第11話

文字数 3,327文字

 「さあ、いよいよ展望台に着きましたよ」
 栄太に連れられて菜美はベランダの前に立った。
 薄汚れた水色のカーテンの向こうは、展望台とは名ばかりの場所だった。コンクリートの床に転がる紙屑や埃。室内からの明かりがそれらを灰色の床に浮かび上がらせている。風が吹くと、紙屑はかすかな音を立ててベランダの端へと飛ばされていく。その光景は夜の冷たさと寂しさを菜美に感じさせた。
 「見ての通り、展望台は埃だらけだ。最近は誰も掃除に来ていないからね。たまに理江さんが撮影に来て、その後で掃除してくれるぐらいだよ」
 菜美は相槌を打つ。
「おばさんと典子さん、毎日忙しいもんね。ベランダの掃除はまた今度、ってなるわな」
 栄太は笑った。
「おばさんはともかく、典ちゃんは掃除が苦手なんだ。あれは生まれついての掃除嫌いだよ。整理整頓も、典ちゃんはめんどいって言うんだ」
「私もや。掃除は好きやない」
 菜美は正直に言った。
 「どんだけ掃除したって、埃はすぐにたまるしな」
 「僕も埃は苦手だよ。意外と僕はきれい好きなんだ」
 そう言ってから、栄太は真面目な顔になった。
「しかし、お嬢さん。埃と湿気が似合う場所もあると僕は思っています」
 菜美はぽかんとした。『埃と湿気が似合う場所もある』という栄太の話に戸惑っている。
「高校時代に参加していたクラブの部室を、僕は時々思い出しています。壁や床はコンクリート打ちっぱなしの殺風景な部室でした。誰も掃除しなくて、あちこちが埃だらけでしたよ。しかも、水回りが近くて湿気もひどかった」
 栄太は懐かしそうに遠くを見た。その眼差しに、栄太は二十年前の日々を見つめているのだ。栄太は大人だと菜美は感じた。
 栄太は菜美に寂しく笑いかける。
 「お嬢さん。そんな部室でしたが、皆で合宿もしたのですよ。湿気の匂いを嗅ぎながらご飯も食べました。あの埃と湿気は、若くて元気な学生時代の証として僕の記憶に残ったのです。ここも青春時代に仲間と作った秘密基地なので、やはり埃と湿気が似合うのですよ」
「何となく分かるわ。私の高校も古かったからそんな感じやったよ」
 菜美が所属していたハイキング同好会の部室も埃っぽかった。菜美は高校生活の三年間、放課後の時間をそこで過ごしている。
「典ちゃんが掃除嫌いの整理整頓しないひとで良かったよ。もう古いからと言って、大切なゲームソフトや攻略本を捨てられたら大変だよ」と栄太は明るく笑う。
「高校時代の僕は遠山食堂に通っていた。クラブの帰りに友達と行っていたよ」
 菜美は室内を振り返った。
「そんな写真があちこちの壁にあったね。おじさんと典子さんが写ってた。典子さん、昔から美人やね」
「保育園時代から可愛くて目だっていたよ。典ちゃんは本当の美少女でね、高校のときは他の学年でも有名になっていた。典ちゃんの顔を見るために、男子生徒は高校の帰りに遠山食堂でだべったのさ。典ちゃんはホールでおばさんの手伝いをしていたからね」
 それほどの美少女だったという典子を、菜美は羨ましいと思った。また、栄太は典子を好きだったかとも考えるのだった。
「僕は典ちゃんをずっと前から知っていたし、そのうちに僕の友達も典ちゃんと仲良くなったんだ。僕らは二階の倉庫でゲームをして遊ぶようになった。典ちゃんが自分の家に帰った日は寂しかったよ」
 菜美は不思議に思った。
「おじさん、なんで典子さんの家って言うたん。典子さんの家は遠山食堂やんか」
 栄太は微笑み、ゆっくりと頷いた。
「典ちゃんはおばさんの親戚の子なんだ。小学校を卒業してから、典ちゃんは遠山食堂で暮らすことになった。典ちゃんの家族は七人だったのに、家が本当に狭くて大変だったからね。ここなら中学校と高校に近くて便利し、おばさんも典ちゃんを可愛がっていた。そうして、長女の典ちゃんは高校卒業までここで暮らしたわけだ。倉庫と隣の小部屋が典ちゃんの部屋になった。倉庫に置いていた古い什器は処分したり、物置に入れたりしたんだ」
 菜美は驚いて栄太の顔を見上げた。
「そうなんや。私、典子さんはおばさんの娘さんかと思てたんよ」
