第5話

文字数 3,668文字

 「あかん、ぜったい風邪引くわ」
 バス停で菜美はぼやいた。栄太が腕時計を見る。
 「ひどい雨ですが、頑張って下さい。あと五分でバスが来ますからね」
 菜美は栄太の傘に入っている。傘を買うお金がないから、バスを待つ間はそうするしかなかった。二人が差している傘から地面へと、雨水が音を立てて流れ落ちていく。昼過ぎから降り出した雨の勢いは衰えることがなかった。
 栄太がもっともらしく言う。
 「お嬢さん。これは『遣らずの雨』ですよ」
 「へえ、そうなんや」
 菜美は適当に返事をして空を見上げた。『遣らずの雨』の意味を菜美は知らなかったのだ。栄太はそうと察して可笑しそうに笑った。
 並んで立って初めて気が付いた。栄太は長身だった。菜美の身長では栄太の肩にも届かない。菜美は上を向いて、栄太の身長はどれぐらいあるのかと考えた。
 「お嬢さん。僕の顔ではなく、上ばかりを見ていますね。僕との相合傘が嫌なのですか」
 栄太に聞かれ、菜美は正直に答えた。
 「ちょっと嫌やけど、こんな大雨やからね。仕方ないと思てる」
 「お嬢さんは素直で良いなあ」と栄太は笑った。
「そこが魅力なんだよな」
 「あ、来た」と菜美は栄太を無視して叫んだ。
 遠山市駅行きのバスが少し先の道路に見えてきた。あと数分でこのバス停に着く。
 栄太が突然に言いだした。
 「僕も遠山市駅まで行きますよ」
「ええっ。なんで」と慌てる菜美。
「荷物がいっぱいだし、この雨です。お嬢さん、滑って転んで泥だらけになりますよ」
 栄太は心配そうに菜美の荷物を見つめた。
 「ええよ。おじさんはコンビニのバイトがあるやん」
 栄太のアルバイトを理由にして菜美は断った。栄太を嫌いではないが、よく知らない男性と仲良くしてはいけないのだ。栄太の優しさは分かっていたが、これはきっぱりと断るべきだと菜美は考えた。
 「なんとか間に合うさ。お嬢さんが転んでスマホが壊れたら大変だ。ブログに遠山町と食堂を紹介して貰えないよ」
 「なんでやのんな」と菜美は大口開けて笑う。
 「大丈夫やで。ブログもちゃんと書くし、なんも心配要らんよ」
 栄太はがっかりしたようだが、すぐに笑顔で頷いた。
 「分かりましたよ。その代わり、また来てくださいね」
 「うん。ありがとな」
 菜美はにっこりした。ちょうどやって来たバスにのりこみ、窓から栄太に手を振る。
 「おじさん、元気でね」

 深夜の十一時過ぎに菜美は大阪の自宅に着いた。
 バスが延着して特急電車に間に合わず、帰宅は予定より二時間も遅れた。お土産にとお菓子を買ったのに、母と兄はもう寝ていた。
 「帰ったん、まさかの十一時やもなん。とにかくお風呂な。もう、びちょびちょ」
 菜美は帰宅するなり浴室に飛び込んだ。湿ったデニムが体にくっついて気持ちが悪い。「冷たっ」とデニムを洗濯機に放り込んだ。
 石鹸も使わないで熱いシャワーをひたすら浴びる。体を洗う力が出なかった。遠山町では楽しい思いをしたが、その寒さが菜美をずいぶんと疲れさせた。遠山町は雪が降る寒い町だ。大阪ではあまりないことだが、遠山町では吐く息が白かった。
 「そりゃ、熱々の味噌ラーメン食べるわな」
 菜美は栄太を思い出す。栄太はにんにくが入った味噌ラーメンに、バターもたっぷりと入れていた。美味しそうに食べる栄太を見て、にんにくとバターの味噌ラーメンを食べてみようと菜美は決めている。
 「けど、味噌ラーメン。今日はもう無理。お腹いっぱいやし」と、シャワーを浴びながら菜美は朗らかに笑った。
 体が温まると、すぐに自分の部屋に入った。洗った髪を乾かしもしないで、菜美は机に向かう。どきどきしながら、パソコンで『仲良しブログ』を開いた。
 「今日のお茶会の話、理江さんは記事にしはったやろか」
 残念なことに、理江さんはブログを更新していなかった。菜美はがっかりしてマウスを置く。
「理江さんもお疲れなんや。苦手な雨ん中、食堂まで来てはったし」
 気を取り直して今度はフォトの写真整理を始めることにした。今日は写真がとても多い。写真整理は少し面倒な作業だ。撮影に失敗したものはごみ箱に入れ、気に入った写真は加工して保存する。その整理がやっと終われば、どれをブログに使おうかと考えなければならない。
 菜美は溜息をついた。今日はくたくたに疲れていて、もう眠くなっている。
「遠山町の写真、エンドレスに写してたんやね。何十枚レベルやんか。明日にする。今夜は寝させてもらうけど、ちょっとその前に」
 菜美は再び『仲良しブログ』を開いた。
 理江さんのホームを訪問して、そのプロフィールを見ようと考えている。『仲良しブログ』に加入した一年前から、暗記するほどにそれを繰り返し読んではいる。改めて見る必要もないのだが、ひょっとしたら更新があったかもしれない。
 菜美は理江さんの年齢が気になっている。理江さんは小さな子みたいに無邪気に笑うけど、時折に見せる表情は大人のそれだった。菜美は今日、お茶を飲みながら理江さんを不思議な気持ちで見つめていた。
 また、理江さんからは生活の匂いがしなかった。理江さんを見ていると、童話に出てくるお姫様を思ってしまう。理江さんはお城の窓から空を眺めて暮らしている、輝くばかりに美しいお姫様なのだ。真っ白なドレスを着て、リボンが付いた水色の靴を履いている。
 理江さんはどのような暮らしをしているのだろう。理江さんの全ては甘やかな霧に包まれていた。
 「ごめん。理江さんの全てが知りたいねん」
 理江さんのホームを菜美は開いた。自己紹介の欄を読んでみる。

