第31話

文字数 3,870文字

 霧子の葬儀が終わった。
 典子や理江さんには挨拶だけをして、今から大阪に戻るつもりだ。近いうちに遠山町を訪問しようとは思っている。悲しみに沈んでいる典子達の力になりたいのだ。
 
 菜美は寺の庭に出た。
 眩しい。
 太陽からの眩しい光を浴びて、庭に植えられている樹々は風に緑の葉を揺らしている。
 それは、霧子の葬儀が終わったばかりだとは思えない光景だった。しかし、今の自分が着ているのは喪服であり、履いているのは黒くて地味なパンプスなのだ。空の青さも、霧子の死も、全てが現実だった。日頃は元気な典子や理江さんの姿を見た菜美は暗然としてしまった。典子と理江さんは生気を失っていると、強く感じたのだ。
 遠山町はもう、自分が初めて来た頃とは違う場所になっていくような気もしたのだ。霧子がいた今までの日々は帰ってこないのだから。

 栄太が急いで菜美に近づいてきた。
「お嬢さん。駅まで送りますよ」
 重い荷物を両手に提げている菜美を栄太は気遣っている。
「今日中に持って帰らなければいけないですか。お嬢さんもお疲れだ。大阪は遠いからね、身軽な方が良いと思うよ。その荷物は僕のコンビニから大阪に送りますよ」
 菜美は迷った。たしかに荷物は重かった。霧子の訃報を聞いて、その辺りにあるものを手当たり次第に鞄に詰め込んでいる。
 栄太は心配そうに菜美の顔を覗きこんだ。
「顔がむくんでいる。昨夜は寝ていませんね。無理をしてはいけない」
 迷ったが、菜美は栄太の申し出を断った。気分がどうしても晴れなくて、ひとりで居たいと思っている。
「無理してない。今日は特急に乗るし、汗かいた着替えは家帰ってすぐに洗いたいねん」
 栄太はがっかりしたようだ。表情が曇っている。
「そうですか。僕はやる気に溢れていましたが、お嬢さんが嫌なら仕方がないですね。では、駅まで僕の車で送ります」
 菜美は愛想笑いを浮かべた。
「あ、もう大丈夫。私ひとりで帰れるし、もうすぐ遠山市駅行きのバスが来るから」
「分かりました」
 栄太はそれ以上は何も言わなかった。

 遠山市駅のホームに立った。
 荷物をベンチに置くと、菜美は「はあっ、重い」と大きな息を吐いた。栄太の言う通りにすれば良かったと後悔している。今日も暑くて、鞄を提げる手も汗ばんでいる。力を入れて取っ手を持たないと、鞄を床に落としてしまいそうなのだ。
 何か冷たいものを買っておこう。水分補給は大切である。今もこれほどに汗をかいているのだ。
 自販機の前で考えた。
 お茶とコーラを一本ずつ買おうか、それとも、水とアイスコーヒーにしようか。
 迷っていると、声をかけられた。
「菜美さん。またお会いしましたね」

 振り向いた菜美に山野が一礼をした。
「山野さんですか。ほんと、よくお会いしますね。こんなに偶然だとびっくりします。まあ、大阪行きの電車は少ないけど」
 山野は照れたように笑った。
「貴方は本当に正直なひとですね。嘘をつけない性格なのだと思います」
 菜美はまごつく。
 これは褒められているのではなく、思ったことを言う自分の性格を山野は話しているのだろう。少し勇気が要ったが、菜美は山野にはっきりと言った。
「だって、凄い偶然だからびっくりしたんです。同じ電車なら普通の偶然で、ホームや車両が一緒やったら偶然を超えてると思います。山野さんに後をつけられたとか、そんな意味ではないけど」
「その通りだ」と山野は笑った。
「偶然を装いましたが、菜美さんはそうと分かってしまったようです。ばれたら仕方がないですね。本当のことを言いましょう。どうしても話したいことがあって、私は菜美さんを追ってきたのです」
 菜美は重苦しい気分になった。山野が話そうとしていることは内容が重いようだ。
「話したいことって、何なのですか」
 山野はズボンのポケットから小銭入れを取り出した。
「まあ、その前に何か飲み物を買いましょうか」
 菜美の顔に笑みが浮かんだ。
「ほんまに。山野さんが来たから、私はびっくりして飲み物を忘れてたわ」
 山野は菜美のためにコーラを、自分が飲むためにはミルクセーキを買った。
「座って飲みましょう」
 山野の隣に座ることに少し抵抗を感じていた。
 それなのに、山野が「さあ、ここに」と言ったら、菜美は即座に腰をおろしてしまったのだ。それは、山野の所作がいかにも紳士だと感じたからなのかもしれない。

