第36話

文字数 5,980文字

 太陽が沈んだ。
 遠山町に静かな夜が訪れようとしている。『遠山食堂』の庭も薄暗くなってきていた。

 菜美は典子と栄太の三人で『遠山食堂』の庭にいる。
 この庭を菜美はよく知らない。近くの縁側に座って理江さんとお喋りをしたことはあるが、庭に降りたことは一度もなかった。菜美は新鮮な思いのままに、庭を囲む古い板塀に触れたり、身をかがめて暗い縁の下を覗き込んだりしている。
 突然、菜美に冷たい水が降りかかる。
「きゃああ」
 悲鳴をあげる菜美を見て、傍らにいた栄太は大声で笑い出した。
「お嬢さん。真っすぐに歩いて下さい。もう暗くなっていますからね、木や塀にぶつかりますよ」
 庭にある木々にぶつかった菜美に、枝や葉に残っていた雨のしずくが落ちてきたのだ。
 典子が微笑む。
「縁の下に入るなんて、菜美さんは可愛いんやね。けど、髪とか服が汚れるで」
 菜美は思わず謝った。
「すみません。気が付かなくて」
 何故か、栄太が菜美と同じように典子に謝った。
「すみません。気が付かなくて」
 典子は「ほんまにもう、栄太君は」と笑った。
 菜美も一緒に笑ったが、少し寂しいものがある。このように屈託なくお喋りをしているが、栄太はもう恋人ではなかった。栄太に対して友情と尊敬を感じているが、それだけではどことなく寂しくて味気ない。

 そんな菜美の想いをよそに、懐中電灯を持った典子と栄太は、体を屈めて庭の土を調べ始めた。
「さてさて、どやろ」
 典子は時々に立ち止まり、そこで足ふみをするのだった。そうして、首を傾げながら栄太に訊いている。
「これやったら、何とかいけそうやな」
 栄太は庭を囲む古い板塀を撫でながら頷いた。
「はい。土も塀も乾いてきています。特に軒下あたりは大丈夫だと思いますよ」
「よっしゃ」と典子が顔を輝かせた。
「予定通り、庭で披露宴するわ。菜美さんにはうちの手伝い頼むわな」
「はいっ」と菜美は元気よい返事をした。
 栄太がうやうやしく典子に尋ねる。
「不肖ながら、この僕も喜んでお手伝いいたします。遠慮なく言い付けてください」
 栄太の馬鹿丁寧な物言いに、典子は妙な顔をして黙った。
「さあ、典ちゃん。僕にも指示を」と栄太は典子を再び促す。
 典子は庭の一角を指さした。
「栄太君。ホールからテーブルを三卓持ってきて。ひとつはあっこな、今夜のメイン席やから。あとの二つは軒下にきっちり置いてや。テーブルが動いたらせっかくの料理がひっくり返るわ」
 栄太は感慨を込めて話し始めた。
「理江さんの希望通りに、アウトドアな結婚披露宴となりましたね。月光のもとで野の花に囲まれる披露宴を、理江さんは望みました。いやはや、月光とか野の花だとかに、僕は心底驚いたものです」
 しかし、典子は下唇を前に突き出した。
「悪いけど、ちょっと急いでんねん」
 栄太は典子が苛立っていると気がついたようだ。
「では、僕も急ぎましょう」
 典子に敬礼すると、小走りで庭を出ていった。

 典子が呆れ顔で菜美に話しかけた。
「今日の栄太君、菜美さんも変やと思うやろ。テンション、朝から異様に高いねんで」
 菜美は自分に呆れている。
 自分との再会に栄太が高揚したと、菜美は考えたいのだ。不思議だとも思っている。恋愛の対象から外れた筈なのに、再会してからは、栄太への想いが沸きあがるばかりだ。
「なあ、菜美さん。自分でも思てんやろ」
 菜美の想いを知らない典子は、肩を震わせて笑うのだ。
「えっ。思うって、何を」と菜美は訊き返す。
「あんなお調子もんと別れて良かったやん。けっこうお似合いではあったけど」
 栄太とお似合いだったと典子に言われ、菜美の心はますます揺れるのだった。