 『理江は京都府の北にある日本海に近い遠山市の出身なの。家族で大阪へ引っ越ししたけど、三年前に故郷へ戻ってきたわ。すぐに遠山町を訪ねたの。子どもの頃によく遊んだのは遠山市の街中ではなく、母の実家がある遠山町だったから。何もない村だけど、優しいひと達が昔のままに住んでいた。理江の心は本当に慰められたの。その遠山町の暮らしを案内したくてブログを始めました。よろしくお願いいたします』

 自己紹介の内容は一年前と変わっていない。年齢や血液型も非公開のままだ。
 「やっぱり分からんな」と菜美は理江さんのページを閉じた。
 自分のホームへ行き、「本日のブログチェック」を始めた。その日の訪問者数と「いいね」をくれたひとの名前をチェックするのが、眠る前の大切な習慣なのだ。もちろん、貰った「いいね」とコメントのお返しを忘れないように菜美は努めている。
 「あれっ」
 菜美は驚きの声をあげた。昨夜に書いた記事にコメントが入っていて、『遠山食堂』と言う名前がそこにあった。

 『はるばる我が町に来てくださいまして、今日は有難うございました。遠山食堂の皆、心から感謝しております。春が来て暖かくなったら、また遊びに来てくださいね、あ、天かすは冷凍保存が一番です』 

 食堂を出るとき、典子が大きなタッパーを菜美に差し出した。菜美がタッパーを覗くと、眩しく輝く金色の天かすがでふんわりと盛られていた。
 『お客さん、天かすが大好きやったから』と典子は楽しそうに笑った。

 「典子さん。立派な天かすを貰って嬉しかったです。このコメント書いたんも典子さんやね。おばさんはもう寝はったやろな」
 霧子は朝が早い。まだ暗いうちから起きて、うどんの出汁をとったりちらし寿司を作ったりしている。
 「おばさんの豚汁、具がいっぱいで最高。ご馳走さまでした。お店で私のスマホも充電してもらえて、本当に助かりました」
 菜美はブログのコメント欄に頭を下げた。次に栄太の顔を思い出して、菜美はくすっと笑う。
 「おじさん、優しいのは間違いないな」
 遠山町で出会ったひと達がとても懐かしい。一緒にお茶を飲んだせいか、菜美は彼らに親しみを感じてならなかった。
 「とりあえず、明日はブログで遠山町を紹介する。理江さんと皆で読んでくれたら嬉しいんやけど」
 菜美はパソコンをシャットダウンすると、ベッドに入った。暖房で温まった布団が気持ち良い。
 「髪が濡れたまんまやけど、ドライヤーめんどいな。明日は朝から仕事に行かなあかんし」
 苦手な課長の顔が浮かんできて、菜美はぶつぶつ文句を言いだした。
 「明日もあの顔見るんやわ。悪いひとやとは思わんけどな」
 そして、自分でも驚くような言葉が菜美の口から出た。
 「課長とおんなじ四十歳やけど、おじさんのほうがずっと優しいわ」
 どうして栄太の名前が出てきたのかと、菜美は戸惑いながら考えた。
 「三時間だけの恋人なんて、滅多に出会えるもんやない。おじさんは希少価値の存在やね。『お嬢さん』なんて呼ばれて、ちょっと嬉しかったし」
 灯りを消した部屋で菜美は溜め息をついた。
 「変やな。理江さんよりおじさんのほうが、印象に残ってしもたわ」
 いろいろと思い返せば、栄太は背が高くてすらりとした体つきだった。
 「まあまあ、かな」
 菜美は背が高い男が好きなのだ。
 「ま、とにかく寝るわ。皆さん、お休みなさい」とあくびしながら菜美は遠山町の人々に挨拶した。
 
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