっている。自分にがっかりしたと菜美に言われて、ずいぶんな衝撃を受けたようだ。
「だって、そうやんか」
 菜美は怖い顔になった。怖い顔をする気はなかったのだが、栄太への怒りの気持ちを口にしたら、顔までが醜く歪んでしまったのだ。
 菜美が見せた怒りに栄太は圧倒されている。
「それ、おじさんの独りよがり。最近はね、私もいろいろ考えてたんよ。これからの私は何をするべきかって。会社に行って働いて、帰ったらブログ見て寝る生活やからね。真面目で規則正しい生活やけど、私はもの足りんわ。全力で打ち込めるものが欲しいんよ」
「何を考えていたのですか。具体的に教えてください」
 栄太は菜美の話に興味を感じたようだ。目に輝きが戻ってきている。
「私ね、この町が好きなんよ。おじさんがいなくても、きっとこの町を好きになってたと思う。理江さんに会いに来ただけやったけど、おばさんや典子さんとも話すようになって、この町が本当に好きになっていった。みんなでご飯食べてたら楽しいてね、私は幸せやなあって思ったもん」
「ありがとう。この村を勝手に代表してお礼を言うよ」
 栄太は本当に喜んでいる。
「でね、私は考えたわ。村のためにおじさんが頑張ってるのを見てたら、私もお手伝いしたいなあって」
「それは有り難いな。でも大変だよ。会社に行きながら、こちらの手伝いもだなんて」
「会社はもう辞める。課長とは相性がないねん。ここに来るから休暇頼んだときにちょっとあって、それからずっと考えてた。ぎすぎすした人間関係に疲れたわ。で、会社勤めはもういいわって思たんよ。給料はまあまあやったけど」
「そうだったのか。しかし、次の仕事を見つけてから辞めたほうが良いと思うな」
 菜美は大声で笑い出した。
「次の仕事を探せって、私に言わんといて。ついさっき、私はおじさんに次の仕事を話したやんか」
 栄太は妙な顔をした。不思議そうに聞いてくる。・
「すみません。忘れました。お嬢さんは僕に何を言ったのですか」
 自分の話を忘れたと言われても、なぜか嫌な気がしなかった。菜美は笑いをこらえて、もう一度栄太に話すのだった。
「私、この村でおじさんの手伝いをするつもりやった。みんなが自分のことしか考えてない会社にいるより、ずっと遣り甲斐もありそうやし。何より、私はおばさん達が好きなんよ。この村で生活したいと考えるようになったわ。ううん、私は無理に結婚せんでも良かったの。明日の昼、その話をおじさんにするつもりやった。それやのに、おじさんから先に別れようって言われてショックやったわ」
「そうだったのか。知らなかったよ」と栄太は溜め息をついた。
「介護の勉強もしよって考えてたわ。介護の知識があったら、私も村のお年寄りのためになれるから」
 栄太は感激して声を上ずらせた。
「そんなに僕のことを考えてくれたのですか」
 菜美は即座に否定した。
「ううん。その通りなんやけど、ちょっと違うな。村のために生きるって、おじさんは言うたやんか」
 栄太は残念そうに言うのだった。
「ややこしいな。お嬢さんの考えがよく分からないですよ」
「そんな悲しい顔はやめてな」と菜美はにっこりした。
「この村に来ておじさんを見ているうちに、私の人生観は変わったわ。この村でおじさんと一緒に働きたかった。結婚とかは後でも構わんから」
 栄太は静かに答えた。
「それは難しいな。これは現実の世界なんだ。つまずいている僕が言うのも変だが、夢と理想の実現はそう簡単ではない」
 笑っていない栄太の顔を菜美は見つめた。
「どういう意味なんか、私には分からへん」
 栄太は寂しそうに微笑んだ。
「さっきも言ったが、奥さんにしても、恋人にしても、誰かの人生を預かるのは本当に大変なんだ。無責任なことは出来ないよ。人生は線香花火だ。だんだんと火は消えていくのだよ。お嬢さんは美しく燃えている最中だが」
「おじさん」
 菜美は改まって言う。
「さっきからおじさんの話が分からんのよ。そんなわけで、私の考えだけを言うわ」
 栄太は黙って頷いた。
「私、おじさんの気持ちは分かるつもり。でも、何にも私に相談してくれんかったね。ひとりで悩んで別れる決心したんやね。私はおじさんを助けて生きるつもりやったの。おじさんだけやなくて、誰かのためになりたかったんよ。ここに来る前、これから人生を変えるんやと思たら、私は夢とか希望でいっぱいになってた。自分が少しでも役に立つんなら、結婚せんでもこの村に残るつもりやったの」
 栄太はやはり黙っている。
「私ね、人間としては今のおじさんの哀しみに心を動かされてる。でも、女としては無理やね。もう、恋愛の対象やない。おじさんとはきっぱり別れようと思うわ」
「そうだよね」と栄太が呟く。
「仕事優先なら、それはそれでいいねん。でも、自分ひとりで夢を追いかけていくひとに、私はついていけない。お金はないけど一緒に夢を追いかけてほしいって、何で私に言わんかったのよ」
 栄太は驚いたように菜美に言うのだった。
「お嬢さん。それは僕が懸命に話しても、若い貴女には分かって貰えないと思うよ」
 菜美は苛々する。
「投げやりなこと言うんやね。私はおじさんが大嫌いになったわ。もう、口も利きたくない」
 栄太は深い悲しみを込めて菜美を見つめた。
「僕はお嬢さんを嫌いになれません。その明るさと率直な物言いは僕の慰めでした」
 菜美は呆れかえった。
「その話、何のことか分からんな。ま、おばさんに元気でいてほしいから、恋人役は続けるけど」
「僕もそう思います。恋人でいましょう」
「じゃあね。お風呂貰います」
 菜美は階段を下り始めた。
 栄太が二階の縁側に立ったままで声をかけてきた。
「僕はまだここに居ます。夜空がとてもきれいですからね」
 菜美は返事をしなかった。
 
 



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