「いや、違うよ。典ちゃんの実家は『大遠山町』だよ。ここよりもっと山の中にあるんだ。ここからはバスで二駅だったかな」
 菜美は不安になっている。遠山食堂の人々の過去を覗いてしまった。
「私、余計なことを言うたんかな」
「いや、気にしなくていいと思う。あの頃の典ちゃんは幸せだったと思うよ。ここを出て大阪に行ってからも、帰省した典ちゃんはおばさんに会いに行っていた」
 栄太は何かを考えながら話している。
「大阪から帰ってきた典ちゃんは行くところがなかった。実家にはもう誰も住んでいなかったんだ。典ちゃんの妹さんたちは結婚して京都や神戸に行ったきりだからね。それで、遠山食堂で昔のようにおばさんと暮らすことになった。おばさんも独りでいたから寂しかったんだ」
「そうなんや」と菜美は下を向いた。
 やはり、典子のプライベートを聞いてはいけなかったと反省している。詳しいことを栄太は語らないが、典子の人生は波乱に富んだものだと菜美には感じられた。
「少し喋り過ぎました。僕はお嬢さんに気を許していますから」と栄太は寂しげに微笑んだ。
 菜美はにっこりした。
「おじさんからさっき聞いたこと、もう忘れてるわ」
 栄太は大きく頷いた。
「では、一緒に空を見ましょう。今夜の遠山町はロマンスに溢れている」
 栄太があまりに優しい顔をしているから、菜美は胸がどきどきしてきた。栄太の愛情を感じて、自分でそうと分かるぐらいに頬を赤らめてしまっている。
「さあ、お嬢さん」と栄太が菜美に手を差し伸べた。
 「危なっ」
 菜美は思わず栄太の手をはらった。
「おじさん。その手、どっかに置いといてくれへんかな」
 菜美は焦った。展望台で栄太に抱きしめられるような気がする。栄太が自分の「運命の人」だと分かっているが、まだ心の準備が出来ていなかった。
 菜美に拒否されて栄太は溜め息をついた。
「ここからの眺めに圧倒されて、お嬢さんは立っていられないはず。だから僕は手を差し出したのです」
 手を差し出したまま困惑している栄太。
「立ってられんかったら、私、座ってみるしな」
 栄太はとうとう手を引っ込めた。残念そうに呟く。
「いやはや、このお嬢さんにはロマンスのかけらもないんだ」
 室内からパイプ椅子を栄太は出してきた。
「仕方がない。座るところを用意します」と言うと、せっせと手で拭きはじめる。
 頑固な汚れに栄太はぼやいた。
 「えらい汚れてんな。こんだけこすっても落ちへんやんか」
 菜美は吹き出した。
 「おじさん。無理に大阪弁使わんだってええよ」
 栄太の大阪弁に菜美の緊張がほぐれた。菜美はバッグからポケットティッシュを取り出す。
「有難う、おじさん。私も拭くし」と菜美が手伝おうとしたそのとき、
「あははは」
 突然に大きな笑い声が聞こえてきた。
「あんたら、椅子をせっせと拭いてるだけかいな。せっかくのロマンチックが逃げて行くで」
 菜美が振り返ると、すぐ後ろで典子が笑っていた。
 「ひどいぞ。僕らの話を聞いてたな」
 栄太は典子を責めたが、その顔はどこかでこの状況を面白がっている。
「お茶の時間やから呼びに来てん。立ち聞きしたんは、たまたまやで。まあ、そんな調子やったら恋を語るんは難しいわな」
 栄太は胸を張った。
「勘違いしてるな、典ちゃんは。僕はお嬢さんと恋を語りたかったわけじゃないんだ」
「聞いて、典子さん」
 今度も菜美は栄太に負けていない。菜美も胸を張って言い切った。
「私もおじさんと恋を語りたかったわけやないんよ」
 そのとたん、典子は爆笑した。
「あんたら、めでたいわ。似たもん同志やんか。相性あるんちゃうの」
 菜美は叫んだ。
「ないっ。おじさんと私の相性、どこ探したってないっ」
「お嬢さん、それはひどいです」
 栄太は眉をしかめた。栄太の顔を見た典子が叫ぶ。
「痛恨の一撃!」
「典ちゃん。ゲームの話じゃないんだよ」
 栄太の情けない声に、菜美は涙が出るほど笑った。





 ※
 すみません。今回もドラゴンクエストから勝手に、『痛恨の一撃』という言葉をお借りしました。
 私はゲームが大好きでした。
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