「庭、ええ感じやな」
 典子はにっこりした。庭の土だけでなく、空や木々までを見回している。
「夜風もほどよい強さで吹いてて、理江さん好みの夜になりそうや」
 菜美もそう思った。夜の静けさや控えめに咲く野の花を、理江さんは心から愛している。
「そろそろ理江さんらが来るわ。早う料理済ませて、うちらも着替えなあかん。ほんまに良かったわ、晴れて。雨やったら店のホールでするつもりやってん」
「私も理江さんのために雨が上がって嬉しいです。ウェディングドレスを着て月光浴びる理江さん、凄い綺麗でしょうね」
 典子はしみじみと礼を言った。
「有り難いもんやな」
 話の意味が分からない菜美は戸惑っている。
「理江さんにええ友達できて良かった。あの子、自分は独りぼっちや言うてな、ずっと苦しんでやったんよ」
 その話は菜美も知っていた。大阪に行ってからの理江さんは、どうしても友達ができなくて悩んでいたのだ。
「おばさんが元気なときに言うてた。菜美さんみたいな明るいひとが理江さんの友達なら嬉しいなあって」
「嬉しい。おばさん、私のことを喜んでくれてたんや」
 感慨深げに呟く菜美に、典子は微笑みながら頷いた。
「おばさんはいつも菜美さんに感謝してたで。菜美さんはブログでうちの店を紹介してくれたやんか。この店はブログで読んだから来たとか、今でもたまにお客さんから言われてんねん」
「それ、ちょっと恥ずかしい」と菜美は照れてしまった。
 典子が「何でやのん」と笑い出した。

「ひどいぞ、典ちゃん。さっき僕を無視したが、お嬢さんとは楽しそうに話しているのだな」
 いつの間にか、栄太が菜美達の近くに来ていた。三卓のテーブルが庭の端に無造作に置かれている。どうやら栄太は会場の設営をしないで、二人の会話を聞いていたようだ。
「テーブル放ったらかして、栄太君は何やってんや。ひとの話、立ち聞きすんのが好きなんやな。おまけに、子どもみたいに文句言うんやから」
 栄太は首を傾げた。
「おや、僕は子どもなのですか。お嬢さんには『おじさん』と呼ばれていますが」
 テーブルに掛ける白いレースのクロスを、典子は不機嫌に広げた。
「栄太君はな、おじさんと子どもの間を行ったり来たりして生きてるやん。その証拠に、おじさんになっても、子どもみたいに有り得ん夢を見てるやろ」
「僕はそんな風に生まれてきたのだ」
 栄太は大真面目に言うのだが、典子はそれ以上話したくないようだ。
「次は椅子やで、栄太君。えーと、八人分持ってきて」
 栄太は「ははは」と笑って、気分屋の典子を受け止めた。
「八人分だね。予備は要らないのか」
 栄太は念を押す。
 典子は冷たい目で栄太を見た。
「要らんよ。ほんまの身内だけしか呼んでへん。新郎のご両親とお友達、うちら三人だけ。新郎新婦もいれて、合計で八人やんか」
「そうだね」と栄太は微笑んだ。
 菜美は察した。
 理江さんの結婚披露宴に、典子は山野を招待しなかったようだ。理江さんも、おそらく典子に言われて、その指示に従ったのだろう。
 しかし、菜美は栄太の顔を見ていて何となく感じるのだ。
 栄太は山野に今夜の話を教えたのではないだろうか。会場の設営をする栄太は妙にうきうきしている。ひょっとしたら、山野がお祝いにやってくるかもしれない。

