第19話

文字数 4,739文字

 それから一年と数ヶ月後の夏。
 菜美は遠山町を訪問することにした。この春から体調を崩している霧子を見舞うためだ。
 遠山町へ行くと話したら、母と兄は困惑した。菜美が栄太に会いに行くと二人は思ったようだ。
 「だらだら付き合うてる。けじめもなんもないやん。林さんと結婚すんの、どうすんの」
 母に詰問されて、仕方なく菜美は答えた。
 「おじさんのことは好きやけど、結婚の予定はないわ。けど、誰かと結婚せなあかんのやったら、私にはおじさんが一番の候補やねん」
 母と兄は妙な顔をしている。菜美は栄太への正直な気持ちを二人に話した。
 「あのね。私、おじさんとの付き合いは恋愛だけやないと思てる。もっと広くて深い何かやねん。とにかくな、遠山町という場所が私を呼んでんの。私は遠山町自体に縁があるんよね」
 菜美はそのようなことを言って、ますます母と兄を困らせた。
 実際に、遠山町で出会った人々は菜美に大きな影響を与えている。自分で驚くほど、菜美は物事への考え方が変わってきた。それが自分にとって、良いことなのかどうかは分からない。そのようなこともあって、遠山町にどんどんのめり込んでいく自分が怖いと思うときもある。
 それでも、JRの京都駅で遠山町行きの切符を買ったとき、菜美の心は温かい何かで満たされた。幸せな気持ちで菜美は山陰線のホームに向かった。

 遠山町で菜美はバスを降りた。
 今回は遠山食堂ではなく、栄太の家を訪問することになっている。今年の三月、砂利道に沿ったあの土地に栄太は家を建てた。かなり広い家だという。遊歩道に近くて眺めもよく、理江さんの話では、栄太は満足している。
 ただ、バスが走る道からは少し遠かった。その家まで、二十分以上も歩かねばならない。
 「ああ、しんど」
 砂利道を歩きながら菜美はぼやいた。次々と流れる汗が顔や首筋を伝っていく。途中で立ち止まり、ペットボトルのお茶を飲んだ。
 そんな状況だが、菜美の気分は高揚している。舗装された道路とは違う感触を菜美は楽しんでいた。それは足の裏にだけではなく、全身に感じられるものだった。手に取れば熱い砂利を踏む自分の足音に、今から始まる何かを菜美は予感せずにはいられない。人生が変わるような気がするのだ
 二階建ての大きな民家の前に菜美は立った。タオルハンカチはもう、すっかり湿ってしまっている。
 「今日は。菜美です」
 玄関チャイムを鳴らしたが、返事がない。菜美は大きな声で「すみませーん」と呼びかけてみた。
 静かな土地に蝉の鳴く音が煩いほどに聞こえてくる。庭の土も眩しい太陽に照らされて白っぽく乾いていた。いかにも梅雨が明けた七月の昼下がりだ。
 「久しぶり、菜美さん。何ヵ月ぶりやろな」
 玄関の引戸が勢いよく開いて、典子が現れた。藍色のホームドレスに赤いつっかけというラフで涼しげな格好をしている。
 「まあ、上がって。栄太君の家やねんけど」
 「お邪魔します」
 菜美は上がり框に腰かけて運動靴を脱いだ。
 傍らに木製の衝立がある。それのほとんどは障子になっていて、落ち着いた雰囲気があった。広い玄関土間と板を張った廊下。家の奥からは風鈴の澄んだ音が聞こえてきて、いかにも日本の夏だと菜美の心が和んだ。履いている白いスニーカーソックスも脱いで、じかに清々しい畳に触れてみたい。
 「新築のこの家、栄太君はただで貸してくれたわ。いくらなんでも厚かまし過ぎて、うちは遠慮したんよ。けど、病気のおばさんのためやからって、栄太君が言うてくれてん」
 栄太らしい話だと菜美は微笑んだ。
 「おじさんは優しいから、ほんとにびっくりしますね」
 「ほんまにびっくりしたわ」
 典子は少し難しい顔になった。
 「結局はうちも甘えたけど。栄太君は自分の家を他人にただで貸すんかって思たわ」
 「典子さんだから、おじさんは安心してこの家を貸せたと思います」
