第39話

文字数 5,286文字

 菜美の笑顔は消え、恐怖や緊張で顔が引きつっている。
 いつの間にか、この庭に見知らぬ誰がが入り込んでいた。しかも、自分の名前を呼んだのだ。その場に凍りついたように立つだけの菜美だった。
「すまない。私は失礼だった」
 庭の隅から、そのひとは穏やかに話しかけてきた。
「そんなに怖がるとは思わなかったのです。それにしても菜美さん、貴女は私をお忘れですか」
 菜美はようやく気がついた。
「すみません。暗いから分かりませんでした」
 礼服を着込んだその男は、あの山野一樹だった。
 そうと分かって少しは安堵したが、この状況はやはり怖いことに違いなく、突然に暗闇から現れた山野に菜美は腹が立ってきた。
「庭の隅っこから急に話しかけんの、止めて下さいね。こんな時間なんだし、私、てっきり襲われると思って。もう怖くて身がすくみました」
「いや、そうではないのだ。これにはわけがあってね」
 本気で怒っている菜美に、山野は狼狽している。
「私はこの家に侵入したかったわけではない。もちろん、菜美さんを驚かせるつもりもなかった」
 突然に庭の木々がざわめいた。
「うそやん」と菜美は青ざめた。
「風なんか吹いてへんやん。そこに何かいてる」
 怖がる菜美に、山野ではない男の陽気な声がした。
「いやはや、お嬢さんは山野さんにもはっきりした物言いをするひとだった」
「もう、やめてよ」
 菜美は思い切りむくれた。
「その声、おじさんやん。林ん中でごそごそしてたら、狸とか、そんな動物やと思うやんか」
「確かに林の中に居ましたが、僕は狸ではありません。林栄太という、貴女のお友達ですよ」
 木々の隙間から、栄太がひょっこり顔を出してにこにこしている。
「何してたん、そんなとこで」
「典ちゃんが来たのかと思ってね、とっさにここに隠れてしまったのです。お嬢さん、話し方だけではなく、足音まで典ちゃんと似てきましたよ」
 菜美は首を傾げた。
「典子さんから逃げるって、何か悪いことしたってことやろか」
「そうではない」と栄太は大きくかぶりを振った。
「しかし、典ちゃんからすると、これは悪いことなのでしょうね。僕がここにいることは、典ちゃんの逆鱗に触れる案件だと思います」
 菜美は首を傾げたままで返事した。
「さっぱり分からん」
 栄太は木々の中から微笑みかけた。
「とりあえずはお嬢さん。典ちゃんの怒りを買いますから、山野さんと僕がここにいることは内緒にしてください」
 栄太は枝をかき分けて林から庭に出てきた。
「帰りが遅くなったお詫びのメールは、遅ればせながら、さっき典ちゃんに送りました。街からの帰っていた僕は旧友にばったり会い、そのまま話し込んだという設定にしましたよ」
 山野は落ち着いた声で菜美に話すのだった。
「悩んだよ。栄太君の帰りが遅いと皆が心配しますからね。しかし、ここで私と一緒にいると正直に話せば、典子が逆上すると思いました。あの子は今も僕を恨んでいますから」
 思わず、菜美は山野の前に進み出た
「それはちょっと違います。典子さんは山野さんが好きなのです。でも、自分を置いていった山野さんには意地でも冷たくしたいだけ。心が通じるまでとことん話せば、わだかまりは溶けると思います。お父さんである山野さんから典子さんに、諦めないで何度でも歩み寄ってあげて下さい」
 山野は皮肉な笑いを浮かべた。
「菜美さん。貴女は悲しいほどに心が綺麗なのだ。自分達母子を冷たく捨てた男なら、典子でなくてもね
、ひとは一生許しませんよ」
 栄太が話を変えた。
「三脚は準備できました。申し訳ないのですが、近所迷惑を考えて、お話は小さめの声でお願いしますよ」
 菜美は仰天した。
「三脚って、何で。山野さんを動画に撮るってことなん」
 栄太は愉快そうに笑った。
「そうですよ。山野さんにとって、これはとても大切な動画なのですよ」
 きょとんとしている菜美に山野が笑いながら説明する。
「今から撮るのは、私から理江へのメッセージ動画なのです。父親からの祝福の言葉です。理江以外には非公開にしますよ」
 栄太が山野の話を補足する。
「理江さんは山野さんに出席してほしかった。しかし、典ちゃんがそれを喜ばないうえに、時間的にも難しかったのです。急遽、山野さんは動画でお祝いの言葉を述べることにされました」
 山野は呟くように言った。
「電話や手紙でも良かったのだ。でも、私はどうしてもこの庭に来たかった。この椅子に座ってみたかったのだよ」
 怪訝な顔で自分を見つめている菜美に、山野は自分が座っている椅子を示した。
「愛想のないこの椅子ですが、清潔で柔らかなクッションが用意されています。気持ちの良いこの椅子を私に用意してくれたのは、本日の新郎新婦でした」
「ええっ」と菜美は叫んだ。
「旦那さんの友達のひと、来はらへんなと思てたら、それ、山野さんのことやったんや」
「菜美さん、ずいぶんと驚いていますね」と山野は爆笑した。
「新郎君がね、親切にも気を利かせてくれたのだ。披露宴会場に私が座れる椅子があるようにって考えてくれましたよ。典子が花嫁の父に椅子を用意するはずがないと、新夫婦は分かっていたようだね。結果として、花嫁の父である私は花婿の親友として、この椅子に座ることになりました」
 菜美が予想していなかった話だった。
「家庭のことをいろいろ話したとは、理江さんから聞いてたけど。やっぱりびっくりするわ」
「はい。理江さんは結婚にあたり、自分の生い立ちを婚家にすべて話しています。それを聞いた向こうのご両親も、大変に驚かれたようですね」
 栄太は静かに語るのだった。
「しかし、山野さんに実際に会ってからの新郎は、自分が想像していたような人物ではないと知りました」
 栄太は穏やかに菜美を見つめた。
「お嬢さん。山野さんは理江さんの婚約を聞いたとき、新郎と会って話をされたのだ。典ちゃんや理江さんの母親と別れた理由も含めたすべてをね」
 山野は満足そうに頷いた。
「花婿君は私の夢を理解してくれたよ。いやいや、私は男らしい立派な婿を貰ったものだ」
 菜美はその話を信じなかった。
 典子や理江さんの苦労話を聞いたなら、誰でも山野に良い印象を持たないだろう。ひょっとしたら、山野の生き方に賛同する気持ちが、男としては新郎にあるのかもしれない。女には分からない話なのだろう。現に、栄太も自分との未来よりも夢を叶える人生を選んでいる。
「男のひとはみんな」と言いかけたが、菜美は慌てて口を押えた。
 思ったのだ。
 男の夢を知るひとと結婚したのなら、理江さんもいつかは自分の母親と同じ境遇に置かれるかもしれない。それなら、理江さんは実家と婚家の両方を失って苦労するに違いない。
 顔をこわばらせる菜美に山野は嬉しそうに言うのだった。
「菜美さん、私はわくわくしていますよ」
「わくわくって、どうしてですか」
「私はね、同郷の栄太君を相棒に選びました。頭脳明晰な彼は私の大切なブレーンです。そして、今度は娘婿という若い力を持った存在が私の計画に賛同してくれたのです。人材に恵まれた私は、迷うことなくこの村の近代化に打ち込めます」
 菜美はぼう然として呟く。
「理江さんの旦那さん、騙されたんやろか」
 山野は爆笑した。
「私はひとを騙しませんよ。ただ、娘婿に将来の夢を与えただけです」