「霧子は昔からこれが好きでした。まだ若かった頃の話です。一緒に喫茶店へ行ったら、ミルクセーキばかりを頼んでいましたね。そんな霧子を私は可愛いと思ったものですよ」
 喫茶店でミルクセーキを飲む若い霧子。それを見守る、やはり若い山野の姿。そんな二人の姿を想像して、菜美は優しい気持ちになった。
「一緒に喫茶店に行くなんて、仲のよい兄妹なんですね」
 ミルクセーキの缶を見つめ、山野がぽつんと言った。
「私は情けない兄なのです。可愛い妹に、最後まで何もしてやれなかった。今も霧子の思い出話しか、私には出来ない」
 菜美は黙った。山野が奔放な行動ばかりするから、妹の霧子が苦労した話を知っている。山野に関しての良い噂は聞いたことがなかった。
 ミルクセーキを飲みながら山野は苦々しく言うのだった。
「その話は今は止めますね。電車が来るまでに、菜美さんに話しておきたいことがあるからです」
 菜美は頷いた。二十分もすれば、大阪行きの電車がこのホームに入ってくる。

「余計なお節介だと思うでしょうね。しかし、これは私の勝手なお願いです」
 菜美は緊張した。山野のお願いが何となく想像できる。
「栄太君と別れた話を本人から聞きました」
 菜美は「やっぱりな」と呟いた。
「付き合うとか別れるとか、それは菜美さんの自由ですが」
 菜美は山野を制した。栄太のことは考えないことにしている。
「そうです。もう、私は別れる気でいます。だいたい、おじさんから別れたいって言うたんですよ」
 山野は笑った。
「そんな話はしていない。栄太君の生き方を菜美さんに分かってほしいだけですよ。そして、典子や理江のためにも、これからも遠山町に来てほしいと思っているのです」
 菜美は無愛想に答えた。
「そういう話も私は苦手なんです」
 山野は大声で笑いだした。
「いやはや、今日の菜美さんは鉄の塊のようだな。私の話を跳ね返しています」
 菜美は驚いた。
 『いやはや』は栄太のくちぐせなのだ。山野はさっき『いやはや』という言葉を使ったが、それはただの偶然なのだろうか。そう言えば、山野の話し方は栄太のそれとよく似ている。
 山野は飲み終えたミルクセーキを空き缶入れにぽんと捨てた。
「話はもう止めましょう。ただ、これだけは分かってください。彼は夢を追い続ける男なのですよ」
「知ってます」と菜美は冷ややかに答えた。
 栄太とのことは、誰にも触れられたくなかった。ましてや、自分は山野との付き合いがないのだ。
 山野は菜美の不機嫌な顔を見たが、構わずに話を続けるのだった。
「しかし、さまざまな夢があるというのに、自分に与えられた時間は少ないものです」
 菜美はむきになって山野に言い返した。
「そんなこと、おじさん自身から聞いてます。夢を選んだのはおじさんの自由。でも、私の気持ちや立場を無視して別れる決心したんやからね」

 山野は菜美を見つめた。
 菜美はたじろいだ。山野の目には暗くて深い色があり、それは哀愁や何かへの怒りを含んだものだった。
「栄太君は自分と菜美さんと並べて、第三者としての考えで別れを決めたのですよ。客観的であり、自分の感情にとらわれない判断でした。見事でしたよ。それこそが菜美さんへの彼なりの愛情なのです」
 菜美は口ごもった。
「そんなややこしい話し方されたら、私は何も分からなくなるから」
 山野は静かに笑った。さっき見た暗くて深いものはそこから消えている。
「自分がこれから大変な苦労をすると彼は考えています。そんな自分と結婚すれば、菜美さんにも苦労をかけるだけだと彼は悩みました。それに、若い菜美さんには人生の選択肢が多く、未来へのいろいろ可能性があります。彼はそれを尊重して、菜美さんを自分と違う道へと送り出したのです」
 菜美は考え込んでしまった。
「苦労から私を自由にしたって言うけど、そんなん、やってみな分からへんやんね」
  山野は微笑んだ。
「彼は私を反面教師としたのですよ」
 不思議そうに山野を見る菜美だった。
「意味が分からんわ」
「彼とは何故か気が合ってね。多分、二人は似たところがあるからですよ。典子達を捨てた父親は私だと、彼は知っていますけどね」
「そうやったんや」としか菜美は言えなかった。
「私は典子の母親を愛していましたが、気が強くて結婚する対象ではなかったのです。理江の母親は大人しくて従順だったから結婚しました。自分の夢を叶えたい私は自己主張の強い女は受け入れられなかったので」
 山野は菜美に言うのだった。
「私は勝手な男ですからね。菜美さんもそう思っているでしょう」
 はっきりした返事はしなかったが、一番気になることを菜美は聞いてみた。
「それならなぜ、典子さんのお母さんと付き合ったのですか」
「向こうから私を好きになりました。結婚はしませんでしたが、事実上の夫婦でしたよ。料理が上手で明るい女だったのです。それが、自分の夢を私が話したときに『非現実的で自分勝手な計画』と罵りました。それが許せなかったのです。あれは、典子とそっくりでしたよ、性格がね」
 菜美は聞き返した。
「それでは、山野さんも夢を追っていたのですか」
 山野はゆっくり微笑むのだった。


 



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み