第8話

文字数 3,511文字

 「おじさん、まだ来てないやん」
 菜美はあたりを見回した。遠山市駅の前で栄太と落ち合う約束だった。
 「もう二時になってるし、何かあったんかも」
 スマホを取り出してメールや電話の着信を調べる。やはり、栄太からのメールが来ていた。
 『申し訳ない。二時に行ける自信がありません。二時半には着く予定です』
 今は二時。栄太が来るまで少し時間があった。
「ここでは待てんな」と菜美は駅へと引き返し始める。
 三月になっていたが、このあたりはまだまだ寒かった。駅前広場の隅には土の混じった雪が残っている。
「景色はええけど、寒うてあかんわ」
 すれ違う人々も分厚いコートを着ている。
 自動ドアをくぐり駅の構内へ入った。待合室は改札のすぐ横にある。
 菜美は奥の壁際にあるベンチに座り、栄太にメールを送った。
 『待合室にいてるから。急がんでええよ』
 欠伸をしながらスマホをバッグにしまう。朝が早かったからか、菜美はだるくて眠かった。
「寝不足やん。三日も休むから意地悪されたんかな、昨日は課長に残業させられてしもたし」
 菜美は二度目の欠伸をした。
 理江さんの誕生会に出席するため、菜美は遠山市にやって来ている。今日の四時から、遠山食堂のホールで誕生会が行われる予定だ。ランチが終わる三時に閉店して片付けをする。そのあと、理江さんの誕生会が開かれるのだ。典子が作る家庭料理を食べる予定だが、それは理江さんの強い希望から決まったらしい。
 栄太からのメッセージにその話が書いてあった。
 『理江さんはケーキも何も要らないそうです。普通のご飯が食べたいとおばさんに頼んでいましたよ』

 菜美は物思いにふけり始めた。
 栄太との付き合いは本当に楽しいが、菜美の悩みの種でもあった。その一番の理由は、十六歳という二人の年齢差と、栄太が定職についていないことだった。
 「あのおじさん、なんか面白いねん。私ら、相性あるかもな」
 栄太のことを、菜美は母と兄にそう話している。とは言うものの、栄太と結婚するのかと母と兄に聞かれると菜美は困ってしまうのだ。正直なところ、そう簡単には結婚できないと思っている。せめて栄太が定職に就いていたらと、菜美は残念に考えるのだった。返事ができないでいる菜美に母と兄は忠告する。
 「結婚せんのやったら、きっぱり別れなあかん。だらだら中途半端な付き合いは相手さんに失礼なんや。相手は十六歳も歳上なんやし」
 菜美は何度もため息をついた。東京で働いていた会社が倒産したあと、栄太は故郷に戻ってきた。そのままアルバイトをして今も暮らしている。アルバイトの給料だけで栄太と生活していける自信は、菜美になかった。菜美は不思議に思う。栄太はどうして正社員を目指さないのだろう。
 一月に遠山町に行ったときのことだった。遠山食堂で三時のおやつを食べながら、東京に再び行くことは考えていないと栄太は話していた。これから先も、遠山町で静かに暮らしていくと言う。
 「お嬢さん。何事もない人生は滅多にありませんよ。しかし、遠山町は何もない村です。僕はここでずっと暮らそうと考えています」
 「何事もない人生なんて無理やけどな」
 霧子が面白そうに笑った。
 「でもな、栄太君がこんだけ頑張ってんや。うちらも全力で協力せなあかんわ」
 典子がそう話すと、霧子はそっと頷いた。
 菜美はその光景を思い出すたびに首をかしげる。典子は栄太が頑張っていると話していた。さて、栄太は何に頑張っているのだろう。
「あかん」
 菜美は大きな欠伸をした。
 「ああ、しんど。疲れてんや。考える力がないわ」