 山野は飲みかけの缶飲料を菜美に見せた。
「とにかく、今夜の私は理江を祝うと同時に、霧子に会うために来たのだよ」
 菜美はその缶飲料を見た。
「ミルクセーキですね」
「そうだ。ちょうどね、霧子と乾杯をしようとしている最中だったよ」
 山野は手にしている缶飲料を軽く振ってみせた。
 霧子の葬式が行われた日、大阪に帰ろうとする自分を山野は駅のホームまで追ってきた。そのときに山野はミルクセーキを飲みながら、霧子がこの飲み物を好きだったという話を聞かせてくれた。
 今も山野はミルクセーキを手に持って霧子が暮らしていた部屋を眺めている。
「実によくできた妹だったよ」
 菜美は黙った。
「私はこの何もない村を活性化するつもりだが、失敗して皆に迷惑をかける可能性が大いにあります。つまり、誰も幸せにできないままで、私の人生は終わるのでしょう」
 菜美には少し意外な山野の言葉だった。
「山野さんはそんなことも考えるのですか」
「そうだよ。ところで、菜美さん。貴女には私がどのような人間に見えているのだろうね」
 菜美は即座に答えた。
「分かりません。分からないひとです」
 山野は吹きだした。手に持っている空き缶が山野の笑い声と一緒になって大きく揺れている。
「あ、この空き缶は僕が捨てておきますね」
 飄々として、栄太が山野からミルクセーキの空き缶を受け取った。
「有難う、栄太君。缶の底にまだ残っていたのだよ」
 山野はハンカチで手を拭いた。
「兄である私が自堕落な人間だから、自分がしっかりしなきゃと妹は思ったのかな。典子を引き取り、自立できるだけの教養を与えてくれた。大阪で挫折した理江にも手を差し伸べてくれている。典子やこの栄太君と共に、無気力だった理江に生きがいを作ってくれたよ。おかげであの子はこの村の出世頭になった」
 菜美は時折に考えていた。
 典子は自分も霧子に大切にされたから、腹違いの妹だった理江さんを結婚させるだけの包容力を持ったのだろう。我儘な理江さんのことが大嫌いだったと、典子自身の口から何度も聞いている。
「あとは『遠山食堂』をどうするかですよ」
 山野は真摯な眼差しを菜美に向けた。
「菜美さん。典子によく話をして、商品としてのゼリーを作らせてください。嘘のない貴女の意見なら、あの天邪鬼も少しは聞くだろうと思うのですよ」
 菜美はそれには答えなかった。
「山野さん。私は遠山市のホテルに戻ります」
 そう言うと、菜美は『遠山食堂』に向かって足早に歩き始めた。
 山野はふっと笑うと「では、おやすみなさい」と菜美に手を振るのだった。
 栄太が菜美の後ろを追ってきた。
「お嬢さん。もう真っ暗だ。僕がホテルまで送りますよ」
 菜美はにっこりした。
「タクシー、頼んでしもた」
 栄太はがっかりしながらも菜美に約束するのだった。
「次にお嬢さんがこの村に来たときには、僕はタクシーの運転手さんになっていますからね。そのときは僕がお嬢さんを送り迎えします」
 菜美は朗らかに笑った。
「おじさん。それより、村に病院とか洋品店作るほうが先やで」
「これまた、お嬢さんは手厳しいことを仰るのですね。悪気はないと分かっていますが」
 言い過ぎたかと菜美は後悔したが、栄太は実に楽しそうに笑っているのだ。 
「そのようなことは言わないで、お嬢さんを送っていきたい僕の誠意だけを受け取ってください」
「とにかく私はもう帰るわ。明日の朝、また来るけど」
「では、明日の夕方あたりに散歩に行きましょう。典ちゃんも誘ったのだが、店が忙しいから無理だと言うのだよ。明日の昼から営業するって典ちゃんは言うのさ」
 典子は明日の昼から店を開けると菜美も知っていた。
 今夜はひとりで過ごしたいとも典子は言うのだ。きっと、物思いに耽って朝を迎えるつもりなのだろう。
「うん。私も忙しいねん」
「予定があるのですか」
「だって」と菜美は明るく微笑んだ。
「典子さんが落ち着くまで、私はお店のホールを手伝うつもり。典子さんにお願いしたんよ、私にも手伝いさせてって」
「それは良かった」
 栄太はは弾けるような笑顔を見せた。
「それは一カ月間ぐらいですかね」
「さあ、どやろ。分からんなあ」
「最高だよ」と栄太はにこにこしている。
「いつ大阪に帰るか分からないほど、この村に長く居るということですね」
「おじさん、面白いね」
 菜美は栄太と顔を見合わせると、思いきり大きな声で笑った。