 「とりあえず、スリッパな。履いてや」
 典子は菜美に来客用の室内スリッパをすすめた。
 「このスリッパな」と典子はいたずらっぽく笑う。
 「物入れにまだまだあんねんで。栄太君、これを色違いで買い込みやってん」
 菜美はすぐにその意味を理解した。
 「おじさん、ここに沢山のひとが来ることを考えてるんですね」
 典子は苦笑した。
 「解放された明るい家を栄太君は目指している。うちは何とも言えんけどな。そやろ、栄太君はお人好しすぎると思わへんか。誰にでも家を解放するなんてなあ。現に世話になってるうちが言うたらあかんけど、それって危ないんちゃうの」
 そうではないと思う菜美は返事に困った。寂しい思いをしているひとを栄太は放っておけないのだ。他にも、栄太が熱を込めて話していたことがあった。ひとは穏やかな日々のなかで人生の終わりを迎えたいものだ。その手助けが自分の使命だと考えていると。
 菜美はその話を思い返した。間違いない。その第一歩として、栄太はこの家を建てたのだ。そんな栄太を素晴らしいと菜美は心から思っている。
 「この村を大切に思っていると、おじさんは話してました。おじさんは村のひとも大切にしています」
 菜美の思いを典子は分かったようだ。
 「ごめんな。自分も栄太君の世話になってんのに、余計なこと言うたわ。この何もない村、うちにとっても大切な故郷やしね」
「すみません。典子さんの話は余計なことじゃないです」
 菜美は急いで謝った。
 「ううん。菜美さんは栄太君を理解して話してるんやね。うちは冷たい人間かもな」
 典子に言いすぎたかと菜美は後悔した。不安な顔をしている菜美に、典子は明るい声で話しかける。
 「宅急便で来た荷物は客間に置いたわ。良かったらおばさんに会うて。菜美さんを待ってやった」
 典子に案内されて、菜美は衝立の向こうの広い和室を抜け、その奥にある部屋に入った。蝉の声がこの部屋にも聞こえてくるから、菜美は少し驚いている。
 典子が霧子に声をかけた。
「おばさん。菜美さんやで」
 「菜美です。お部屋に入らせてください」
 そこは昔風な和室だった。箪笥と鏡台がひっそりと置かれている。その部屋に敷かれた布団に霧子は横になり、静かに天井を見つめていた。
 「おばさん。お久しぶりです」
 霧子は菜美を見て嬉しそうな、しかし力のない笑を浮かべた。そのやつれように菜美の胸は詰まったが、以前のように明るく話しかけた。
 「もっと早く来たかったんです。おじさんが蛍を見においでって、前から何度も言ってくれてたし。でも、家や仕事の都合で今頃になりました」
 霧子は微笑んだ。菜美への愛情がその目に表れていた。
 「栄太君は菜美さんと一緒やったら、蛍でも何でもかまへんのよ。おばさんもそう思うやろ」
 典子も明るく話している。
 「おばさん。菜美さんがお土産にお菓子と果物くれたわ」
 霧子はかすれ気味の声で礼を言った。
 「いつもありがとう」
 「そんなん、全然。私こそ何日も泊めて貰えて嬉しいです。皆に会うのが楽しみでした」
 典子が菜美の手をそっと引っ張った。
 「おばさんは暑なってから疲れ気味やねん。昔から夏に弱いんや。菜美さん、後からまた話しに来たらええわ。栄太君と理江さんも店からそろそろ帰ってくるし」
 菜美は自分のうかつさに気がついた。霧子の弱った体には、長く会話することも負担になるのだ。
 「おばさん。今から菜美さんを庭に案内してくるわ。花が咲いて綺麗やら」
 菜美も霧子に小さく手を振って笑いかける。
 「そしたら、おばさん。また後でね」
 霧子の部屋を出たあと、菜美は典子に誘われて庭へ行った。
 「菜美さん。ここで休んどいて」
 典子は縁側の前で立ち止まる。
 「お茶の用意してくるわ。それまで、栄太君が頑張ってる畑でも見たって。もう、日に焼けて顔も黒うなりやったよ」
 菜美は沓脱石から縁側に上ると、い草の座布団に大人しく座った。栄太の野菜畑を眺める。