 座敷からの明かりや、縁側の柱に取り付けられた幾つものクリップライト。それらが夜の庭に光と輝きを与えている。
 不思議な夢のように幻想的ではなくて、現実世界の一部だと分かる庭の佇まいだった。これがこの村が持つ素朴な魅力なのだと、菜美は思うのだった。
 典子は縁側に小さな文机と電気スタンドを置いた。
「おばさん。今夜はちょっと冷えるけど」
 典子は文机のうえに霧子の写真をそっとのせると、電気スタンドのスイッチを入れた。
「理江さんの結婚披露宴やねん。理江さん、遠山町の自然のなかで披露宴するのが夢やってん」
 白く眩しい光が写真のなかの霧子を照らし出した。
「おばさんはええ顔してやんね。理江さんの結婚、喜んでんやろな」
 典子は泣きだしそうに顔を歪めながらも、菜美に大きく頷いてみせた。
「うん。おばさんらしい優しい顔やわ」
 菜美は心からそう言った。
 典子は文机をゆっくりと撫でている。
「おばさんには、ここに座ってもらうわ。この机は古うて傷あるけど、おばさんが若いときから使うてやったから」
 栄太が菜美に教える。
「お嬢さん。おばさんはこの机でね、いろいろな手紙を書いていたのですよ。なかには恋文もあったかと僕は思うのです。ロマンがありますね。しかし、この机は、幼かった典ちゃんの落書きでいっぱいなのだ」
「うるさいな」と典子が栄太を睨みつけた。
「とにかく、栄太君。理江さんのイメージ変えることは覚えていてな。元気な理江さんをバンバン出すつもり。理江さんは結婚してアンニュイ卒業するんやから、それを意識して動画撮ってや」
「分かりました。理江さんは今から、優しい旦那様との幸せをあの月光に誓うのですね。これまでは、寂しがり屋で無口な理江さんでした。恋の喜びを知ってからは、この村に咲く野の花そのままに、明るくて可愛い女性となったのですね。しかも、遠山川の流れのように清らかに透きとおったその心は、周りの人々への深い愛と感謝で溢れているのです」
 典子は眉をしかめた。
「栄太君の話は後から聞くわ。今は料理したいねん」
 典子はそう言い捨てると、菜美を手招きした。
「菜美さん。悪いけど、会場の掃除してくれへん。そのあとは料理な」
 栄太が慌てた。
「だめだ。お嬢さんは大切なゲストだよ。どうして掃除をさせるのさ」
 菜美は明るく笑った。
「私なら大丈夫やし。典子さん、かまへんから私に用事言うて」 
「だめだ。お嬢さんの代わりに僕が掃除するよ」
「掃除って、そんな大したことやないねんし」と典子が笑った。
「栄太君には動画撮る用意してほしいねん。理江さんが栄太君にホールでも動画撮ってほしいんやて」
「分かりましたよ」と栄太は上機嫌に笑っている。
「へらへら笑わんといて。笑いすぎて、失敗したらあかんねんで」
「僕が持つ美的感覚を駆使して背景を作りましょう。もちろん、撮影は全力でやります。失敗しても怒らないでくださいね」
 栄太は意気揚々と庭を出ていった。

 栄太が庭を離れると、それを待っていたかのように典子がげらげらと笑い出した。
「菜美さん。うちはもう、栄太君が可笑してたまらんわ」
「はあ」と菜美。
 典子が笑う理由が分からない。
「栄太君はうちに黙って、お父さんを披露宴に招待したみたいやね。それ、うちは何となく感じてんやわ。さっきからやたらと明かるう振舞ってんも、それを一生懸命に隠してるからやろな。うちにバレてんの、栄太君はまだ分かってへん」
 菜美は心底驚いた。
 それは、山野が披露宴にやって来ることだけではなかった。山野の話をする典子の顔と声が、意外にも明るいのだ。 
 とりあえず、菜美は重々しく頷き「そうなんですか」とだけ返事をした。
 典子は「うん。そやで」と自信たっぷりに頷いた。
「まあな、理江さんはあのひとに来てほしかったみたいや。あんなんでも、理江さんには大事な父親なんやね」
 典子の話に菜美は驚かない。両親が離婚するまでは、お父さんっ子の理江さんだった。
 理江さんは遠山町での思い出を菜美によく話してくれた。その話のなかに、山野はいつも優しい父親として登場するのだ。両親の離婚で山野は理江さんを置いて新しい妻のもとへ行った。それでも、優しかった父親を懐かしむ気持ちは、今も理江さんに残っているのだろう。