 自分がいつまで遠山町に滞在するのか、菜美は本当に分からない。
 理江さんは遠山市駅の近いマンションに新居を構えた。結婚して落ち着いたら、週に二、三回は『遠山食堂』の手伝いに来ると話している。
 しかし、先日に典子が菜美に打ち明けたのだ。
「理江さんの手伝いは断るつもり」
「えっ。何でですか」
「ここは新居から遠いし、あの子にはやっぱり主婦業に専念してほしいねん。今もブログとかいろいろしてるけど、結婚生活が始まったら更新するんも大変やろうし。そんなんで、うちの手伝いなんかしてたら大変やんか。旦那さんとの暮らしを大事にせなあかんと思うで」
 典子の思いが心に沁みてきて、菜美は思わず言ってしまった。
「私なら無職やし、しばらくは残って手伝う。幾つか資格取ったりするから、ずっとは無理やけど」
「ありがとな、菜美さん。遠慮なく甘えるわ」
 典子は心から嬉しかったようで、菜美に礼を言う声が微かに震えていた。
「実は、うちな。ひとりは心ぼそかってん。理江さんの幸せのためやと思て我慢してるけど」
 菜美は微笑んだ。
「私で良かったら」

 こうして、菜美はしばらくの間ではあるが、典子と一緒に『遠山食堂』で暮らすことになったのだ。
 季節は春。
 田舎道に可憐な花がいっぱい咲く時季になり、菜美も新しい何かが自分に訪れる予感がしている。 

 


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