 やつれた霧子の顔が気になって仕方ないが、畑を見てからは心のどこかは幸せになってきている。そんな自分を不謹慎だと菜美は思うのだった。栄太のことを考えるのを避けようと、菜美は畑で育っている野菜の名前を当てることにした。
 緑の葉に少し隠れて見えている黄色い花。あれは南瓜、いや胡瓜だったかも。南瓜の花を以前に見たことがあって、その色を懸命に菜美は思い出そうとしている。ひょっとしたら、茄子の花かとも思うのだ。
 畑の近くに行って確かめることにしたが、「これはあかん」と菜美は急いで引き返す。すぐ近くで羽音がしている。庭に大きな蜂が飛んでいた。刺されたら大変だ。しかし、あの黄色い花も気になって仕方がない。畑の向こう側に回れば蜂は寄って来ないかもしれない。
 「菜美さん。何でうろうろしてんの。帽子も被らんと外にいてたら、日に焼けるで」
 座敷を振り返ると、典子が菜美を見て笑っていた。冷えた番茶と三角に切ったスイカを載せた盆を手に持っている。
 「帽子ぐらい被らな、すぐに日焼けしてまう。菜美さん、不用心やな」
 「花が気になったんよ。典子さん、黄色の花は茄子ではないやんね」
 「茄子の花なら紫やね。ま、今は座ってお茶飲んで」
 典子に勧められて、菜美はまた縁側に上がった。
「おばさん、弱ってたやろ」
 典子は黄色い花を見つめ、菜美に尋ねた。
「はい、ちょっとだけ」
 菜美も黄色い花を見つめて答えた。
 少しの沈黙の後、典子はスイカを食べながら話し始めた。
 「おばさんって立派やねん」
 典子はスイカの黒い種を庭先に捨てた。
 「ひとのために生きてきたひとや」
 菜美もそう思う。霧子は愛情深い性格をしているし、包容力があった。
 「ほんまやったら、長男のお父さんが家業を受け継ぐやんか。それやのに、お父さんは妹のおばさんにあの店を押しつけたわ。お父さんて、何につけても無責任なひとやってん。結局、おばさんは結婚もせんと店が潰れんように頑張ったわ。それだけやない。二番めの奥さんの子のうちを、自分から引き取って育ててくれた。大学まで行かせてくれたんよ。言い方は悪いけど、おばさんは何かとお父さんの犠牲になったとうちは思てる。おばさんの優しさにお礼がしたいねん。そやから、おばさんに守ってきた店はうちが引き継ぐつもり」
 菜美は大きく何度も頷いた。言葉では上手に表現できないから、そうやって典子に自分の気持ちを伝えたつもりだ。
「栄太君と理江さんが協力してくれてる。けど、理江さんは家事が苦手やわ。きれいに着飾って人前でにっこりするんが、あの子の性に合うてる」
 「ギリシャ神話のシリーズが好評でしたね」
 叙情的な呟きを聞かせる美人ブロガーとして、理江さんの人気は衰えることがない。
「あれの新シリーズを企画はしたんよ。けど、今の山野家は大変な時期やから延期してる。おばさんの健康がとにかく大事」
 菜美はこの話を理江さんからも聞いていた。典子は遠山食堂の営業で忙しい。その為、理江さんが家事や霧子の看病をすることになった。それだけではない。典子が遠山食堂から休憩に戻っている間は、理江さんと栄太の二人は店で仕込みと掃除をしている。そんなわけで、理江さんはブログの更新を以前ほど出来なくなった。
 「さっきは嫌なことも言うたけど、栄太君がこの家を貸してくれて感謝はしてるんよ。おばさんはこんな家で暮らしたかったはず。長いこと、店の奥の狭い部屋で寝起きしてやったから」
 典子は唇を噛みしめ、自分の足もとの地面を見つめた。
 「この土をおばさんに踏ませてあげたいねん。お日さん、浴びてな」
 典子は顔を両手でおおった。
 そんな典子の傍らにいて、菜美は蝉の声を聞くことしか出来なかった。手に持ったままのスイカから、薄い赤色の果汁が菜美の膝にこぼれた。
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