 「お疲れですね」
 いきなり声をかけられ、はっと菜美は顔をあげた。菜美の前に栄太が立っていた。
 「お嬢さん。遅くなって申し訳ないです。急に頼まれて、隣の家の猫を朝から預かっていました。隣の奥さんが用事を頼めるひとは、遠山町では僕だけなのです。とっさにお嬢さんの顔が浮かびましたが、僕は断れませんでした」
 栄太は丁寧に頭を下げた。菜美は栄太を見て微笑んだ。
 「そうやったんや。おじさんは親切やからな」
 「ところで、お嬢さん」
 栄太がにっこりした。
 「待ちくたびれて寝ていましたね」
 菜美は真っ赤な顔になった。恥ずかしくてたまらない。
 「嫌やわ。寝てる顔、見られたんや。爆睡なんかして失敗したわ」
 「違う、お嬢さん。その考えは間違っているぞ」
 栄太が叫んだ。
 「人目を気にしていたら熟睡できません。よく寝ないと健康と美容に悪い影響があると、聞いたことがあるでしょう」
 「まあね。睡眠不足で顔がむくむんも、やっぱり困るわな。顏がむくんだら、私はもとから丸顔やし、ほんまにまん丸になるやんね」
 菜美は思わず自分の両頬に手を当てた。菜美の素直で可愛い仕草に栄太が微笑む。
 「いやいや、真面目な話、お嬢さんの顔は丸くて良いですね」
 「おじさんは良かっても、私は卵みたいな顔が好きなんやから」
 菜美は真剣に言うのだが、栄太は可笑しそうに笑うばかりだった。
 「さあ、そろそろ行きましょう。駅の横に車を停めています」
 栄太は菜美の荷物を預かった。
 「今夜は典ちゃんの家庭料理ですよ。思い切り食べましょう」
 「うん。ありがとう」と菜美は元気な返事をした。
 典子の作る料理が楽しみでならない。一月に食べた豚汁の味を菜美は忘れていなかった。
 「今頃は理江さん、そわそわしていますよ。お嬢さんや典ちゃんらと朝まで話していたいそうです」
 「その話やねんけど。気になってんのよ」
 待合室前のロビーで菜美は立ち止まった。
 「おじさん。あの話、ほんまかな」と栄太を見上げる。
 「あの話って、何のことですか」
 栄太も立ち止まった。菜美の顔を不思議そうに見つめる。
 「今夜って遠山食堂に泊めてくれんやね。そう思たからホテルの予約を取ってないんよ」
 「誕生会は四時から始まります。最終バスが五時ですからね。大阪から来てくれたのに、お嬢さんは誕生会に一時間も参加できません。それで、おばさんがお嬢さんの部屋を用意しました。皆と夜中まで大騒ぎしましょう」
 遠山食堂のスタジオを菜美の寝室にすると、典子からのメッセージに書いてあった。遠慮なく泊まれば良いと典子も言うのだ。
 「それ、厚かましいと思うねん」
 不安そうに話す菜美を栄太は笑う。
 「遠山町は何もない村ですからね。泊まるホテルもありません。こちらが招待したのだから、お嬢さんは気楽に泊まって下さい。皆、お嬢さんの明るさと食べっぷりが好きなのです」
 「しつこいけど、ほんまに甘えてもかまへんの」
 まだためらう菜美に栄太は力を込めて言うのだった。
 「お嬢さん、お忘れですか。僕らは遠距離恋愛をしている最中なのですよ。一緒にいる時間が増えて、僕は心から喜んでいます」
 「あっはっは」と菜美は笑った。
 「いやな、今夜は大騒ぎするって言うけど」
 今夜の宿のほかにも、菜美が気にしていることはあった。菜美は遠慮なく栄太に聞く。
 「おじさん、今夜はコンビニのバイト休めたんかな。いっつも深夜やろ。朝までみんなと喋べるん、無理なんちゃうの」
 栄太は笑顔で答えた。
 「シフトはね、僕の都合が優先されるのです」
 「ふうん」と菜美は考えた。
 栄太の私生活を少し見たような気がする。
 「さあ、行きましょう。僕の都合で遅くなってしまいました。お店は閉店作業で忙しいから、典ちゃんが苛々してますよ。典ちゃんは保育園時代から気が短くてね」
 「うん、行こうね」
 菜美は晴れやかな笑顔になった。
 理江さんの誕生会が楽しみだ。崇拝する理江さんにまた会えるなど、夢のような話だった。しかも、朝まで一緒なのだ。菜美は想像した。月や星のような色のドレスを着た理江さんが、夜の薄闇を背にして嫣然と微笑むその姿。理江さんは最高に美しいひとだと菜美は感嘆のため息をつく。
 「ほんま、今夜は最高になるわ」
 理江さんへの菜美の呟きを栄太は勘違いした。
 「そう、お嬢さんと僕は最高のカップルですよ。肉まんに思い切りかぶりつくお嬢さんを見たとき、三時間のお付き合いでは終わらない予感がしたのです」
 「わっはっは」
 菜美の笑いはもう止まらない。大真面目にそう話す栄太が面白くて仕方なかった。
 「もう、堪らんわ」
 笑い過ぎて、菜美は涙が出てきた。
 「いやはや、お嬢さんは実に気取らないひとだ。お上品には決して笑わない、そこが驚くほどに可愛いと僕は思っています」
 栄太は菜美を見つめ、幸せそうに頬を赤らめるのだった。
 「可愛いな、おじさん」
 そんな思いで菜美は栄太を見つめた。
 栄太と話すのは二カ月ぶりなのに、毎日のように会っているような気がする。
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