 ほろりとしている菜美に、典子は再び難しい顔を見せた。
「けど、勘違いせんといてや」
 その物言いも厳しくなっている。
「この家にあのひとが入んの、うちは死ぬまで認めへんで。けど、この土地と建物はあのひとの名義やし、理江さんの結婚でめでたい今夜はしゃあないわな。裏の木戸からこの庭までの数歩なら、ちょっとぐらい入れてもかまへん」
 典子は古い木戸を射るような目で見つめた。
「あのひと、正面玄関からこの家に入るなんてことは、もう無理になったわ。しつこう言うようやけど、うちは長女やからね、お母さんの苦労をよう知ってんねん。この家に来てからは、おばさんの苦労を見てる。しまいにあのひと、理江さん母娘まで捨てたんやし」
 激しい怒りをこめて話す典子だった。
 菜美は黙って典子の話を聞いている。両親のもとで何事もなく育った、呑気な自分なのだ。何も言わないほうが良いかと思っている。
 典子は言うのだ。
「菜美さんは幸せやで」
 典子との間に距離が出来たような気がして、菜美は狼狽してしまった。典子に悪気はないと分かっているが、菜美は身の縮む思いになっている。
 とりあえずは掃除だと、庭に置いたテーブルや椅子を新しいダスターで丁寧に拭き始める。
 椅子を並べながら菜美は考えた。
 新郎新婦、新郎のご両親と友人。そして典子、栄太、そして自分。これで、椅子は八脚になる。
 やはり、山野が座る椅子はないのだろうか。

 掃除の後で、菜美は典子について厨房へ行った。
 典子は栄太を呼んだ。
「栄太君、どこに居てんの」
 すぐに栄太はやって来て、厨房の前に立った。
「動画撮影の準備は終わりました。僕は着替えをしようかと考えています」
「それなら、次はうちらが着替えるわ」
「分かりましたよ」と栄太はスタジオへ急いだ。
栄太を見送ると、典子は菜美の肩をポンと叩いた。
「さ、盛り付けするで」
ほとんどの料理は出来上がっていたのだ。
「菜美さん。これ、庭に運んで」
典子は大皿にそれらを盛り付け始めた。

「わわわっ、庭が明るいやん」
 理江さんのはしゃぎ声が庭に響いた。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
 理江さんの横では、今夜の花婿とその両親が典子に頭を下げている。
「ほんまやね。来んの、遅かったんや」と理江さんは慌ててしまった。
「もう準備始まってたんや。菜美さんが掃除してるし。今夜の準備、理江はなんもしてないわ」
 典子は一生懸命に詫びる理江さんを面白そうに見ていた。
「何もせんでええよ。今日の理江さんは花嫁さんなんやから」
 理江さんは頬を染めた。
「披露宴はすぐに始めるけど、その前におばさんに挨拶しといてな。今日の昼に市役所行って入籍したこと、それもおばさんに言うときや」
 新夫婦は霧子の写真に手を合わせて、真摯に結婚の報告をするのだった。
 それを見守る典子は目を潤ませて「うちの妹の門出やわ」と菜美にささやいた。

 典子の携帯電話が鳴った。
「栄太君やわ。ホールの準備が出来たら連絡してって頼んでてん」
 典子は白い割烹着のポケットから携帯電話を取り出した。
「栄太君やね。理江さんも来やったし、うちらも着替えるわ。今からそっち行って動画撮ろと思てんねん。そのあと、庭で披露宴の」
 典子が突然に言葉を飲んだ。
 携帯電話を耳に当てたまま、そのまま庭の木戸を見据えている。
 理江さんが心配そうに典子の顔を覗き込んだ。
 山野がやって来たのだと菜美は緊張した。前もってそうと知っていても、いざとなると典子は戸惑ってしまったのか。
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